藍色の唄。

京 志鳴

藍色の唄。



 水曜日の昼頃。晴れた空に所々、雲が散りばめられたような空をしている日だ。心暖かい光が入ってきたり、去って行ったり。特に落ち込んで迎えた朝ではなかったはずだが、こんなにもふわふわとした、どこか落ち着かないような気持ちになっている。かゆいのか、くすぐったいのか、良いのか悪いのか、幸せなのか辛いのか、そんな間に立っているような気分だ。


 思えばそんな最近をずっと過ごしている。どこか寂しいような、楽しい場面で何かが欠けている様な、一人足りないような。でも生きていけてしまっている悔しさがどこかで拭えていないような。心の何処かで自分が不幸であることを望んでいるのであろうか。そんな自分に価値も見出せないくせに。ああ、駄目だ。自己否定のパレードでも始まるかのようなファンファーレが頭のなかで流れた。

 虚無と数分睨みあい、私はソファーから立ち上がって本棚が並ぶ廊下を行ったり来たりと歩く。本を手にとって戻したり、落ち着きを行動に求めた。結局はまたソファーに戻ってきたが。テレビをつけると隣の家の人、それまた隣の家の人でも見ているであろうワイドショーが流れる。ちょうど、老人ホームを題材とした内容の特集が流れる。リハビリを頑張るおじいさん、スイスチャードを育てているおじいさん、大きな声で話しかけてもらうおばあさん。私もあのような歳まで生きていられるのだろうか。生きていたいと思えているのだろうか。私はどうも自分を議題に上げてしまうと考えることを放棄してしまう。そんな習慣をやめるようにと、自分に興味を持つところから始めてみようとこの間言われたばかりなのにと、ふと思い出す。思い出すところで書き留められていないから忘れてしまうのだけれど。


 もういいや、と感情を破棄してテレビのチャンネルを変える。変えて変えて、変える。どれもパッとしないの繰り返しで疲れてきたので肘置きに頭を置いてうな垂れる。もう一つの居間からお母さんが出てきて、目が合うと私の姿に可笑しさを感じたのか、そういう寝方なのねえ、と一言残してキッチンへと姿を消した。どこか似たような言葉が遠い過去にあったような気がした。

 何に対してもやる気が出てこないそんな昼でキッチンから漂ってくる香りは幸せなものだった。普段、バーテンダーという夜の仕事をしている自分の夜ご飯はいつも冷めていた物ばかりだった。ラップが張ったお皿を電子レンジに入れて機械的な合図を待ってから食事をするが、今日はお母さんの「ご飯よ。」を合図に食事を始める。豚肉のロースを簡単に焼いたような物と白いご飯。これだけでも十分暖かい食事だった。


 そんな時だった。母さんがふと口ずさむ曲に意識が強制的でも瞬発的にでもあったのか、そちらへ全注意が向いた。別に母さんが歌っているからでもなかった。その歌に途轍もない思い出が込められているような。壮大な過去が秘められていたような、それを発見したかのような突発めいたものだった。記憶の端々で誰かの笑顔が浮かんでくる。その曲は別に二人だけの特別なものではなかった。二人しか知らないような曲でもなかった。もはや全人類が知っていてもおかしくない、そんな有名な曲だったのだ。それが仇となったのか、私の思い出、それも少し苦いものを思い出させる。

 苦いというには少し儚すぎたが、それもいいだろうと思いこんな表現をさせていただく。

 

 

 九月十三日が明けた神保町での朝でした。その日の私は背中にギターを背負っていました。エピフォンの暗い茶色の小ぶりなアコースティックギター。そのギターは同日、好きだったが付き合ってはいなかった女性と買いに行ったものだった。そんな頃の話です。


 そのギターはポール・マッカートニーが使っていたものと型番は同じで、その劣化版のようなものでした。楽器にお金をかけたことがなかった私にとっては五万円というその数字は大きいものに感じたけれど、買ったらこの子を大切にしようと、そう決めてそのギターを手にしたんです。手にとったその子は従順で、どこかもの悲しげな音が得意な子で、どこか自分と似ている気がしました。

 膝上において、そのギターを抱え込む私の姿に好きだった人は言いました。「君に合ってるよ、どこかしっくりとくる。」先ほど考えていたことと相合ってか、さすがは私が好きになった人だと、そういう嬉しさで心が満たされていた瞬間だった。


 そんな夜に私たちは隣駅まで散歩をした。たまに手を引っ張られたり、飲みすぎた私は置いていかれたり、それを数歩先で笑う彼女。いつの間にか歩幅は合ってきて歩く距離も隣り合った。「今日は月がすごい明るいね。」隣から聞こえてくるその言葉に顔を上げると、月の光は燦々と溢れていた。「まぶしいね、街灯かと思った。」そう笑うと、そうだねえ、と優しく彼女は溢す。


