Start: 男達

 彼女たちが円陣を組んだほぼ同時刻、総勢三百台を超えるロードバイクの大集団が、昇ってきた朝日を背に国道四四九号線をゆうゆうと進んでいた。集団は全員男で、ヘルメットを被り、色とりどりにデザインされた自転車用のジャージを身にまとっている。

 ここは沖縄県名護市。時刻は朝の七時半になろうとしている。やや北寄りの海風は穏やかで、街路樹をさわさわと揺らしていた。いくら沖縄と言えど、十一月中旬の朝は半袖だとやや肌寒く感じるくらいの気温である。

 しかし、そんな天気模様とは対称的に、集団はとてつもない熱気と緊張感に包まれていた。その証拠に、レース序盤にも関わらず「フラフラするな!」といった怒号が方々から飛んでいた。


 そんな集団の真ん中辺りを、もうすぐ二十代を迎えようという青年が走っていた。彼の顔はこわばっている。『ツール・ド・おきなわ』にエントリーしたのはこれが初めてで、コースを実際に走るのも今日が初めてだったからだ。

 レース前に試走ができたら良かったのにな……。

 彼は大学生で、近年のテクノロジーとサービスの恩恵を十分に利用し、動画共有サイトに上げられているレース動画と検索サイトが提供するストリートビューで、コースの予習は一応済ませていた。

 しかし、道路の状態や下りコーナーの曲がり具合、坂の勾配などは実際に走ってみないと分からないことが多い。そのため、ごく一部のサイクリストはレース開催の数週間前に一度沖縄へ入り、実際に走ってコースの感触を確かめたりするのだが、青年にそんなお金の余裕はなかった。

 彼は、渇いた喉を潤そうと給水用のボトルを取ろうとハンドルから手を離した。そのとき、ロードバイクの挙動がわずかにぶれた。

「ドアホ! ふらつくんじゃねぇ!」

 青年はすぐ隣を走っている中年男に突然怒鳴られ、危うくボトルを落としそうになった。四十台くらいのおっさんで、青年もよく知っているアニメキャラクターが描かれた所謂いわゆるいたジャージ』を身にまとっている。

「ちょっとでもふらついたらどうなるか分かるやろ! 誰かに接触するやろ!」

「す、すみません」

 青年は水を飲むことを一旦諦め、手をハンドルへと戻した。

 中年男の言うとおりだった。

 集団は非常に密集しており、手を伸ばせば簡単に隣の人の背中を触ることができる。前後の方も、ホイールとホイールの間に三十センチメートルほどの隙間しか開いていない。

「てめぇ、乙女の柔肌みたいに白いツラ見せよってからに。さてはロードレース初心者やな? 募集要項に『ロードレース経験者に限る』って書いてあるの知らんのか!?」

 青年はカチンときた。

 年甲斐としがいも無く痛ジャージを着たハゲオヤジに言われたくないわ! こう見えても大学の自転車サークル所属で、ロードレースくらい経験あるわ!

 ……と、青年は叫びそうになる。しかし、まだまだ続くレースのことを考えると、こんなところで喧嘩をおっぱじめられるほど体力的にも精神的にも余裕はなかった。

 そのとき、別の男が会話に割って入ってきた。声の主は中年男の向こう側にいるらしく、青年からは姿を確認することが出来ない。

「まぁ、その辺にしといてくれませんか。あなたの怒鳴り声に驚いて誰かが落車したらかないません」

「あぁ!?」

 集団には三百人以上いる。お互い肌と肌が触れ合うくらいに密集している集団の中で誰かが落車――事故などによりライダーが自転車から転落することを指す競技用語――を喫すればどうなるか。

 青年はちょっと想像しただけで寒気を覚えた。

 集団の中で一人が落車すると、周りの人を巻き込んで連鎖的に落車が引き起こされる。それだけではない。ロードバイクはブレーキをかけたとしてもすぐには止まれないため、後続のロードバイクはなすすべも無く次々と落車発生地点に突っ込んでしまう。倒れた人たちや地面に投げ出されたロードバイクを踏みつけ、乗り越え、巻き込み、そして自身もやはり落車する。死亡事故が発生してもおかしくない阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されるのだ。

