25th Attack: 勇気

 瑠衣るいは、用務員室から二年四組の教室へ戻ろうと、一人で階段を上っていた。踊り場にさしかかったとき、階段の上にクラスメイトの女子が二人立っていることに瑠衣は気がついた。

「おい、佐渡ぉ」

「ルイージ、ボーン!」

 ボーン? ……ああ、ギャル語の挨拶かと思いつつ、彼女らの顔を見て瑠衣は憂鬱な気分になる。

「鳴沢さんに相沢さん……」

 二人は階段を駆け下り、瑠衣に近づいた。

「探したぞ」

 鳴沢が瑠衣の正面に立ち、尊大な態度で威圧する。もう一人の相沢は、瑠衣のことを逃がすまいと彼女の背後に回った。

 瑠衣は鳴沢を見下ろした。

 鳴沢は両耳に校則違反のピアスを何個も着けていて、目つきが鋭く口元がにやついている。上履きの踵を踏んでおり、今どき珍しい膝下のスカートを履いていることもあって近寄りがたい雰囲気を放っている。

 振り返って、相沢の方も見やった。彼女は金髪のセミロングヘアーで、自分の巻き毛を指先でせわしなくいじっている。背が小さい割には胸が大きく、制服を大胆に着崩していることもあって、彼女の胸元はより強調されていた。

「ちょっとついてこい」

 瑠衣は何も言わずに頷いた。どうやら二人についていくしか選択肢はなさそうだ。

 瑠衣は、『沢沢コンビ』として知られる二人と一年生の時も同じクラスだった。もっとも、裏では『騒騒さわさわコンビ』と陰口を叩かれていたのだが、本人達がそれを知っているかは分からない。

 人付き合い全般が苦手な瑠衣だが、この二人は特に苦手だった。

 瑠衣は学校生活でできるだけ目立たないよう、まるでそこにあるのが当たり前の酸素の一粒子がごとく振る舞っていたので、普段の二人が瑠衣に干渉してくることはほとんど無かった。しかし、学園祭や体育祭など、否応なく誰かと絡まなければならない場面では、必ずと言っていいほど瑠衣のことをバカにした。

 それだけに瑠衣は驚いていた。

 これはイレギュラーな事態だ。嫌な予感しかしない。なぜ、このタイミングで自分に話しかけてくるのだろう、と……。

 連れてこられたのは、屋上に通じるドアの前だった。

 瑠衣は階段テラスの壁を背に、二人と相対した。

「なんの……用でしょうか……」

「相変わらず背ぇたけえなぁ、ん?」

「ほんとやばみ」

 鳴沢が、瑠衣の体の前に手を突き出したかと思うと、少女マンガよろしく壁にドンッと手をついた。瑠衣の体が反射的にビクッと震える。しかし、心臓の鼓動がドキドキと上がるほどではなかった。

