プロローグ

 暗闇の中で、テーブルを叩く振動音と共に、ぼうっと光が浮かび上がった。

 男の腕がためらいもなく伸びて、その光を掴み取る。そして、ぼくを扱うよりもずっと優しい手つきで光をタップし、それを耳に当てた。

「やあ、久しぶりだね? ――いや、別に構わないよ。続けてくれ」

 そして、ぼくが見上げるその視線の先で、男が平然と通話を始める。自分が組み敷いている人間への気遣いなど、そこにはひとかけらも感じられなかった。

 彼が下敷きにしている相手が『普通の』感覚を持った人間であったなら、蹴りの一つでも食らわせて、そのままこの暗い部屋から永遠に立ち去ったのかもしれない。

 頭の片隅に浮かんだそんな想像とは裏腹に、ぼくの芯の部分が、急速に熱を帯びていく。

 現金なものだ。それまで惰性で熱を求め、そのくせどこまでも冷えたままだったこの体は、呆れるほどに自分の欲望に忠実だ――物のように扱われたかった。価値のないものとしてぞんざいに組み敷かれるほど体が熱くなった。

 これが自分の性癖なのだろうと、そんなことを、少なくともごく最近まで、信じて疑わなかった。

 先ほどまでは何も感じることのなかった男との行為に、ぼくの体は大きく波打ち、自然と背骨がよじれた。ぼくの肘に強く押さえつけられたベッドが、ぎっ、と甘い抗議の声を上げる。

 収束に向けて淡々と追い上げられる感覚。

 熱にしびれた頭の片隅で、伝えようとしていた思いをどう言葉にしようか考え始めたその時、ひんやりとした感触が、ぼくの腰に触れた。

 その感触がごく柔らかくぼくの肌を滑り、何事もなかったかのように離れる。

 思わず横目で男を見上げた。分厚い胸板、かなりストイックに鍛えられた二の腕、前腕――ぼくの腰に触れていた長い指が、行き場を失ったように、空中で握り締められている。

 この男の、おざなりなセックスが好みだった。時間やルールに几帳面なところも理想通りだ。物のように扱われたいとはいっても、自分の時間を侵食されたいわけではなかったから。何より、ベッドで余計なことを口にしないところがいい。

 求めていたものはそれだけだったはずなのに、いつからか男が自分に触れる手に、優しさのかけらのようなものを感じるようになっていた。初めは不快だったその感触が、荒々しい愛撫よりも肌に残るようになったのは、いつからだったろう。

 男が、淡い光の塊を耳から離し、ぼくを見下ろした。頼りない光に映し出された目の色が、不思議と鮮やかに脳裏に焼き付く。何度もこうして身体を重ねていたはずなのに、その時初めて、男ときちんと目があったような気がした。


 ああ、そういえばこの男の目の色は、ヘーゼルだったな。

 よくある色だ。きっと、明日にはまた思い出せなくなっているのだろう。


 ――ぼくは自分の人生を、前に進めようと思う。


 彼に伝えようとしているその言葉が、男への別れの言葉になるのか愛の言葉になるのか……ここにきてもまだ、分からずにいた。

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