7-6 (幸せになる覚悟)

 百九十センチを超える長身が、自動ドアを潜り抜けてエントランスに姿を現した。見慣れているはずなのに、いつ見ても目を奪われてしまう。黒い髪はすっかり乱れて、よれてしまった白いシャツと黒のスラックスはいつもより格段にくすんで見えた。大変な一日だった、ぼくにとってもあいつにとっても。それでも、まっすぐな姿勢と落ち着いた足取りは否応なくぼくの視線を惹きつける。

 いつものように怒ってぼくの元に押しかけてきてくれたのだろうか、と思った。

 それなら、ぼくとしては好都合だ。彼が、ブライアンがまだぼくと話をしてくれる気でいてくれるなら、あいつの口うるさい説教を百時間聞いていたって構わない気分だったから。

 けれどすぐに、ぼくは自分の考えを否定する。彼の表情にはほんのひとかけらの苛立ちも、怒りもなかった。端正さの際立つ静かな表情に、直前までの勢いが急速に萎んでいく。それでも勇気を振り絞って声をかけようかどうか迷い、結局ぼくはメッセージを入力したままの端末をポケットにしまう。

 ぼくが棒立ちになっている間にも、ブライアンがまっすぐにレセプションへと歩み寄り、メーガンに向かって何かを話し始めていた。

 少し迷いながらもゆっくりと二人に近づき、ぼくは男の後ろで足を止める。

「もちろん二人の仲はよく知っているけれど——でも彼が部屋にいるかどうかは教えられないし、キーがなければエレベーターを使うことはできないわ」

「ああ、分かっている」

 困ったように微笑むメーガンに、ブライアンが穏やかに答えた。

「あいつが無事に、家に帰り着いたのかが分かればいいんだ。あなたが、あいつは無事だと考えているのならきっとその通りなんだろう」

 メーガンが目を細めて口角を上げた。そのまましばらくブライアンの様子を観察し、やがてため息をつきながら首を振った。

「ねえ、余計なお世話だとは思うけれど。ルークだってちょっと落ち着いたら、あなたのメッセージにきちんと返信をよこすわよ。返信がないことを、あまり深刻に受け止める必要はないんじゃないかしら」

「いや、あいつはもう、おれのメッセージを見ようとはしないかもしれない」

 その声には、先ほどまでの思いつめた響きは見当たらなかった。余裕のある落ち着いたバリトン。けれどぼくにははっきりと分かった。彼はもう、ぼくと永遠に会えない可能性だってきちんと受け入れている。……いつだってぼくの幼なじみは、いくら口では文句を言ったって、最後にはぼくの望みを叶えてくれるんだ。

 メーガンがブライアンの言葉に少し考えるそぶりを見せた。そして、こんな時間でも少しも色落ちしていない鮮やかな唇を持ち上げる。

「それなら、わたしがあなたの伝言を預かるというのはどうかしら。たとえあの子があなたのメッセージを読まなくても、どれだけあなたから逃げ回っても、預かった言葉は必ず伝えるわ。約束する」

 少しだけ沈黙があった。やがて答えたブライアンの声は、ためらうように少しうわずっていた。

「ありがたいよ。お願いしてもいいだろうか」

 メーガンが、アイラインに縁取られた目を瞬かせて先を促す。

「あいつには、しばらくの間は周囲に気をつけて、体を大事にするように伝えてくれ。まだ、完全に危険が去ったとは言い切れない状況で……」

 淡々と口にしたブライアンが、すぐにその黒髪を横に降る。

「いや、違うな。おれは本当はあいつが自分で自分の面倒くらい見られることも、自分の決断に結局最後にはきちんと責任を取るやつだということも知ってるんだ。——おれとは真逆だ。いつも誰かを言い訳にして、自分の身に起こったことを受け止められなかったおれとは」

