生まれて物心つく頃には地獄行きってどうなの!?

薫風ひーろ

第1話

幼い頃の話だ。

誰かが言った。

一度でも殺生すると地獄に落ちる。と。

蟻一匹踏むのも恐れていたが

さっき踏みつけた蟻一匹でもう地獄行きが決まった。

僅か6歳の時だ。

この先どれだけ善人で善行を施しても地獄に落ちる事に変わりはない。


地獄行きが決まったその日、ゴブリンがやって来た。


「いひひひひ。おまえはもうにげられないぜ。

オレ様がおまえのこと見張っててやるんだからよ」


飛び出た目に歪んだ厚い口。意地悪な顔をしたゴブリンは6歳からずっとつきまとっていた。時には友達の背後に現れ、または母の足元にしがみつく。ただゴブリンが視えるのはあたしだけだった。


あるとき、

綺麗な花が咲いていたので沢山摘んで花束にしたかった。


沢山摘んでいると

誰かが言った。

花も木も生きているのだから沢山摘んでしまうと可哀想。と。


ーーーーーーーーー 可哀想?



それからなんとなく

花は

綺麗なものでなくなり

鮮やかな色とりどりの花の色は

枯れてしまった。

四季に咲く花は人の心に響くというけれど、どう描いても響かない。むしろ疎ましいものになった。


花の形は美しいけれどあたしの花の色は美しくなかった。


10歳の頃だ。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆


「またあモノクロに仕上げたの」

A3のスケッチブックに描いた花の写生を覗き見する

金井かないみりんは、身勝手に取り上げまじまじ観察した。


「ちょっとやめてよ。見てもいいって言ってないよ」


「綺麗に描いてるけど相変わらずよねぇ。色がない。素乃そのの花は黒い」


「いいの。あたしの花はこれなんだから」


「絵は凄いのになんで色はつまんないの?」


「いいでしょ。いつもの事じゃない」


絵を描く手を止めてあたしはみりんと雑談していた。


「おいそこ。金井と素乃、後何分も無いんだぞ。ちゃんと描きあげないと点数無いからな」


美術担任、大橋(先生)がすかさず見つけ睨み付ける。あたしはすぐべーっと舌を出す。


あたしとみりんは美術部員という事もあり、特にあたしは大橋(先生)と気軽に会話する。

他の生徒の前でも緊張感はない。


それ以上には大橋(先生)も言い返さないので、あたしはみりんからスケッチブックを奪って絵を描きながら話す。


「あたしよりみりんは描いたの?美術の点数ギリだからがんばるんでしょ」


「そうなんだよねえ。でもさ、花なんて課題面倒臭くて。ねぇ、見てみて。これ横顔大橋、あとね、うつ向き大橋。割りと上手く描けてると思うんだ」


「ふーん」


横目で確認する。スケッチブックに描写された大橋(先生)の姿は優しい色だった。


「みりんの大橋に対する思いも相変わらずなのね。一体どこがいいのか意味不明だわ」


「いいの。素乃には分かんないわよ。幸せ色が塗れないんだから」


「幸せ色?」


「花の色がそうなんだよ。もう、知らないんだから。神話に出てくるフローラはね美しい色の花を沢山産んで幸せいっぱに感じていたのよ。だから私達の目にする花の色に幸せを感じる事が出来るんだって。花の色を黒にしか塗れない素乃には幸せなんて無縁なのよ」


