1章 ブリズベン 第1話

 その家に目をつけたのは偶然のことだった。

 オーストラリアに降り立ったその日、立ち寄ったカフェで遅いランチを口にしていた礼一は、パソコンの画面を流れてきた美しい部屋の写真に、思わず身を乗り出していた。

 『ROOM FOR RENT(部屋を貸します)』

 そう書かれた部屋の条件に目を走らせ、礼一は大急ぎでその家のオーナー宛にメッセージを送りつけた。

 幸先がいい。その時は確かにそう思った。

 それがやや不安に転じたのは、その家の住人と顔を合わせた瞬間だった。

 都心とは思えないほど木々の密集した私有地を抜け、マゼンダ色の花のアーチをくぐり、簡素な木の扉を開けた礼一の目の前を、息を呑むような美形の男が、リズミカルに足音を鳴らしながら、螺旋階段を下りてくる。

 建てられたばかりか、もしくはリフォームされたばかりのきれいな家に、広い部屋。

 ついでにゴージャスなルームメイトつきか。

 彼がこちらに向かって親しげな笑みを浮かべた時、これは自分にとって都合のいい夢か、そうでなければきっと何かの罠に違いないと思ったのだった。


 五年ほど勤めていた会社を退職したのは、今からちょうど二ヶ月前のことだ。  東京タワーが目の前に拝める都心に自社ビルを構えるその会社は、いわゆる一流企業であり、給与も福利厚生も十分以上だった。

 中途でここに採用されたのは幸運なことだったのだろうと、コーヒーを片手にライトアップされた電波塔を眺めながら、よく自分に言い聞かせたものだったが——まあ、それも辞めてしまった今となっては、どうでもいい話だ。

 退職時のことを考える度に、今でも一抹の悔しさと深い憤りが蘇る。

 それでも自分の人生のためにはこれで良かったのだと、それだけは素直に思えた。

 思いつきで取得したオーストラリアのビザを片手に、凍える真冬の成田空港を飛び立ち、その九時間後には、真夏の太陽が照りつけるブリズベン空港に降り立つ。

 窓から覗く、鮮やかなコバルトブルー。

 真夏のそれでしかありえない強烈な青色に、ここが南半球なのだと、視覚から叩きつけられた気がした。今が一月だという現実感が、あっという間に揺らいで消える。

 癖のある英語に戸惑いつつ税関を抜け、慣れない機械にもたつきながら切符を購入する。英語でのアナウンスに耳を傾けながら電車に乗り込み、楽しそうにおしゃべりに興じる警備員の姿を尻目に、セントラルステーションの改札を抜ける。

 そのすべてに否応なく高揚感を掻き立てられながら、礼一はこれから生活していく街、ブリズベンへとたどり着いたのだった。

 美しい街だと思った。

 近代的なビルと歴史的建造物が調和をもって共存し、木々の緑がそこに彩りを添えている。そして、その狭間に見え隠れする、色とりどりで個性的なカフェや小売店が、さらに街を生き生きとさせていた。

 悪くない。そして、このあまり大き過ぎない街の規模が、静かに、そして平和に暮らしたい礼一にはちょうどいい。

 カウンターに積み上がったブラウニーに目を奪われながら、思わず笑みを噛み殺す。

 この街でならのんびり羽を伸ばせるだろうと、礼一はほとんど確信していた。

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