1-3(事件の日の夜のこと)
エレベーターに乗り込んだというのに、ブライアンはつかんだぼくの手首を放そうとはしなかった。
「ブライアン、さすがにもう逃げないよ」
ため息交じりのぼくの主張に、点滅するエレベーターの階数を睨みつけていたブライアンの両目がジロリとぼくを見下ろす。
思わず飛び上がりそうになって、ぼくは慌てて体ごとやつから目をそらした。
「なんでそんなに怒ってるんだよ……」
「なるほど」男の穏やかで冷ややかな声が頭上から降ってくる。「説教はまずそこからスタートする必要があると」
「ぼくが悪かったです」
扉に視線を向けたまま、ぼくはボソボソと謝った。
「さすがに着信拒否は、ちょっとやり過ぎだったと思う。お前のこと傷つけたかも――あ、もし気づいてなかったなら聞かなかったことにして――とにかくあの時ぼくはお前といて気まずかったし、立ち直る時間が必要で」
チリンという高い電子音が鳴り、エレベーターの扉が開く。
問答無用でぼくをそこから引っ張り出したブライアンが、そのまま無言でぼくの部屋に向かって歩き出した。
「ヘイ、ブライアン! 聞いてる? あの時もうお前は、ぼくの手助けなんて必要ないくらい、すっかり回復してただろ。だから――」
言い募るぼくに見向きもしないまま、男がやや乱暴な音を立ててドアの鍵を開けた。
そしてぼくを部屋の中へと放り込むと、自分自身もずかずかと部屋へ足を踏み入れて内側から鍵をかける。
この扉ってこんなに小さかったっけ、とかなんとか考えている間に男が振り返り、その形相にぼくは思わず身構えた。
ああ、なんてこった。あの懐かしの説教がついに始まってしまう――と思わず目をつぶった次の瞬間、ぼくはブライアンの長い腕に抱きしめられていた。
ぼくはほとんど仰天したといっていいほどの驚きに、ただ彼の腕の中で目をパチパチさせる。
「ええと、ブライアン……?」
恐る恐る口を開くとさらに腕の力が強くなり、その荒い抱擁に不思議とぼくは少し感動を覚えた。
そういえばこいつとは物心つく前から、ずっと一緒にいたんだんだよな。
ぼくが望む形ではなかったにせよ、ブライアンもぼくのことを友人として大切に思ってくれていたのかも――なんてしみじみ考えている間に、腕の力が堪え難いほどの強さになっていく。
これも友情の証だ、ときっちり三秒間耐えた後で、たまらずぼくは叫び声をあげた。
「ギブアップだ、ターミネーター! お前の力は生身の人間には強すぎる!」
「まだ始まってもいないのに降参か?」
軋みをあげるような声で――ついでにぼくの背骨もギシギシ軋んでいる――ブライアンが低く笑った。
「あはははは……熱烈な歓迎はもう十分……」
「なあ、おれは以前お前に言わなかったか?」
「『お前に会えて嬉しいよ』って?」
「逃げる前に少しは周りのことを考えろ、だ!」
「そういえば、そんなこと言われたことあったような」
息絶え絶えになりながら、ぼくは必死で答えた。
「あれだ、セスのレポートを半分灰にした時!」
「あれはお前か! おれが親父に怒られたんだぞ」
ようやくぼくを解放した男が、声をはね上げながら叫ぶ。
「くそ、単位が足りなかったと勘違いして旅に出た時、ドクターにもらった薬から勝手に苦いものだけ捨てた時、ミスター・ナイトレイのボンネットにでかい目玉の落書きをした時だ!」
「お前よく覚えてるなあ」腕から解放された余裕から、ぼくは思わず笑いを漏らした。「あの後大変だったよな」
「周りがな!」
そう唸ってから、ブライアンが大きく息を吐き出した。
その一瞬の間に、ぼくは大急ぎで言葉を潜り込ませる。
「えーっと、とりあえず中に入ってよ、ブライアン」
とにかくこいつをソファに沈めなくちゃ。不機嫌な人に不機嫌についての理屈なんてこねるな、とりあえずイスを勧めろ、ってフランスかどこかの哲学者も言ってたし。
「性能のいいミルサーとフレンチプレスがあるから、まずはコーヒーでも」
慎重に距離を取りながらのぼくのしどろもどろな提案に、ブライアンは眉間のシワを深くしながらも押し黙り、渋々ながらもぼくに続いてリビングへと足を踏み入れた。
「まだブラック派?」
ぼくの言葉に視線で頷いた男が、どこか意外そうな様子で部屋を見渡した。つられて一緒に、見慣れた自分の部屋へと目を向ける。
壁と床も天井も優しいホワイトで統一された部屋だったけれど、壁の一面だけは煉瓦風に作り変えていた。