「余計なお世話な話ね、それ。ね、ねっ、それよりさ見てよ。空が一面青じゃん」


あたしは、空を見上げ寝転がった。冷たいコンクリートを背にみりんと横並びに寝転がり空を見上げた。

あたしは幸せの色なんかこれっぽっちも持ちたくない。

ただこの広い空があたしを知っていればいい。


「はあああ。ねえ、みりん。あたしたち、この空のように生きられるかなあ」


「…… 素乃、それって意味分かんない」


「…… あは、だよね」


みりんにも誰にも理解されなくていい。

何者にも邪魔をされず堂々と其処に青という揺るがない色がある。

誰もが平伏す空。その空にずっと憧れているあたしの気持ち。

その向こう側にきっとあるのだろう地獄という苦境の門。



バシン。

おでこに軽い刺激が走る。


「いっ」

ぎゅっと目を瞑り、大きく見開く。

憎らしく笑う大橋(先生) が、薄い小冊子を丸めて腕組をしていた。


「お前ら次の授業をサボる気か?」

「なんで·······」

「チャイムは鳴ったぞ。ここでごろ寝してる場合じゃないんじゃないのか」


「あっ」

2人見合わせて

ガバッと体を起こし急いで校舎に向かう。


みりんが走りながらあたしの後ろで

「あっ」と、声を立てた。


足を止めみりんの顔をじっととみる。


「何、何かやらかした?」


「ううん、違う。スケッチブック置いてきちゃった」


「あっ」


自分の手の中は空っぽだったことに気付く。


持ち歩くのも厄介なスケッチブックを置き去りにしてきた。


「大丈夫、大橋が持ち帰ってくれるよ。後で部室に取りに行こ」


「うん」


何でもないことだと思っていた。

ただのスケッチブックだ。誰かが見たとしても落書き紛いのものしか描いてない。

あたしは気にすることもなく放課後まで美術室には行かなかった。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆



職員室に帰ってきた大橋はまずインスタントコーヒーのスティックを2袋ちぎりコップに移した。

常時沸いているポットからお湯を注ぎ一先ず溜息をつく。


「どうしたんですか、大橋先生。お疲れのご様子で?」


愛想よくにこやかな顔で近寄ってくる家庭科教師 真家まか みちよは大橋に好意を寄せていた。


「あ、いや。違います、真家先生。生徒の中にねちょっと」


「何何?問題児ですか」


「あっいやそうじゃないんですが」


「気をつけてくださいよ。今はモラハラだのパワハラだのと迂闊に言葉にできないんですからね。自分だけで解決しようとなさらないで」


「あ、いや、ああ、はい。そうですね。そうします。ええっと、・・・ちょっと美術室に行ってきます」


大橋は少し残ったコーヒーのカップをそのまま手にし、興味津々の目で大橋を見る真家に一礼をして職員室を出た。


職員室から美術室に行くには3年生の教室を抜けなければならない。

大橋は授業を受ける生徒の教室を俯向きながら廊下を歩いていた。

ふと、目線を上に向けると3年3組の表示が留まった。


小さなドア窓から教室を覗いてみる。


黒板の文字をノートに書き写している亜維あい素乃そのの姿が入ってきた。


「・・・・素乃か」


ポツリと呟く。

しばらく素乃を見ていた。

観察に近いかもしれない。


黒髪のロングで大人しめな印象を受けるも

心の内に何か秘めているものがあるのではないかと時々思うのだ。

素乃は普通だというが素乃の絵を初めて見た時に心臓を撃ち抜かれたというのはこういう事なのかというぐらいの衝撃を受けた。


素乃、高校2年の時だ。


大橋は美術部顧問として素乃を美術部に熱心に誘い彼女を率いれた。

彼女に絵を描く神聖な場を与えた。


彼女のキャンバスに描く精魂を邪魔されないよう美術部入部希望者は数名いたが部員は増やさず、素乃と素乃の友人金井みりんだけにした。



素乃の存在は僕だけが知っていればいい。

他の奴らは知る必要もないのだから。


大橋はコーヒーカップの取っ手を見つめ

美術室に向かった。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆


夕暮れ時の校舎は寂寥感溢れる建物になる。学生の声も底知れない錆にされて静かだ。


誰もいない教室のドアを開けるのはいつものこと。

美術部といっても部員はあたしとみりんだけで、あたしたちが卒業してしまうと廃部になるのは明々白々。顧問の大橋はそんなこと一切気にしていないようで少し心配になる。

かと言って、上辺だけの仲間に後輩たちの会話を耳にしなくてはならないのはちょっと気が重い。

あたしも後輩たちに気を遣わず、教室も気兼ねなく使えるので、あたし達の他に部員が居ないのはいいことなのだが。


油絵の具がキャンバスに張り付いて濁った匂いは普段と変わりない、鼻にかかる石膏の神話モデル顔を動かして自分のキャンバスをイーゼルに立てかける。


[卒業制作 ソノ}



「ふん」

描きかけのキャンバスはまだ一色しか色付けされていない。

みりんの幸せ色が何となく耳に残っていたが決まって一色のみをチューブから絞り出す。

筆に色を乗せキャンバスに塗りだした。


異変はその時に感じた。


薄暗い教室の端の画材が散在している辺りに

ぞくっとする何かを感じた。


「…… ゴブリン?」


しばらく視えなかったゴブリンが最初に浮かんだが、それとはちがう。


「……… ?」


目を凝らした。

同時にコトンと音がした。


「だれかいるの?」


肌がぞわってした。ゴブリンは視えるが別にお化けとか信じているわけじゃない。

ただ、困難な状況に関わるかもしれないのが怖いだけ。

返事がないので、もう一度言う。


「だれ? みりん?」


がさっと音がして、画材がバタバタと落ちた。

筆や絵の具、鉛筆や無造作に置きっ放しのキャンバスらがあちらこちらに散らばった。


そして、それらと一緒に制服が現れた。


力のない細い腕が舞を舞っているようにゆっくり落ちた。


ゴトン。


倒れたのは、


ーーーーーーーー 人だ。



知っている。あたしの知っている人。


「みりんっ!!!」


こういう時ドラマでは素早く駆け寄って抱きかかえるのだろうけど、あたしの足はセメントでくっついたように剥がれない。がたがた膝が震えその場を動けない。


息は?

みりんは息をしてるの?


倒れたまま動かないみりんの目玉が飛び出しそうになるぐらい瞳孔が開きその顔にくぎ付けになる。



だ、誰か来て!だれか、だれかっ


身体中震え上がり声を出すのも忘れている。


ーーーー しんじゃった?


耳元で囁かれる。


「わかんない」


ーーーー ころしたの?


「ちがう」


ーーーー あーあ。じごぐいきだね。


「なんで?あたしじゃないのに。あたしじゃない。あたしじゃない」


ーーーー いつだって、わかってたこと。かわりはしない、じごくいきだってことがね。


「やめて。ちがう、なにもやってない。いつもいつもあたしを連れて行こうとしないで。

あたしじゃないから。あたしじゃない!」


ーーーー おまえのじごくいきは、ふへんふかいである。のがれられないさだめなのだ。


「あたしが何したっていうの?人も殺めてないのに。世間のほうがあたしより酷いことしてるじゃない。なんであたしなの?

蟻1匹でいつも出てこないでよ」



涙が沢山溢れて

でもそれは、みりんに泣いているのか、自分に泣いているのか分からなかった。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆



生徒の皆さんには残念なお知らせをしなければなりません。

3年1組の金井みりんさんが先日18歳の若さで

この世を去りました。

金井さんと青河あおが学園がくえん

過ごした思い出は決して忘れることはないでしょう。故人のご冥福をお祈りします。1分間の黙祷。



校内放送でみりんの話に触れたのは僅か2分だ。


警察が学校に行き来するようになったにも関わらず、事故か自殺か他殺か事件の真相に触れる言葉はなかった。



あたしはあの日から美術室に入れなくなり、屋上に来ることが多くなった。

他の学生は好奇な目であたしを見る。

事あるごとにみりんの最期の姿を聞き出そうとするのだ。

特に親しかった訳でもないのに、聞き出したあたしの一言一句が瞬く間に拡散し、少しでも新しい情報を得ようと腐敗臭のする人型は近づいてくる。


あたしは毎日が悲しく、屋上に来ても何もする気がしなく、開いてしまった空洞を埋める事をできずにただ、ただ息をしていた。


時々大橋も屋上にやって来たが、あたしに声を掛けづらいのか何も会話することなく黙ったまま降りて行く。



空はずっと晴れて青いままだった。

どうせならあたしを連れていけばいいのに。

どう足掻こうが地獄行きなんだから、あたしを連れていけばいいのに。

大橋が純粋に好きで、大橋の話になるとキラキラに輝く瞳を見るのが好きだった。

ふわっとした巻き髪も、丸みのある顔の輪郭も自分自身に愚痴って怒る姿も好きで、金井みりんといると、一緒に笑えてあたしもこのまま生きていてもいいのかと明るく心に日が差した。