「どうだぁ? チビの女に壁ドンされる気分はぁ」

 それもそのはず、鳴沢が手をついたのは瑠衣の脇より遙かに下だったからだ。もちろん、見下ろしているのは壁を背にした瑠衣の方である。

 鳴沢は相変わらずにやついているが、目が笑っていないのは明らかだった。

「ププッ、なるっち草。ちょー草生える!」

 相沢がその様子を見て吹きだしている。鳴沢は「うっせぇバカ!」と相沢のことを罵りながら手を引っ込めると、やたらと胸を張りながら両腕を組んだ。

「最近、智哉と仲がいいみたいだなぁ。ん?」

「そうそう、ののりんやいっちょんとも話してるよね。ルイージのくせに、まじで草」

「……」

 瑠衣は黙っていた。

 今まで文句を言われるときは、大概「背が高いのに」あんなこともできないのか、こんなこともできないのかと罵られるのが常だった。しかし、今日は雰囲気が違う。

「あのさぁ、智哉に近づくのやめてくんない?」

 鳴沢の顔が歪む。

「……うち、別に小平君に近づいてなんかいません」

「嘘つき。昨日はお昼ご飯一緒に食べてたくせに」

「そうそう、ルイージのくせに。まじやばみ」

 嘘じゃない。昨日は向こうが一緒に食べようと誘ってきたのだ。近づいてきたのは向こうの方だ。

 そう反論したかったのに、鳴沢が放つ負のオーラに圧倒されて何も言うことが出来ない。

「あたいらはねぇ、智哉の親衛隊なんだ。悪いゴミがつかないように監視してんだよぉ」

「そうそう、ルイージはともちんとは釣り合わない。草生える」

「あたいはねぇ、てめぇみたいな奴がでー嫌いなんだ」

「そうそう、調子に乗るなっての。まじで草」

「山城も気にくわねぇ。あいつ、風切と友達だってのをいいことに智哉に近づきやがって……」

「そうそう、ののりん。いっちょんの親友とか、まじやばみ」

「くそぉ、風切さえいなければ……」

 最後の一言は、ほとんど独り言みたいに小さい声だった。

 そのとき瑠衣は悟った。どうやら銀杏は二人にとって天敵らしい。

 自分に攻撃の矛先が向いているのは、銀杏とそれほど近しい存在ではないからかもしれない。

「そういやぁ、最近てめぇは山城と急に仲良くなったよなぁ。放課後、ママチャリ一台持って二人でどっか行ってるの知ってんだぞぉ」

「そうそう、ママチャリの二人乗りは違法なんだぞ。まじやばみ」

 瑠衣の拍動が、今度こそ跳ね上がった。

 見られていたのか。

「そっかぁ、分かったぞ。佐渡ってさぁ、自転車乗れないんじゃねぇの?」

「え? マジ? 今どき自転車に乗れないとか超ありえなくね? ちょーウケる! まじで草生える!!」

「てめぇは運動音痴だもんなぁ。去年の体育祭で散々足引っ張ったこと、忘れたとは言わせねぇぞ」

「覚えてる覚えてる。二人三脚のヘッドスライディング、ちょーウケた」

 その出来事は瑠衣にとっても悪夢だった。

 そこの相沢とコンビを組めばいいのに、いつの間にか身長差がありすぎる凸凹でこぼこコンビを鳴沢と組まされ、足がもつれたと思ったら顔面から地面に突っ込んだのだ。

 文字通り、足を引っ張った。しばらくは走ることすら億劫になった。

「自転車に乗れなくても当然ってかぁ?」

「まじやばみ!」

 相沢と鳴沢は、瑠衣を愚弄するように甲高い声で笑い出した。

「で、どうなんよぉ、佐渡。ん?」

「うちは……」

 自転車に乗れません。

 そんなこと言うわけがない。

 だが、恐れていたことがついに現実になろうとしている。このままだと、誰にも知られたくない秘密が白日の下に晒されてしまう。


 うちの高校生活が、滅茶苦茶になってしまう……!