その壁の前には、クラシカルなディテールと個性的な形が目を惹く来客用のソファを配置し、ソファの前には質の良さと温かみがにじみ出るテーブルを置いていた。
来客用セットから少し離れた場所に、同業者との打ち合わせ用のガラステーブル、そして一番キッチンに近い場所にぼくのデスクと据え置き型のiMac。
主な家具はそのくらいだ。極力シンプルに抑えた分、シャンデリアとカーペットは十分に華やかなものを選んだので、なかなかバランスのよく調和が取れている――。
と、思うんだけど。
事務所の内装を見渡して首を傾げるぼくに向かって、視線をさまよわせたまま男がボソリと呟いた。
「――意外と綺麗にしているんだな」
ブライアンの言葉に、ぼくはびっくりしてコーヒー豆を取り落としそうになる。
「何言ってんだよ、ぼくは昔から片付け魔だっただろ」
「嘘をつけ。いつも散らかってたじゃないか」
幼なじみの言葉に、ぼくは改めて豆をミルサーへセットしながら肩をすくめた。
「あれは母さんが散らかし魔だからだよ。片付けても片付けても、すぐに散らかすんだ」
「そうだったか?」
腑に落ちなさそうにそう呟きつつ、男はソファへと収まりその長い足を組む。
うんざりするくらい、どんな場面でも絵になるやつだ。
確か高校の時にも、そんなことを思ったっけ。あの時はもっと切羽詰まった、苦しいときめきに胸をぎゅっと締め付けられていた。なんだか感慨深い。
「……このリビングは事務所も兼ねてるから、まあ特に気は使ってるかな」
男の誤解を解くことを諦めて、ぼくは買ったばかりのフレンチプレスに粉とお湯を入れる。途端にコーヒーの魅惑的な香りがキッチン全体へと広がった。
「奥の寝室と書斎は、もうちょっと生活感があるよ」
「そうか」さして興味なさそうに相槌を打ち、ブライアンが続ける。「インテリアコーディネーターとして、独立したとしたと聞いた。その髪の色は、決意の表れか何かか?」
「ああ、そういやこのカラーにしてから会うのは初めてだっけ」
言いながら、ぼくは自分の{青みがかった金髪|クールブロンド}に触れた。今はこんな明る色だけど、ぼくの地毛は典型的なダークブラウンだ。ついでに巻毛。古代ローマの服を身につけたらしっくりきそうな髪と肌色だと言ったら、イメージが湧くだろうか。
「紹介された美容院で、ぼくに似合う髪にしてってお願いしたら、この頭が出来上がってたんだ。ぼくの{やや浅黒い肌|ミディアムベージュ}と細身の体には、絶対この色だって」
「まあ、似合っているんじゃないか」
「どーも」
「成功しているようだな」
興味深げに部屋をまじまじと見渡しつつ、ブライアンが感心したようにそんなことを言った。まあ事務所兼用とはいえ、ブリズベン中心街のど真ん中に建つ高級アパルトメントに居を構えているのだから、そう思われても当然だ。
実際、二十七歳にしてはぼくは成功している方だといえた。独立したばかりの二ヶ月を除いて業績は伸び続けているし、自作したテキスタイルが知り合いのブランドに取り入れられたことで、知名度はいつの間にか上がっていた。そもそもこの一年、紹介とリピートのおかげで仕事が途切れたことがない。
明らかにぼくのビジネスはうまくいっていた。
それでも、自分が成功者だなんて、口が裂けても言うつもりはない。偶然の要素が多すぎるんだ。身の丈に合わない成功だと、自分でもそう思う。
「実力というより、ただ運が良かっただけなんだ」言葉を濁すように、ぼくはぼそぼそと答えた。「ぼくのコーディネートを気に入ってくれた人が、たまたま若手に投資をするのが趣味みたいな人でさ」
ブライアンが視線をあげた。きらきらと光を撒き散らす、ホコリひとつないシャンデリアに目を止める。
「……そう謙遜するな。腕前も、なかなかのものだと聞いた」
「誰に」
「ローザ。祝いのつもりでお前にコーディネートを頼んだら、想像以上にいい仕事をしていったと町で触れ回っていたよ。それを聞きつけたおれの母も、お前に仕事を頼んでみたいと言っていたな」
「それは、すごく嬉しいな」故郷の知人からの飾り気ない賞賛に、ぼくは思わず不景気な表情を崩す。「もし本当に頼みたいと思ってくれているなら、いつでも連絡してってハンナに伝えておいてよ」
「分かった」
いかにも生真面目にそう頷くと、ブライアンはじっとカウンター越しにぼくを見つめた。そのもの言いたげな眼差しに、ぼくは渋々カップとポットを手に取る。男の側へ行き、その斜め前のイスに腰をおろした。どうか、隣に座る勇気のないぼくを責めないでほしい。
