1-6(ミステリアスな訪問者)

 ぼくに朝食を振る舞った後で、ブライアンもまた仕事を向かうために、この部屋を出て行った。

 ようやくいつもの日常を取り戻したぼくは、自分用のコーヒーを淹れ直して今日すべき仕事に取り掛かる。始めはちっとも目の前のことに集中できずにいたけれど、慣れ親しんだルーティンの数々に、ぼくは徐々に自分の世界を取り戻していく。

 広い部屋。明るい色のカーテン。シンプルで清潔感のある、それでいて個性的なインテリア。デスクトップの中身ももちろん整理されているし、普段お客様には見えない奥の資料部屋の本棚も、わかりやすく整えられている。

 そうさ、これこそがぼくの世界だ。

 届いた皮のサンプルの手触りと質感を確かめながら、ぼくは上機嫌に頷いた。

 完璧に調和が取れた部屋と、インテリアコーディネータの仕事。この二つの大切な要素で、ぼくの人生は過不足なく成り立っている。どんなにひどい時にでも、ぼくを立ち上がらせてくれるもの……この仕事が好きかなんて、もう考えることもなくなったけど、それでも必要なら数時間ヤスリをかけるのも苦じゃないし、縫い物だってする。そしてそれらがイメージ通りにぴったりと部屋に収まった時には、今でもやはり飛び跳ねて喜んでしまうのだった。

 ぼくがしみじみと仕事への感謝を捧げていたところで、一階のレセプションから呼び出しがかかった。ご機嫌なままそれに応じたぼくは、次の瞬間投げつけられた爆弾に飛び上がる。

「ハイ、ルーク! 君にお客様が来ているよ」

「お客様だって?!」爽やかな好青年だと評判のコンシェルジュ、ワイアットの言葉に、ぼくの頭は真っ白になった。「今日は予約はなかったはずなんだけど……!」

 そう答えながら手帳や端末を片っ端から散らかしていくぼくに、勤務態度は最高だが人の名前を覚えられないと評判の青年が続ける。

「ほら、よく君を訪ねてくる、ミディアムヘアのレイディ」

「ジェーン!」

 名前を叫ぶと同時に、ぼくは事態を理解した。

 以前、部屋のインテリアをぼくに任せてくれて以来、ちょくちょく家具の配置の相談や、中途半端なDIYの尻拭いを頼みにこのオフィスへと訪れる、麗しのレイディ——ジェーン・エルダー。何を隠そうぼくの独立を支援し、この部屋を格安で貸してくれているのは彼女だった。

 彼女には一つ、軒並み彼女の知り合いを悩ませる悪癖があった。

 来訪の予約を取らないのだ。

 この致命的な悪癖にも関わらず友人が絶えないのは、彼女の長所と人柄の良さが欠点を上回っているからに他ならない。

 ぼくは、彼女の来訪を了承してレセプションとの通話を切ると、大慌てでケトルに火をかけた。そしてそのまま冷蔵庫の扉を開け、たまたま余っていた彼女が好きなラム酒漬けフルーツのパウンドケーキを取り出す。

 ジェーンはいつも、エスパーか何かのようにぼくの時間が空いているときに押しかけてくる。しかも、このパウンドケーキが冷蔵庫にある時を見計ったかのようなタイミングで。エスパーじゃなければ、きっとこの事務所のどこかに盗聴器か何かを仕掛けているに違いない。いや、盗聴器と監視カメラぐらいじゃ、このタイミングの良さは説明できない。

 机に広げていた仕事の数々をざっと片し、ぼくは玄関の扉を開けて彼女を待ち構えた。

 程なく、賑やかなしゃべり声に先導された——もちろんその声は彼女自身のものだ——ジェーンが姿を現し、ぼくに向かって笑顔を輝かせた。まばゆいブロンドヘアに、どんな場面でも笑みの形に引き上げられている口元。しょっちゅう島だの海だのとリゾート地を飛び回っている割に白い肌はつやつやしていて、彼女の六十歳の誕生日パーティーに呼ばれた時には、その実年齢に心底仰天してものだった。