 そのとき、屋上へ通じるドアが開いた。入ってきたのは、用務員の岡島だった。右手に長いシャベルを持ち、左手は何やら重そうな袋を掴んでいる。

「おい、お前らこんなところで何をしてる」

 岡島の予期せぬ登場に、三人とも驚いた。鳴沢と相沢は、どちらかというとたじろいでいたという方が正確かもしれない。

「なにって……友達と話してたんだよぉ」

「そうそう、単なるおしゃべりだっての。まじで草」

「ほー」

 岡島の目が鋭くなり、鳴沢と相沢の方に一歩詰め寄った。

「どこをどう見ても女の子をいびってるか、カツアゲしているようにしか見えないんだけど」

「てめぇには関係ないだろぉ、

「そうそう、部外者は引っ込んでろっての。まじで草」

「誰が……おばはんだって!?」

 岡島は袋をどさっと地面に下ろすと、両腕でシャベルを振り上げた。

「お、おい! 逃げろぉ!」

「チョーやばみ、チョーやばみ!」

 騒騒コンビは、ものすごい早さで階段を駆け下りると、そのままどこかへ消えてしまった。

 岡島はふんっと息を鳴らすと、シャベルを持つ手を下ろした。

 これが、の貫禄という奴か。

「あの……ありがとうございました」

「佐渡、あいつら友達か?」

「いえ……」

「だろうね」

 岡島が行こうかと言うので、瑠衣は彼女の手からシャベルを受け取って歩き出した。助けてくれたし、せめて荷物運びくらい手伝いたい。

「なぁ、佐渡。お前、自転車の練習をしてるのか?」

 瑠衣は飛び上がりそうになった。

「……山城さんが喋ったんですか?」

「いや、あいつは何も言わないよ。ただ、ママチャリを借りてどっか行ったり、ママチャリを壊して帰ってきたり――」

 岡島はそこで一瞬声を詰まらせる。瑠衣は岡島が自分の怪我したところを見ているのが分かった。

「――佐渡が怪我してるのを見たら、想像がついた」

「そうですか……」

「山城め、佐渡が怪我をしたなんて一言も言ってなかったな。今度用務員室に来たらカワイがってやらないと」

 そのとき、瑠衣は不意に思い出した。

 用務員室に岡島がいなかったので後回しになっていたが、ママチャリを壊してしまったことに対して、まだちゃんと謝っていない。

「ママチャリを傷つけちゃったこと、本当にごめんなさい」

「ん? そんなこと気にしてないぞ。それに、もう謝りに来た奴がいるしな」

「……?」

「山城だよ。朝にわざわざ私のことを探し出して、『ごめん! ママチャリちょっと壊しちゃった! 理由は聞かないで!』とか言ってな」


 そんな。

 山城さんは、別に岡島さんに謝らなくてもいいと言ってたではないか。「大丈夫大丈夫」と言っていたではないか。

 どうして。どうしてなの。

 なんで山城さんは、うちに対してそんな嘘をつくの。

 分からない。分からないよ……!


「なぁ、佐渡」

「なんでしょうか」

「自転車の練習は大変か」

「はい」

「自転車に乗れないことをどう思ってる?」

「どうって……」

 岡島はなんでそんなことを聞くのだろうと、瑠衣はいぶかしんだ。


 答えはもちろん、『恥ずかしい』に決まってる。

 普通の人に出来ることが、出来ない。男女の区別、老いも若いも関係なく出来るようなことが、出来ない。

 これほどの劣等感があるだろうか。

 そのもどかしさ、その辛さ、その苦しさを、たいていの人は理解してくれない。いや、理解しようとしない。

 能力が低い。努力が足りない。

 いくらでも適当な理由を付けてバカにする。その本当の原因について見向きもしない。

 だから隠す。嫌な思いをしないために。コンプレックスから逃れるために。


 だけど……うちが自転車に乗れないことを隠し通すのはもう無理かも知れない。

 きっと、騒騒コンビは面白がって噂を流すだろう。

 こんなことになるなら、あのカフェに行きたいなんて思わなければよかった。自転車に乗るなんて言い出さなければよかった。


 瑠衣の心に、後悔の念が溢れた。

 長い間を置いて、瑠衣はようやく自分の思いを吐露した。

「うち……さっきの二人に自転車に乗れないことをバカにされて……恥ずかしくて……悔しくて……。でも、いざ練習するとなると体は思うように動いてくれないんです。それが怖くて……悲しくて……うち、うち……」

 瑠衣の頬に一筋の涙粒が流れた。

 ここまで何も言わず辛抱強く待ち続けていた岡島が、おもむろに口を開いた。

「私は、佐渡のことをカワイイと思うぞ」

「……え? カワイイ……?」

「そうだ。佐渡は、今の今まで自転車に乗れなかった。それなのに今、自転車に乗ろうと勇気を出した。その勇気を、誰がバカに出来るって言うんだ?」

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