思い返せば、あたしはみりんといるといつも笑っていた。


あたしは空に向かってため息をつく。


こつんとおでこに軽い痛みが走る。

青かった空が何かに遮られた。


「これで何度目のため息なんだ」


片目を開けると、大橋があたしの上に立っていた。


「もう、痛いなあ。おでこに傷がつくじゃない」


「そんな訳ないだろ。ほら、あれからずっと取りに来てないだろ、これ」


渡されたのは、スケッチブック。


「…… ありがとう」


裏表紙には亜維 素乃 の名前。


「……… みりんのは?」


「俺が預かってるよ」


「中、見た?」


「いいや。なんだ見たいのか」


「ううん」


みりんのスケッチブックは大橋が持っててくれる方がいいのかもしれない。

沢山描きためた大橋のスケッチばかりなのだから。


みりんが幸せな顔をして描いてる姿を思い出していると、大橋から以外な言葉が聞こえた。



「お前、大丈夫か?」


「何、突然」


「金井のことはもう警察に任せて犯人捕まえてもらえばいいんだが、お前毎日ずっとここに来ているよな」


大橋は言葉を探しているのかあたしをじっと見たまま黙った。


あたしも大橋を見る。


何が言いたいのか、何を考えているのか

大橋の沈んだシケた顔に痩せた頬と思いつめたような瞳を見ているとあたしが不安になる。


「何考えてるのよ」


「あ、いや。そのう、お前って友達金井だけだったみたいだから、なんか、こう無理しているんじゃないかと………」


「なんなの?はっきり言ってよ」


「後追い自殺するんじゃないかと、な」


数秒きょとんとした間の次に不謹慎ながら吹き出してしまった。

大橋がそんな事思ってたなんて驚きで、あたしそんなに悲壮感漂ってるんだ。と、実感した。大橋の顔をまじまじと見つめ


「先生こそ悲嘆すぎて心配になるわ」

と、言った。

大橋は、頬をさすり

「素乃に気遣われてもなあ」

と、少し笑った。


あたしは急に胸の空いた穴に温もりを感じて無性に絵が描きたくなった。


「ねえ先生、みりんのスケッチブック見せて」


大橋も何かを察したのか


「ああ、じゃあ行くか。美術室に」


「うん」


と、あたしも少し笑った。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆



黄色のバリケードテープが剥がされて美術室は出入り自由になっていた。

ただあたしはあれから一度も入ってはいない。


大橋が先にドアを開ける。あたしは俯いて大橋の背に隠れた。


あたしはまだ整理ができていない。この部室でみりんが死んだ。みりんの向き出た目と視線が合った感覚が鮮やかに蘇る。全身に悪寒が走る。震える手が入るなと拒む。


「素乃、描くことだけ考えてみよう」


大橋の声は静かで優しかった。

何か背中を押されているようで顔を上げた。


大橋があたしを見る。


大橋の目が細く笑った。


あたしは瞬きするのを忘れた。

大橋の目をずっと見ていたいと思ったからだ。

ガーベラの花が紅く咲きかけていた。



改めて見たみりんのスケッチブックは半ページ以上大橋の絵で埋まっていた。


「こんなにたくさん思いを閉じ込めて。告白する事もなく逝ってしまってどうするのよ」


虚しい気持ちだけが募るばかりだが、頭を振るう。

気持ちの揺れは絵に影響する。熱は冷めないほうがいい。


あたしはみりんのスケッチブックのまだ何も描いていないページを開いた。


みりんの描いた大橋の笑う目と今あたしが見た大橋の目が重なる。


胸のあたりが痛い。

みりんを失った虚しい痛みではなく、暖かな痛みだ。

なんだか頬がポカポカする。


なんだろう。こんな感じ初めてだ。

部室の整理を始めていた大橋の姿を追う。

ふと、手を止めあたしに目線を向けた。

鼓動が飛び跳ねた。

苦しい、呼吸がうまくできない。


「やっぱりまだ無理なのか」


大橋が近いてくる。


わっわっ、息が、やめて来ないで・・・。


「し、集中してるから来ないでよ」


振り絞る震える声。ドキドキは止まらない。


どうしても大橋の姿を見ると鼓動が騒いでしまう。美術室にあたしと大橋の2人しかいない事を再確認した。


な、なんなんだ、この感じは。どうしよう、この状況。なんだったらゴブリンよ今出てきてあたしを地獄へ連れて行って。


何か、黙ってるままも嫌だな。話さなくちゃ、何か会話を……


「あ、あのさ」


と、言いかけたところでガラッと扉が開いた。


「大橋先生、光石先生が呼んでますよ」


顔を覗かせたのは真家先生だった。

あたしは頭だけ下げた。


「ああそうですか。じゃあ行きます。素乃、お前ここに一人でいても大丈夫か?」


「うんうん。いいよ」


むしろ有難い。あたしの心臓もう持ちそうになかった。


「用が済んだらまた戻って来るからな。何かあったら職員室に来いよ」


分かった、分かった。

って、

言葉にしなかった代わりに手を振って応えた。

大橋の後ろ姿を見送り、

部室からいなくなると、大きく息を吐いた。


「もう、なんなんだったんだろう」


あたしはみりんのスケッチブックの大橋が描かれているページを開いた。

リアルに描き優しいタッチに仕上げている。

何度も見さされて飽きていた顔。幸せな顔をしていたみりん。スケッチブックを抱きしめていたみりん。


ペラペラめくっていると、小さく文字が書かれていた。


大橋大好き。



好き。な気持ち。

大好きな気持ち。


みりん、大橋を思うとどんな感じだった?

