プロローグ

 テーブルを叩く振動音と共に、ぼうっと光が浮かび上がった。

 男の腕がためらいなく伸びて、その光を掴み取る。

「やあ、久しぶりだね? ――いや、別に構わないよ。続けてくれ」

 そう返事をして通話を始めた男にため息をつき、彼から視線を外した。

 薄闇の中では全ての境界線が曖昧で平等であったのに、彼の耳元を照らす不粋な光は妙に他者との境界を意識させた。硬い木でできたテーブルと、そこに投げ出された太くて長い腕との境界線。彼の腕と、仄暗いのにどこか優しいバーの空気との境界線。その空気に包まれているはずなのに少しも馴染めずにいる自分。

 そして自分と男を明確に隔てる3Dのライン、もしくは面の集合体。量子力学、あるいは東洋の哲学においてはこの世のすべてが不断なく連続しており、全てがひとつなのだという。その知識を友人達に吹き込まれている時には、その感覚が理解できる気がしていた。

 けれどデジタルな光に照らされた目の前の男の半顔を見ているうちに、その自信は頼りなく霧散していく。

 バーカウンターで遠慮のない複数の笑い声が弾け、男と自分に向かって覆い被さってきた。その笑い声の波で通話相手の声がかき消されたのだろう。男の顔が、目に見えて不機嫌になった。

 どうせ、たいした話なんてしていないだろうに。

 そんな自分の考えは、どうやら薄闇の中にあっても見て取れたようだった。関節が目立つ指でデバイスの裏をコツコツと引っ掻くと、男はそのまま聞き耳を立てる価値もない、薄っぺらな通話を終わらせた。

 静寂が訪れた。

 薄闇のバーは相変わらずあらゆる音で満たされているのに、デジタルの小さな光が支配するこの席には確かに、心臓が軋むほどの静寂があった。

 デバイスの光を見つめていた男がようやく顔を上げて、その両目をこちらに向けた。目の前の男は、お世辞にも性格がいいとは言えない。面倒で、捻くれていて、人を平気で嘲笑う未熟な子供。自分自身が何に喜びを覚えるかすら知らない憐れなこの男が、けれどもこうして、自分が会いたいといえば素直にやってきて、当たり前のように彼自身の時間を差し出している。

 男が自分に触れる手に、優しさのかけらのようなものを感じることがあった。初めは面倒にすら思ったその感触が、荒々しい愛撫よりも肌に残るようになったのはいつからだろう。

 よぎった映像を振り払うように手元のビールを半分にして、少し乱暴にテーブルへと戻した。硬い木の感触がガラスのコップを通して手に伝わってきて、我知らず笑みがにじむ。この木材の名前を、とっておきの秘密を共有しようとするような笑顔で教えられたのは、そういえばまだたった三ヶ月ほど前のことだった。

 肺を空気でゆっくりと満たし、顔を上げる。その動きに合わせるように、男もまた少し背もたれから身を起こし、じっとこちらの目を覗き込んできた。頼りない光に映し出された目の色が、不思議と鮮やかに脳裏に焼き付く。何度もこうして視線を交わしていたはずなのに、その時初めて、男ときちんと目があったような気がした。

 ああ、そういえばこの男の目の色は、ヘーゼルだったな。

 よくある色だ。きっと、明日にはまた思い出せなくなっているのだろう。


 ――ぼくは、自分の人生を前に進めようと思う。


 彼に伝えようとしているその言葉が、男への別れの言葉になるのか愛の言葉になるのか……ここにきてもまだ、分からずにいた。

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