 ジェーンが、あくまでゆったりと大股でこちらに歩み寄りながら腕を広げる。

「あらあら、ダーリン! しばらくぶりね!」

「やあ、ジェーン。あなたが今度は何をやらかしたのか、話を聞くのが楽しみで仕方がないよ」

「まあそんな、にくたらしいことを言うのね、悪い子バットボーイ!」朗らかに高笑いしながらぼくをハグし、ジェーンがぼくの耳元でボソリと呟いた。

「……あの壁、やっぱり取り払えないかしら。ちょうどあの部屋にぴったりのソファを見つけたのだけれど」

「……だめだってば。あの中には天井を支える大事な柱があるんだから。『技師の親指』を現実に体験したいの? 天井とキスしたくなければ大人しくしてなよ」

 ぼくの言葉に小さな舌打ちを打つと、ジェーンは何事もなかったかのような笑顔でぼくを解放して後ろを振り返った。

 その視線の先で、先ほどから静かにぼくらのやりとりを見守っていた女性が、ぼくに向かって儚げな微笑みを浮かべる。

「こんにちは」 

 ぼくの視線に気がついたその女性が、ぼくに向かって掠れた声でそういった。なんというか、ジェーンの強すぎる光に溶かされて消えかけた三日月のような人だ。

「こんにちは、ぼくの事務所へようこそ! ジェーンのお連れ様かな」

「彼女があなたのクライエントよ、坊や。わたしが連れ」

「はいはい、どうして事前にそのことを教えてくれないのかな」

 どうせ言っても意味のないことを口にしてから、ぼくは改めてその女性に向きなおる。

「初めまして、ぼくはルーカス。インテリアデザイナーで、ここはぼくの事務所だよ」

 そういって差し出したぼくの手を、彼女は少しの間こわばった表情で見つめた。

 そして、ぼくとジェーンが不審に思わないギリギリのタイミングでその手を握り返してくる。その挑むような視線に、ぼくは内心首をかしげた。

 ただその視線の意味よりも、一瞬にして印象を変えた彼女の雰囲気に、なんだか強く興味を惹かれていた。ぱっと見の印象で、彼女の年齢を五十代前半くらいだろうとあたりをつけてたんだけど、このような表情をすると、一気に印象が若々しくなる。目の下のクマや疲れた肌、内面を映し出したような暗い目——清潔感のあるきちんとした身なりでも隠しきれないくすんだ色が彼女を年上に見せているだけで、本当はもうちょっと若いのかもしれない。

「マリアです。お会いできて嬉しいわ」

「ウェルカム、マリア! どうぞ中に入って。念のために聞くけど、ジェーンに無理やり引きずられてきたってわけじゃないよね? そういうのはきちんと言っておいたほうがいいよ」

 ぼくの言葉にマリアが少しだけ笑みを深め、ジェーンが優雅に眉をあげる。

「遠慮がなくなってきて結構なことだけれどねえ、坊や。マリアがわたしにあなたを紹介してほしいと言ってきたのよ」

「そうなの? 広告を出したことないから、自分から来てくれる人は珍しいなあ」

 二人を事務所の中へエスコートしながら振り返ったぼくに、マリアが少し気まずげに微笑んだ。

「以前から、ジェーンにあなたの話を聞いていたのよ。その時は依頼しようとは思わなかったのだけれど」

「腕はいいけれどお勧めはしないと、彼女に説明したの」

「ジェーン」

 むっつりと口を尖らせたぼくに向かって、ジェーンが悠然と笑う。理由はわかっているでしょうと言いたげだ。マリアが続ける。

「ただ、最近とても辛いことがあって、あなたの名前を思い出したの。——あの家に帰ると、辛いことを思い出さずにはいられなくて。いっそ、全部変えてしまった方がいいのかもしれないと」

「わたしは止めたのだけれどねえ」

「そんなに何度も止めることないでしょ!」

「でもこの子の決意も固いようだったから、連れてきたのよ。ほら、ショック療法というのかしら。気分が一新される可能性もあるでしょう」

「ジェーン!」

 依頼人に向かってとんでもないことを言うお得意様に、ぼくは抗議の声をあげた。

 彼女はその抗議をエレガントな高笑い一つできれいに受け流し、慣れた様子でソファに腰掛けた。

 ぼくはゲイだけど、そうは言っても女性はみんな華があるものだなあと思う。二人がソファに腰掛けると、明らかに事務所の雰囲気が柔らかで暖かなものに取って代わった。ちょうど、殺風景な部屋に花を飾った時のように。