大橋を見ると心臓が飛び出しそうになった?

大橋と話をするだけで息が苦しくなったりした?


もう一回、大きく息を吐いた。


みりんに聞きたいのに。みりんに言いたいのに。みりんに会いたいのに。


あたしはみりんが倒れた場所に目をやる。


ねえ、みりん。

大橋の笑う目が好きって言ってたよね。

みりんが思う幸せな気持ち。って、どんな感じ?

聞きたいのに、今、あたしのこの状況はなんなのかみりんに聞きたいのに。なんで?何があったの?なんであんな事になっちゃたの?

会いたい。みりんに会いたい。


涙が溢れてあたしはその場に座り込んだ。


「素乃!」


部室に戻って来た大橋はあたしが泣いているのを見て慌てて入ってきた。


あたしは大橋の袖にしがみついて泣き続けた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆



泣き続けるあたしを学校に置いておくわけにもいかず、

大橋の袖を握ったまま離さなかったこともあって、渋々大橋は自分のマンションにあたしを連れてきた。


「落ち着いたら送って行くから」


キッチンに立ってお湯を沸かす大橋の姿が新鮮でずっと見ていた。


「ごめんな。俺が部室に行かせたからあの時が蘇ったか?」


赤いカップにホットミルクを入れて渡してくれた。


「あたしこそ、迷惑かけてごめんなさい」


「素乃がしおらしいこと言うと調子狂うな」


にっこり笑う。優しく目がほそむ。


あたしの頬がかあああっと一気に熱くなった。ドクンドクンと鼓動が激しくなる。


「素乃、大丈夫か?」


大橋があたしのおでこに手を伸ばす。


「えっ?」


「さっきから変だと思って。もしかして熱でもあんの?」


大橋の顔が近づく。


ひえええ、やめてよ。あたしの心臓がもたない。


「あっ」


慌てて顔を背けようとして、コップからミルクが溢れる。


あたしの手に落ちたミルクはみるみる肌を赤くしていった。


「素乃、何やってんだよ。早く冷やさないと」


大橋はあたしの腕を掴み洗面台の蛇口をひねった。


水があたしの手に大量に落ちる。


「大丈夫か手は傷ついていないか。大事な手なんだから気をつけないと。全く、お前ってそそっかしいのな。」


大橋が懸命に処置してくれている間もあたしは大橋の顔ばかり見ていた。


包帯を巻いたあたしの手をぎゅっと握った大橋は


「大事にしろよな」


と、呟いた。


「ありがとう」


「もう送っていくから。帰る準備しろ」


「うん」


あたしは大橋の言われるまま制服のブレザーを着かけ、ふと向けた視線に見覚えのあるマスコットを見た。


大橋は別の部屋に入っている。


あたしは大橋の姿が出てくる様子を伺いながら、マスコットを手にした。


白うさぎの黒い丸目はみりんが “しろタン“

と、呼んでいたものではなかったかしら。

なぜ、先生の部屋にあるの。


あたしは、大橋の居る部屋の扉が開くのを

じっと見つめて待っていた。

大橋に問い詰めていいのか分からない。

みりん、あんたは大橋と何かあったの?

あたしの知らない事が2人にあるの?