「なあ、ブライアン。三年前の、あの時のことなんだけどさ――」
「それは、もういい」
ブライアンがぼくの言葉を遮って、難しい顔で何か考え込んでいる。その顔には、グランドフロアで再開した時の苛立ちはすでに見当たらず、ぼくは大いに戸惑いを覚えた。
頭にハテナマークをたくさん浮かべながらカップにコーヒーを注いでいると、どうやら考えがまとまったらしい男がおもむろに顔をあげて口を開いた。
「――殺人事件があったと言ったな」
その言葉に、まだ向き合えていない傷に触れられたぼくは、さっと身をこわばらせる。
ばあちゃんの死もアランの死も、たった一日で受け止めるには重すぎた。二人にもう会えないだなんて、まだとても現実のことだなんて思えない。
ブライアンはそんなぼくを気遣うように一拍置いてから、淡々と続ける。
「一体、その担当刑事に何を聞かれて、お前はなんと答えたんだ?」
「そんなに長い時間のことじゃなかったよ」
ため息交じりにそう言って、ぼくは今朝方の出来事を振り返った。
今日の朝、と言っても昼前くらいのことだった。二人の刑事が突然この事務所を尋ねて来て、ぼくにアランの死を告げたのだ。
ひとりは痩せ型で背の高い、三十代半ばくらいの男で、もうひとりは小柄でにこやかな若い男だった。
質問は主に若い方が行なっていたが、もう一人の男の名刺に{警部補|インスペクター}と書かれていたから、捜査を主導しているのは彼の方なのだろうと思う。
「アランのことを知っているかどうかと、最後に会ったのがいつか聞かれたよ。それから、あいつに親しい人間や恋人はいたか、とか一昨日の夜十時半ごろ、何をしていたのかとか」
「なるほど? それでお前はなんて答えたんだ」
「ありのままを正直に答えたよ。あいつとは友達で、時々ごはんを一緒に食べてた、一昨日の昼に一緒にランチ取ったのが彼との最後だ。お互いの交友関係についてはよく知らない、一昨日の夜はバーでちょっと飲んだ後そのまま家に帰ったけど、何時に帰ったかはよく覚えてない。気づいたら家で寝ていたからさ」
「アリバイはないと答えたようなものだな」
「え? あ!」元刑事の言葉に、ぼくは飛び上がる。「あれはアリバイを聞かれてたのか!」
「……嘘だろう。お前まさかアリバイの確認をされていると気づかなかったのか?」
「何も考えてなかったよ! こっちはパニックだったんだ」
だからあの答えの後、二人の空気が急に不穏になったのか。
「ぼくは罠にかけられていたんだね。くそ、なんて卑劣な刑事だ……!」
「今時、その質問の意図がわからない人間がいるとは、向こうも思ってもみなかっただろうよ」
呆れたようにそう呟いて、ブライアンはステンレス製のフレンチプレスを手にとった。
そして遠慮なくなみなみとお代わりを注ぎながら続ける。
「なあ、ルーク。お前はその晩、どうやって家に帰ったんだ? 記憶にないほど酔っていたのなら、車の運転はできないはずだろう」
「……車は運転してないはずだけど。ううん、なんだか自分でも呆れるくらい、記憶がぼやけてるな」
「誰かが、車で連れて帰ってくれた可能性はないのか? もしくはタクシーの手配でもしてくれたか。そうすれば、お前のアリバイを証明できるんだが」
「そんなやついたら、ちゃんと刑事さんにそう伝えたよ」
口を尖らせてそう言った後で、ぼくは微かな違和感を感じて動きを止めた。
あの晩、ぼくはひとりだった?
次の日の朝、部屋に誰もいなかったの確かだ。けれどぼくはごく最近、自分が誰かにこの部屋まで運ばれたことを、うっすらと思い出した。自分を肩に担いだ誰かの足が、ちらちらと視界で揺れている。ピカピカの革靴。大きなサイズの――かなりおぼろげな記憶だったが、間違いない。なぜ忘れていたんだろう。
断片的な感覚を拾い集め、そこに至るまでの経緯を慎重に思い出していき――そして、ぼくはその相手に運ばれた日こそが、刑事に語った事件当日の出来事なのだということを突き止めた。あの日は途中から記憶が途切れていて、気付いたら誰かに運ばれていたのだ。
思わずぼくは叫ぶ。
「いた……ぼくは確かにあの晩、誰かと一緒にいたよ、ブライアン!」
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