11th Attack: 張紙
輪太郎が野々香と別れて自宅に戻ったのは、午前六時を過ぎた頃だった。空がようやく白み始めており、夜明けが近いことを告げている。
いつもより帰宅が遅くなってしまった。急がなければ。
トレーニングで使用したウェア類を洗濯したり、シャワーを浴びたりしていると、あっという間に日の出の時刻を過ぎてしまった。朝食を常備しているプロテインバー三本で済ますと、輪太郎はスーツに着替えて七時二十分に家を出た。
輪太郎が月ヶ丘高校へ通じる桜並木へ出ると、駅の方からこちらに向かって歩いてくる
「鈴原くんっ」
「あ、谷村先輩。偶然ですね」
「偶然だね――でしょっ?」
輪太郎は、谷村から敬語を使わないよう矯正されたのをすっかり忘れていた。
「……偶然だね」
「よろしいっ。後、先輩も禁止ね」
「じゃぁ、なんと呼べば?」
「苗ちゃんでいいわよっ」
谷村は臆面もなく言い放った。
「……ごめん、谷村さんで勘弁してよ」
「えーっ! 自分で聞いておきながらそれは酷いっ!」
「生徒が聞いたら誤解すると思う」
「私は――ないけどな」
風の音で一部の声がかき消されてしまった。何か重要なことを聞き落としてしまった気がしたので、「ごめん、聞こえなかったんだけど」と尋ねてみたが、「いやっ、何でもない。もうしょうがないなぁ」と言って、はぐらかされてしまった。
「今日はちょっと遅い出勤ね。寝坊っ?」
「いえ、朝のトレーニングがちょっと長くなっちゃって」
「早朝からトレーニングしてるんだ。偉いわねっ」
「そんなことないよ。昔からの習慣なんだ」
「私なんか朝が辛くて辛くて……。今日なんてスヌーズモードを三回もスルーしたわっ」
谷村は何故か自慢げである。
「僕はほとんど目覚まし時計に頼ったことないなぁ」
「えっ! それすごすぎっ! 起きるためのコツを是非教えて欲しいわ」
「簡単だよ。早く寝ること」
谷村の歩みが止まる。彼女は、きょとんとした顔で輪太郎を見つめた。
「……他には?」
「……それだけ」
谷村は突然輪太郎の背中をバンバン叩き、「んっもー、冗談きつすぎっ。それが出来たら苦労しないし」と言いながら、クスクス笑い始めた。
「他にもあるんでしょっ? マッサージとか寝る前の牛乳とか」
「ゲホッ……強いて言うなら、布団でスマホを使わないとかかなぁ」
「あー……。それは無理な相談ねっ」
「『布団は寝るところ』と脳に認知させとけば、布団に入ったらすとーんと眠れるらしい。逆に、布団で『寝る』以外の行為をすると寝付きが悪くなるんだ。
「そ、そんなことないよっ」
少し顔を赤らめながらぷいっと顔を背けると、谷村は再び歩き出した。
分かりやすい反応だな。
「ストレス発散も大事だけど、睡眠時間を確保した方がずっといいよ」
「分かってる。昨日はちょっといろいろあってストレスマックスだったの」
「……クラスのことで何か問題でも?」
「まぁ、ちょっと……手を焼きそうな子が一人いてね」
心なしか、いつものハキハキした口調がなりを潜めているように感じた。
まだ新学期が始まって一日しか経っていないし、授業も始まっていない。昨日のホームルームでいったい何が起こったんだ。
事情を聞いてみたい気もしたが、教師一年目の自分が相談に乗れるはずも無いので輪太郎はそっとしておくことにした。
自分の手に負えないとなれば、生活指導担当や校長に相談するだろう。
そのとき、ふと輪太郎の脳裏に山城野々香のことが思い浮かんだ。
そう言えば、彼女も今後いろいろと手を焼きそうだ。悪い意味では無いのだが。
輪太郎と谷村が月ヶ丘高校に到着したのは、午前七時三十分を過ぎていた。
いつものように校門から学校内に入ろうとしたが、目の前に広がっている光景を見て輪太郎と苗は唖然とした。
「なんだ……これ……」
ポスター、ポスター、ポスター。
壁一面に大量のポスターが無造作に貼り付けられていた。
「部活の……勧誘チラシのようね」
ポスターには、ネット上で拾ってきたと思われる少しぼやけたサイクリストのイメージと共に、大きな文字が中央に踊っていた。
『新設! 自転車部員大募集! 未経験者も大歓迎!』
なるほど、犯人は推理するまでもなく山城野々香か。
いつ準備したんだ? いつ貼ったんだ? どこからこのコピー用紙をパクってきたんだ?
昨日の今日だぞ。あきれるほどの凄まじい行動力だ。
中央のキャッチコピーの脇には、続けてこう書いてあった。
『みんなでおきなわへ走りに行こう!』
広告詐欺だと輪太郎は思った。
沖縄をわざわざひらがなで書いているところに意図を感じる。どうやら、山城野々香の目標はあくまで『ツール・ド・おきなわ』らしい。高校インターハイは眼中になしか。
まぁ、ツール・ド・おきなわには女子部門があるし、高校生以上から参加は可能だ。だが、何も知らない一般人がこれを見たら、暖かい南国の道を爽やかに走るサイクリングだと勘違いすることは明白だ。
「へーっ、沖縄か。気持ちいいんだろうな。私行きたいっ」
早速騙された人がここにいた。
とは言え、どうやったらモチベーションが続くか彼女なりに考えた結果かもしれない。ツール・ド・おきなわにはレースでは無い一般のサイクリング部門もある。費用面に課題はあるが、そこを目標にするのも悪くない。
まぁ、入部希望者にはちゃんと説明すれば問題ないだろう。
しかし、輪太郎のそんな考えは最後の一文によって完全にかき消された。
『土曜日に、イケメン顧問と十五キロ先のスイーツカフェまでサイクリングデートを開催します♡』
ご丁寧なことに、輪太郎がよく知るカフェの場所を示す地図と共に、文末にはハートマークが添えられていた。
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