「それに、こんなことでエネルギーを消耗したら、この先が思いやられますよ。レースはまだ始まったばかりです」

「そ、それはそうやな……」

 中年男は納得したらしく、声のトーンが下がった。

 レース中だというのに、優しい人もいるものだ。

 青年は、全く見ず知らずの人が助けに入ってくれたことに安堵した。

 直接ありがとうと言いたいのだが、中年男の影に隠れて男の姿が未だに見えない。

「そやけど、お前どっかで見た顔やな」

 中年男が何やら考え込んでいる。

「さて、どうでしょう」

 その言葉と共に、男がやや加速したのか、中年男が気を取られて減速したのか……青年の前にその男が姿を現した。

「ありがとうござ……」

 男の顔を見てぎょっとなり、感謝の言葉が途中で途切れてしまった。

 彼の顔は、無駄な贅肉がないというより骸骨に皮が付いているのではないかと疑いたくなるくらいに痩せこけていた。気のせいか、顔色も悪い気がする。

 自分とは比べ物にならないほど浅黒く日焼けした、オラウータンのように細長い腕。それに対して、まるでバランスが取れていないビヤ樽のようなガッチリとした体躯。太腿から下腿にかけては筋肉が非常に発達していることがうかがえ、汗ばんでいることもあって、よく調教されたサラブレッドの後ろ足を連想させる。

「あぁ……? お、お前、もしかして鈴原輪太郎やな?」

 どうやら驚いているのは中年男も同じらしい。ただ、驚いているポイントが違っていた。

「誰ですか?」

「バカッ。鈴原の名前も知らんのか、この初心者が。こいつは『ミスターおきなわ』や、優勝候補の」

「どうも、鈴原です」

 目の前の男は、自慢するでもなく、威張るでもなく、誇るでもなく、ただ自然体に自分の名前を名乗った。

「疲れるとさらにふらつきやすくなるから、気を付けた方がいいよ」

「あ、はい」

 どうやら年上と年下では敬語を使い分ける人らしいと青年は思った。

 それにしても、だ。

 優勝。

 その二文字に、このレースに出てる誰もが憧れている。だけど、実際にそんな目標を語れるのはごく限られた人たちだけだ。

 このレースを制することは、すなわち日本最強のアマチュアサイクリストであることを意味するのだから。

「あの!」

「何?」

「優勝目指して、がんばってください!」

 自然とこんな言葉が出た。

 こんなことを言ってる時点ですでに自分は負けなんだけど、これが現実だ。

 自分は最後まで生き残って完走することが目標なのだ。優勝を争える訳がない。

 雰囲気で分かる。この人は、が違う。

「うん、ありがとう」

 そう言うと、輪太郎は集団の中をするすると前の方に上がっていった。

 どうやったらこの密集した集団の中で、あんな動きができるんだ。自分には到底無理だ。

 青年は輪太郎に対し尊敬の念を抱きつつ、彼の背中を見送った。


 ***


 鈴原輪太郎は少々落胆していた。

 レースが始まって興奮しているのは理解できるが、もう少し優しく注意してやればいいのに。

 こんな発想をするのは自分が教師だからだろうかと考えていると、また別のところから怒号が聞こえてきた。

 これはいつ落車が起きても不思議ではない。早いとこ先頭まで上がっておいた方が無難だな。

 そう思った輪太郎は、いったん集団の横に抜け出すと、スピードを上げて大外から選手たちを次々と抜いていく。

 輪太郎は先頭に追いつくまでの道中、先ほど青年にかけられた言葉を反芻していた。

 優勝、か。

 僕がこのレースに出るのは四年ぶりだ。その間に、ライバルたちはものすごい進化を遂げていた。冷静に考えて、今の自分が優勝出来る可能性は極めて低い。

 ああ……こんなことを山城に言ったら、『何弱気なこと言ってるの? 逃げるんじゃないよ!』ってドヤされるだろうな。

 そうだ。僕はこの勝負から逃げるわけにはいかない。僕はもう逃げないと山城野々香に誓ったんだ。そう、七ヶ月前のあの日に――

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