第一章 私は自転車部をつくりたい

Before Attack: 少女

 鈴原輪太郎は、緩やかに登っている桜並木を一人で歩いていた。

 少し肌寒いが、穏やかな風が心地よい。空に舞い上がる桜の花びらは、一枚一枚が相互に共鳴して一つのシンフォニーを奏でているようだ。それらは、不安で胸がいっぱいの気持ちを少し落ち着かせた。

 時間は午前六時を回ったところだ。たまに車が行き交っているが、通行人は彼を除いて誰もいない。坂の中腹に輪太郎がさしかかった頃、輪太郎の横を自転車が颯爽と追い越していき、あっという間に坂の向こう側へと消え去った。

「ロードバイクか」

 輪太郎はつぶやいた。

 一瞬しか見えなかったが、フレームは多分リヴ――台湾の自転車メーカー『ジャイアント』の女性向けブランドだ。コンポは分からなかったが、あの特徴的なホイールはシャマルで間違いない。面白い組み合わせだ。

 ……いやいや、何を見ている。昔から染みついた悪い癖だ。僕はもうロードバイクを止めたんだ。そんなことが分かったところで、何の意味もない。

 輪太郎は邪念を振り払うように小走りで駆け出した。坂を登り切ったその先に、高い柵に囲まれた広大な敷地と四階建ての巨大な建物が姿を現した。立派な門の脇には、『都立月ヶ丘高校』と書かれた金属板がはめ込まれている。

 輪太郎は、人気の無い校舎へ入った。廊下に塗られたワックスが窓から差し込む朝日を反射する。その景色が高校時代の思い出と重なり郷愁を誘う。まさか自分の母校で働くことになろうとは、数年前は想像もしていなかった。

 人生、何がどう転ぶか分からない。

 職員室へ向かう道中、自分の恩師もこんなことを感じたのだろうかなどと物思いにふけっていると、輪太郎は近くから何か物音がしていることに気がついた。輪太郎は立ち止まり、耳を澄ませた。どうやらこの先の用務員室から聞こえてくるようだ。よく見たら、ドアの上の通風窓から部屋の明かりも漏れている。

 まだ朝の六時半、用務員さんが出勤してくる時間には早すぎる。前日に電気を消し忘れて帰ったのだろうか? だとしても、物音がするのは何かおかしい。

 もし泥棒だったら大変だしとりあえず確認しておくかと、輪太郎は用務員室のドアを開けると――

 そこに、女の子が立っていた。

 身長は百六十センチメートルくらいだろうか。

 足の爪に塗られた赤いペディキュア。ふくらはぎから膝小僧にかけてうっすらと小麦色に日焼けしたしなやかで筋肉質の脚。下腹部は桃色の布地で隠されており、そこから上へと伸びるウェストラインに無駄な贅肉はなくキュッと引き締まっている。小さく窪んだおへそを取り囲む腹筋の周辺は、うっすらと赤みを帯びて浮いていた。

 下半身の印象が力強く草原を駆ける馬だとすれば、上半身はガラス細工のように可憐で繊細だ。

 ブラジャーに包み込まれたつつましい胸。白いタオルを掴む手は華奢で、二の腕は触れれば折れそうなほど細い。血色の良い唇、上気して紅潮した頬、大きく見開かれ潤んだ瞳。しっとりと湿り気を帯びたショートボブの髪には深いオレンジ色の花飾りが添えられており、彼女の愛らしい顔をより一層引き立てている――

 二人の視線がお見合いする。

「ふぇ……」

「……!?」

 白いタオルが、彼女の指先から滑り落ちた。

「きゃあああああああああああ!!?」

「ご、ごめんなさいーー!?」

 用務員室の出入り口付近に立てかけられていたモップやホウキをなぎ倒しながら、輪太郎は用務員室を飛び出した。けたたましい音が廊下にこだまする中、輪太郎は全力で疾走する。

 どういうこと? 女の子が用務員室でお着替え? なんで? あり得ない!

 こういうことをマンガの世界などではラッキースケベと言うのだろう。しかし、現実には事故なんて言う生易しい言葉ではすまされない。バイオハザードならぬスケベハザードだ。今時、電車の中でじろじろ女子高生を見つめていたという理由だけで、迷惑防止条例により検挙される時代だぞ!

 輪太郎はなおも廊下を走り続ける。

 って言うか、あの女の子はうちの生徒だよな。このことを親に話したらどうなる。モンスターペアレントでなくても激怒することは疑いようもない。直ちに学校へクレームが入り、警察が呼ばれ、僕の人生は即終了だ!

 輪太郎が廊下の角を曲がる。そのとき、脳の活動が前方の探索より思考を優先したせいか、輪太郎は脇に設置してあった消火器に気付くことが出来なかった。

 輪太郎は、消化器に躓いて派手に転倒した。まだ使い始めて数日しか経っていないスーツが無情にも破れる音と、消化器が地面に打ち付けられる鈍い金属音が盛大に廊下へ鳴り響く。

「いててて……」

 どうやらすねを打ち付けたらしい。涙が出そうなほどの痛みを必死にこらえる。輪太郎はその場でうずくまってしまった。

 しばらく身動きがとれなかった輪太郎であったが、これを怪我の功名というのか、徐々に冷静さを取り戻した。

 思わずあの場から逃げ出してしまったが、まずは謝ることが何より先決だ。これは立派なセクハラだ。謝るだけで済まされることではないだろう。それでも謝罪。とにかく謝罪。言い訳はしない。

 体が回復すると、輪太郎は破れたスーツを脇に挟み、急いで用務員室に戻った。

 輪太郎は通風窓を見上げ、部屋の明かりを確認した。

 太陽の高度が上がり、光のコントラストが弱くなっていたため判別は難しい。だが、電気は消えているようだ。

 嫌な予感がする。

「あのー……誰かいますかー……?」

 恐る恐るドアをノックして声をかけてみるが、やはり反応はない。

 輪太郎は意を決してドアを開けた。中の様子を見て、輪太郎は思わずつばを飲み込んだ。

 部屋はもぬけの殻だった。

 そこにいたはずの少女の姿は既にない。輪太郎がぶちまけたはずのモップたちも、きちんと壁に立てかけられている。輪太郎の眼前には、ただ虚無にも似た薄気味悪い空間が広がっていた。

 まるで、永遠の昔からその姿をとどめているかのように。

「なんてこった……」

 全身から力が抜けてしまい、輪太郎はその場にへたり込んでしまった。

「人生、何がどう転ぶか本当に分からない……」

 鈴原輪太郎。職業、数学教師。二十七歳にして初めての社会人生活は、開幕わずか一週間でクビの危機に陥った。

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