疑心のタネはあたしの奥の方に植え付けられたが、扉が開いて大橋の優しい表情を見ると

あたしはそっとマスコットを元に戻した。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆


美術室の一件であたしの卒業制作の場所をしばらくは大橋のマンションを貸してくれた。

あたしは学校が終わると急いで大橋のマンションに向かった。

卒業制作を仕上げたい一心なのか、大橋のマンションに来れるからなのあたしの気持ちはずっとグチャ卵のようだ。


キャンバスに描いているとガチャっと扉が開いた。


「おかえりなさい」


なんだか嫁みたい。


「ああ、ただいま。ちゃんと描いてるか。

ってか、なんだか変な感じだな。帰ってくる家に人がいるのって。ははは」


「ごめんなさい。すぐ制作終わらせるから」


「邪魔って言ってないけど、俺。むしろなんか温かみがあっていいじゃん」


大橋は笑う。


あたしはまた胸のあたりがキュンとなって温かくなる。


「あたし………」


「ん?」


「ううん、なんでもない」


「俺コーヒー淹れるけど、素乃は何か飲む?」


「あたしはいい、今集中したいから」


キャンバスに向かって描き出した手を止めず

しばらく無の状態で絵と向き合っていた。

絵を描いているときが1番安らぐ。何もかも気にせず、考えず、心乱されずに無心になって描けるこの時が好き。


好き。の感覚はあたしにも分かる。

みりんのように表に出して表せないけど、

あたしの鼓動は好きと言っている。


ふいに筆を置きに頭を上げて後ろを振り返った。

見ると、大橋がコーヒーを飲みながらじっとあたしを見ていた。


「ずっといたの?」


「素乃の集中力には感服だな。ほんとにお前は凄いわ」


「………」


「今日は終わりにするか。送っていくよ」


「あたし……」


「……?」


「あんたのこと、すき、………みたい」


「……?」


大橋の目が丸くなって、いつもの優しい細い目で笑った。


「素乃に告白されるとはな。以外」


「あ、あたしだって、こんな風な気持ちに……」


言葉を遮られた。

大橋の唇があたしに重なったからだ。


「嫌だったか?」


「ううん」


あたしは首を横に振る。


あたしと大橋は見つめ合いそしてまた唇を重ねた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆



卒業制作は順調に進んだ。

大橋との恋も順調だった。

みりんに対して後ろめたさもあったが、

あたしは幸せを感じていた。


ただどうしても描いた花の絵の色はなく

幸せ色にはならなかった。これはどうにもならないことなのだと思った。



制作も終盤になりまじまじと自分の出来栄えを眺めていたら、突然ゴブリンが現れた。


----- イッヒヒヒ。オレ様はずっとみていたぜ。


「どうせ地獄への案内なんでしょ」



----- ヒトのモノを奪っても地獄イヒヒ


「何のこと?」


----- 奪っても地獄行き


「何も奪ってない」


----- イヒヒヒヒッ


意地悪な笑いで消えていった。



今まではあたしが何かしでかした時にしか現れなかったゴブリンだった。今、あたしは地獄行きの何かをやらかしているのかしら。


考えても思い浮かばず、キャンバスの前でぼーっとしていると、温かな手が頬に当たった。


「何かあった?」


大橋があたしの顔を覗き込んだ。


「おかえりなさ……」


言い終わる前に大橋がキスをする。


それからあたしの身体をぎゅっと抱きしめた。


「素乃、描き上げたんだね。おめでとう」


大橋は無邪気に喜んだ。

あたしは少し寂しくなる。

キャンバスを描き終えたらここに来る理由はなくなって、大橋と会えなくなる。

先生と生徒の中に戻ってしまうのだ。


「よく頑張ったな」


「おおはし、先生」


「ん?」


「これからは学校でしか会えないね」


「素乃は随分としおらしいことを言うように

なった?」


「茶化さないでよ」


「そんなに俺のこと好きなんだ」


意地悪にニヤっと笑う大橋が憎らしい。


「……… すき」


「ん?聞こえないなあ」


「好きなの。離れたくない」


大橋はあたしをぎゅっと抱きしめる。


大橋の体温があたしに伝わる。

好き、好きなの。大好き。あたしの鼓動が言ってる。大橋がいなくなるなんて考えられない。

大橋はあたしを抱きしめながら


「素乃、俺はね。君が高校2年の時からずっと君の絵の才能に気づいていたんだ。俺の側で守ってあげたかったんだよ。知っていたかい。ずっと見守っていたんだよ。素乃が俺を好きだと言ってくれてどれだけ嬉しいか分かるだろうか。素乃の友達の金井みりんに言い寄られていても素乃の友達だからと、

温厚に接していたらいつのまにかつけあがってね。ほんとに困ったよ。でもいなくなってくれたおかげで素乃から俺を好きだと言われたんだから、あの時俺が金井に施してやったことも無駄じゃなかったんだな。

素乃、素乃。俺たち一緒だよ。ずっとこれからもずっと。だから安心して」


大橋はあたしにキスをする。

長く長い息が出来ないくらいのキスをした。


「…あはぅ」


漏れた息にクラクラする。


「素乃、もっと俺を感じて」


耳元で囁く大橋の声にびくんとなる。


あたしの身体は溶けそうに熱く、抗えない。

でも頭は冷めていて、大橋の言葉が気になっていた。

あの時っていつのこと?

みりんにした施しって何?

みりんが大橋に言い寄ったって、あたしみりんから何も聞いてない。

ゴブリンは何故あたしに"奪った"って言ったの?


涙と共にあたしは大橋の愛に包まれていった。







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