 中秋の名月。


 ポツリとまた聞こえてきた知らない言葉に、なんて言ったの?と尋ねた。「中秋の名月。一年間を通して一番、月が綺麗になる日のことだよ。」その中秋の名月とやらに照らされるその人はとても綺麗だった。「ふうん、そういうこと。」と私は頷く。      


 ふと彼女が小さく口ずさむ。聞き覚えのあったメロディーだった。歌詞こそは分からなかったが鼻歌程度に合わせて歌う。「知ってるの?」「それしか知らないけど、」そんな言葉を間に挟んでまた唄は再開する。「お父さんがこの歌好きでさ、小さい頃よく聞かされていたんだよね。あの頃は全然興味も持てなかったし、なんでいつも流すのだなんて思っていたけど、今となれば、この曲で昔を懐かしめることが出来るのは幸せな事なんじゃないかな、とも思えてきてさ。」だから、良かったら君も聞いてみるといいよ、なんて私に笑っていたんだ。

             

 月の光が二人の影を色濃く残す。今日という日は特別だった。遠い未来である今でも思う。きっと彼女があの言葉を残してくれたからなんだと、今では思う。

「きっと、今日という日の事はいつか忘れてしまうのかもしれないけどさ。いつか、それこそ遠くなったいつかの日、中秋の名月っていう日に、二人でこの月を見たことはずっと、忘れないんだろうね。」

     

 坂道を一歩早く歩いた彼女は振り向いて笑った。

 本当に綺麗だった。その夜も、月も、彼女も。彼女の口から溢れるビートルズの唄も。      

       

 

 思い出してからは早かった。目の前にあるご飯を少しえずきながらも掻き込む。そんなに詰め込むと体に悪いよ、と母さんは言うものの、居ても経ってもいられなくなった。ごちそうさま、と箸を置いて部屋へ駆け込もうとしたが、いそいそと戻って食器を手に持って洗い場へ持っていく。「ごちそうさま。美味しかった。」そう言うと母さんは少し笑った。


 部屋に入って布団の上に置かれたギターを手に取る。そう、エピフォンのアコースティックギターだ。電子タブレットでコードを探して、一番上に出てきたその名前を押すと開かれる。今となっては簡単に見えるコードが並んでおり、ギターの弦に手をかける。シーコード、ジーコード、エーマイナー、と続くメロディーに途轍もない悔しさが溢れてくる。涙はすでに浮かんでいた。だが、右手は止まらずに動き続ける。あの頃の彼女のように歌詞を口ずさんでみた。

 

「And in my hour of darkness, She is standing right in front of me, Speaking words of wisdom, Let it be. ( 僕が暗闇にいるとき、彼女は私の前でこう言ってくれたんだ。 ─ありのままで居てね。)」

 

 きっと人によって捉え方は違ってしまうのだけれど、私にとっての愛ある訳し方だった。目の前で彼女はこれを歌っていた。その声と抑揚と、あの日の夜を思い出す。その声に私の声を乗せていく。どうしようもなく悔しさが止まらない。出来る事なら一緒に歌いたかった、この言葉を重ねたかった。こんなにも簡単なコードならあの時にでも弾いてればよかった。彼女も触れたであろうこのギターにはもうその温もりは残っているはずもなかった。あの時の記憶は確かだったのか。そんなことさえもあやふやになっていく。

 しかし一つだけ言えるのは、間違いなくあの日に私たちは一緒に月を見た。それは一切間違いのない事実だ。中秋の名月という言葉を教えてくれたのは彼女だったから。小さくスキップしながらビートルズの曲を口ずさんでいた。                        

「For though they may be parted, There is still a chance that they will see, There will be an answer, Let it be. (離れ離れになったとしても、またいつか出逢える日が来るよ、答えはきっとある。どうか、ありのままで居てね。)」            

  

「君もね。」そんな声は震えて聞こえた。私からの言葉か、彼女の物かは分からないけど確かに震えて聞こえた。あの日、二人で買いに行ったギターをとうとう抱きしめる。「ギターの名前はマッカートニーとでも名付けようか。」遠い過去となった彼女は笑ってそう言っていた。泣き声と嗚咽が部屋に響く。誰のものなんだろう。


 相も変わらず頭の中では歌が鳴り止まない。彼女の声で「Let it be.」と奏でられている。マッカートニーは綺麗にもの悲しい音色で過去を奏でていた。           

       

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藍色の唄。 京 志鳴 @kebabuyamada

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