 幼なじみの言葉に、ぼくはただ黙って耳を傾けていた。ぼくの姿に気づいているはずのメーガンは、彼に向かって優しく微笑んだまま表情を変えない。

 ブライアンが続ける。

「あいつは三年前おれを好きだと言ってくれた。けれどおれはあいつが好きだと言ってくれた男が——おれは、おれ自身が大嫌いだった。世間や周囲がおれに期待する姿を勝手に演じ続けて、期待に応えることが強さだと勘違いして、気づいたらおれの中には何一つ積み上がっていなかった。もしもあの時おれの人生にあいつがいてくれなかったら、おれはきっと、自分自身を嫌悪するあまりに全てを憎むような人間になっていたと思う」

 想像したことすらなかった幼なじみの激しい言葉に、ぼくは息を飲んだ。言葉を失うぼくの目の前で、乱れた黒髪が左右に揺れる。

「……余計なことを言った。あなたにはどうも話しすぎるな」

「光栄よ。続けてちょうだい」

 表情は見えなかったけれど、彼の広い背中からふっと力が抜けたのが分かった。それまでとは打って変わった、穏やかな口調で続ける。

「メーガン、どうかあいつに伝えてほしい。お前がおれといられないというのであれば、今度こそそれを受け入れるよ。お前には笑って生きてほしい。おれとの記憶がお前の幸せに不要ならば忘れてくれていい。お前がくれたたくさんのものは、それでもおれの中からなくなりはしないから」

 自分のために紡がれた男の言葉の数々が、かつてあまりにも眩しくて直視できなかった祈りと重なる。

 ——どうかあの子が安らかでありますように。わたしのことは恨んでもいい、いらない記憶なら忘れてしまってもいいの。ただあの子が今はもう、暖かいものにだけ囲まれていてくれるのなら。

 背後のぼくに少しも気づかないまま、ブライアンはぼくへ愛の言葉を紡ぎ続ける。

「一人で何もかも諦めたりしないで、どうか誰よりも幸せでいてくれ。——今までおれの幼なじみでいてくれて、本当にありがとう」

 彼の言葉を聞き終えてもなお、ぼくはただ立ち尽くすことしかできなかった。胸の奥から溢れ出る何かに翻弄され、指の一本すら動かせる気がしない。

 そんなぼくを視界の隅で観察していたメーガンが、やがてため息混じりにそっと口を開く。

「……あなたたちの間に何があったのかは知らないわ。でもこの言葉は本物よ。わたしにだってわかる」

 そういって、少し潤んだ優しい目をぼくに向けた。

「もう許してあげたら? わたし、こんなに美しい言葉を聞いたの、生まれて初めてよ……」

 ブライアンが、何かに気づいたようにはっと振り返り、男が完全にこちらを向く前に、ぼくはその広い背中に飛び込んでいた。言葉にできない思いが胸から溢れて、ぼくはただただ指先に力を込めて男を抱きしめることしかできなかった。

「ルーク……」

 指先に、さらに力がこもる。必死にしがみつくそんなぼくの両手を、ブライアンの大きな手がそっと包み込んで暖めた。自分が世界で最も貴重な宝物にでもなったんじゃないかと錯覚させられるほどの、繊細な優しさがそこにはあった。

 いつだってブライアンは、ぼくのことを考えてくれた。ぼくを心配してくれた。ぼくのことを思ってくれた。過去の傷にしがみついて安全地帯で逃げ回るぼくを、彼はずっと待っていてくれたのに。——世界中の人の幸せを、今この瞬間心から祈りたいと思った。この世界に溢れる慈悲というものに、ただ深く跪いて頭を垂れたい。

「続きは部屋でやってちょうだい。鍵の場所はもう教えないわよ」

 呆れ混じりのメーガンの言葉に、ブライアンが聞いたことがないような静かな声で答える。

「……ありがとうメーガン。いつでもこいつの味方でいてくれて」

 その時、彼はどんな顔をしていたのだろう。

 メーガンが少しの間黙りこくった後で、ぼくに向かってぼそりと呟いた。

「あなたも苦労するわ、ルーク。こんないい男相手じゃね。いい気味だわ」

 その言葉に、世界一かっこいい男の背中に顔をうずめたまま、ぼくはいつの間にか心からの笑みを浮かべていた。

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