 男四人が額を突き合わせていた今朝の風景を思い出して、ぼくは思わず苦笑を漏らした。ここが、あの時と同じ場所だなんて信じられない。インテリアの主役は結局は人間なのだと、つくづく思う。

「じゃあマリア。今日はあなたの家のインテリアデザインの相談ということでいいのかな」

 マカダミアナッツのフレーバーティーを二人の前に置き、その側にミルクとココナッツシュガー、ついでにケーキを添えながらぼくが聞くと、マリアは曖昧な様子で小首を傾げた。そのボディランゲージが肯定なのか否定なのか見極めようと目を凝らすぼくに向かって、マリアがそっと口を開く。

「そう、ね。そういうことになるのかしら」

 返事まで曖昧だ。

 そのまま少し考え込む様子を見せたマリアの横で、献上されたケーキを満足そうに見やっていたジェーンが、もったいぶってまずはオデッサプラチナムのカップに口をつけた。だめだ。どうやら彼女のフォローは期待できそうにない。ぼくはジェーンによる通訳を諦めて口を開いた。

「ええと、ぼくに相談したいのは、あなたの家全体か部屋のコーディネート? それとも、まずはインテリアデザインってどんなものなのかを聞いてみたいとか」

「ああ、そうね。少し話を聞いてみたいわ」

 ぼくの問いに、ようやくホッとした様子でマリアが頷く。

「すぐにインテリアを変えたいわけではないの。なんというか、部屋のデザインを見てもらったことがないから、どんなものなのかしらと。プロの方に時間を割いてもらったのに、これでは失礼かしら」

「そんなことないよ」

 ぼくは笑ってそう請けあった。

「ええと、要は、今の家も気に入ってるけれど、インテリアを変えるのに何かアドバイスがあるようなら聞いてみたいっていう感じ?」

「ええ、ええ。そうなの。本当に、無理に変えるつもりはないのよ」

「オーライ、マリア。あなたの意思を無視してドリル片手に家に押しかけたりはしないから、安心してよ。まずはあなたの家の間取りを教えてくれる?」

 そう言って準備しておいた紙を取り出すと、たどたどしいマリアの説明を聞きながらその間取りを書き取った。

 珍しくない、よくある間取り。郊外の一軒家かな。

 ぼくはその中に家具の配置を書き込んでもらうと、この家の様子がわかる写真がないかどうかを尋ねた。

「今朝撮ってきたわ。これでイメージがわかるかしら——ちょうど今から五年ほど前に建てた家なの」

 そういってマリアがぼくに、自身のスマートフォンを差し出した。そこに写る彼女の家を見て、ぼくは思わずなるほど、と頷く。

「あなたが無理にインテリアを変えるつもりがない理由がわかったよ。随分とこだわっているんだね」

 ぼくの言葉に、控えめながらもマリアがうっすらと微笑んだ。

 とても彼女らしい家だと思った。一見地味だけれども、細部にまで丁寧に作り込まれた家具、きちんと計算された部屋の配置。けれど少し、彼女の印象よりも格調高くて、強い意思のようなものが感じられる。

 ——そこまで考えて、ぼくは動きを止めた。もう一度マリアの家の間取りと家具の配置に目を落とす。

 考えこむぼくの様子に気がついたジェーンが、上品な所作でペロリとケーキを食べ終え、口を開いた。

「あら、ダーリン。あなたが考え込んでいると、なんだか思春期の坊やみたいね」

「……ジェーン、ぼくはどこからどう見ても成熟した大人の男だよ」

 ぼくの抗議を艶やかな笑い一つで受け流し、ジェーンが続けた。

「何か気になることがあるのなら、言っておしまいなさいな。口にするのをためらうだなんて、あなたらしくのないことを」

 エレガントでソフトな口調ながら、人を促すことに慣れたこの大人の女性に、ぼくは早々に負けを認めた。この先ずっと、彼女にだけは一生勝てることはないのだろうという、諦めに似た確信がある。

「ちょっと踏み込んだ質問をしちゃうんだけどさ、マリア」

 ジェーンに促されたぼくは、思い切って目の前の影ある女性に向かって尋ねた。

「この家の男——あなたの夫って、どんな人なんだろう」

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