Should I live or fly ?――崖っぷちのスクルージ――

青月クロエ

第1話  flyというよりfall

(1)


「イブの夜に、一人寂しくジャングルジムに登るオッサンなんて、あんたぐらいよね」


 幼さの残る甲高い声が、遠のきかけていた意識を呼び覚ます。


「しかも素面で、よ??ていうか、素面なのに途中で落っこちるとかマヌケすぎ」


 言葉に棘が増し、声のトーンも上がる。キンキンと耳障りで鼻先に皺が寄った。

 耳を塞ごうと腕を動かせば、冷たく固い地面が指先に触れる。ガリッ。爪の先が僅かに地面を擦った。

 聴覚に続き触覚を取り戻した僕は、自分が飲み屋街の中の寂れた公園で昏倒していたことをようやく思い出した。


「……つかぬことをお聞きしますけど」

「なに」

「……俺は、どのくらいの時間、ぶっ倒れてたんですかね」

「そんなの、アタシに訊かれても」

「……いや、終電が」

「だったら、さっさと目開けて起き上がれば」


 自力で起きろってか。まぁ、自業自得で落ちたのに手伝ってもらおうなんて、ちょっと図々しいか。見て見ぬ振りせず、声かけてくれるだけでも僥倖と思わないと。


 瞼を押し上げるように目を開ける。霞みきった視界じゃ暗闇しか認識できない。

 それでも、時間が少し経過するにつれて徐々にクリアになっていく。完全に視界が戻ると、黒いレース地のパンツが目に飛び込んだ。同時にブーツらしき靴底が視界を覆う。踏みつけられる寸前、再び目を閉じた。覚悟していた筈なのに、靴底に踏みにじられる感触は一向に感じられない。いや、感じたくはないけども。


「アタシのパンツ見ようなんて数百年早い」


 代わりに、一段と冷ややかさが増した声が降ってくる。やっぱり、この声に聞き覚えがあるような。

 全身を蝕む痛みに耐え、ごろり、緩慢に身体を反転させる。仰向けからうつ伏せになると、重たい頭を上げる。

 声の主はパンツを見られまいと数歩分後ずさったらしい。縦ロールに巻いた黒髪、ゴスロリファッション、そして、側頭部に生えた山羊角の幼女。


「あぁ、やっと思い出したの」


 何の感慨もなさそうな、つっけんどんな口調。腕を組んだ不遜な態度。苛立ちを示すように忙しなくピピピ、と動く背中の蝙蝠羽根。そう、思い出した、彼女は――








(2)



 ――約二十年前――






 蝉の輪唱と共に休み時間終了を告げるチャイムが空に流れていく。

 五限目は数学だったっけ。照り返しでぎらぎら輝くフェンスに軽く蹴りを入れ、両手を上部へと伸ばす。


「あっち!」


 反射で離した手を空中で軽く二回振り、もう一度伸ばす。火傷しそうだ。でも、そこを耐えなきゃ次には進めない。掌の皮がめくれたとしてもかまわない。

 根性でフェンスによじ登り、1.3m程度の幅しかないコンクリート地面に着地。

 階下の校庭ではどこかのクラスが体育の授業を始めていた。ふざけてじゃれあう男子、注意しつつ笑いを隠しきれない先生、甲高い声で叫ぶ女子。じりじりと太陽に肌を焼かれ、流れ落ちる汗と同じく無性に僕をイラつかせる。


「だったら、さっさと飛び降りればいいんじゃなあい??」

 場違いな程おっとりした声が降ってくる。声の先を辿れば、白鳥に似た優美な白い羽根が視界を覆う。

「……誰」

「うふふふぅ、見れば分かるでしょお??」


 ふぁっさふぁっさと羽音を立てて声の主は微笑んでいた。陽に透ける金髪を靡かせ、フェンスに腰かけながら。日焼けとは無縁そうな白い肌、汗染み一つない白いノースリーブワンピースから覗く胸元も羽根みたいにふわふわと柔らかそうでおいしそう……、じゃなくて。


「ひとりで飛び降りるのがこわいならぁ、おねぃさんが手伝ってあげるぅ」

 フェンスから僕の隣へふわり、降り立ったおねぃさんは愛くるしい笑顔で僕に迫ってくる。

「キミのことはずっと見てたんだよぉ??受験失敗して行きたくもないガッコ行かなきゃいけなくなってぇ。レベルの低いクラスメイト達にも馴染めなくてぇ、孤立しちゃってぇー。つらいよねぇ、やってらんないよねぇ。いっそのこと生まれ変わって新しい人生やり直さなぁい??」


 嫌な思い出総集編ダイジェストが一挙に脳裏を駆け巡る。気分は下落の一途を辿るばかり。おまけに、おねぃさんの甘い口調、甘い匂いが判断力、思考力を鈍らせ、麻痺させていく訳で。手を差し伸べてくるおねぃさんの滑らかな白い指先へ、そぅっと手を伸ばす。


「そう、それでいいのよぉ」

「いいわけないだろうーがぁああ!」


 その手を掴み取る寸前、フェンスの向こう側から耳にキンキンと響く大絶叫。檻の中の猛獣よろしく金網にしがみつき、がしゃがしゃ激しく揺さぶっている。ただし、その正体は猛獣ではなく幼女。側頭部にちんまりとした山羊角生やすゴスロリ幼女だけども。


「あんたね!こいつに騙されてるよ!あんたの飛び降りほう助も今月のノルマ稼ぎたいだけなんだからね!!」

「それで彼が救われるなら別に問題ないじゃなあい??」

 長い黒髪振り乱し、ピピピ!と背中の蝙蝠羽を忙しなく動かす幼女を、おねぃさんは指先で髪をくるくる弄びながら一蹴する。

「あの娘のことは気にしないでねぇ。ぎゃんぎゃんうるさいけどぉ、あの姿じゃフェンス乗り越えるなんて無理だしぃ」


 指に巻きつけた髪がしゅるる、抜けていく。幼女の金切り声のトーンが更に上がるのも無視して、おねぃさんは髪じゃなくて僕の指を自らの指に絡めてくる。

 死ぬ間際で恋人繋ぎ初体験とは!急激に跳ね上がった僕のテンションを見透かしてか、くすっと笑われてしまったが構うもんか。


 熱気で空気揺らぐ空へ、思いきって飛び込む。一緒に飛び込んだおねぃさんの羽根が神々しいまでに白く輝く。煩いと思っていた蝉の声も校庭の歓声も、これで聴き納めだと思えば不思議と名残惜しく。

 抜けるような空の青さに僕は今、かつてない程の清々しい感動を覚えた――、いつも下の地面ばかり見つめていたから。ん??地面……。

 地面に意識が逸れた途端、校庭の土の固さはどの程度か、急に気になり始めてしまった。この高さから叩きつけられたら、即死だとしても絶対痛ってーよな……。おまけに赤土なんだよな。体育の度にクラスの女子達が、靴下が汚れる!って文句言いまくってたっけ。

 己の血と赤土に塗れた自分の死体を想像する。アカレンジャーな死体とか噂になったらイヤだ。


「お、おねぃさん……、俺、やっぱり……」

「あら、怖くなったのぉ??じゃあ、痛みも感じないよう、もっと上まで飛ぶぅ??そうすれば、気絶してる間に天国イケちゃうからぁ」

「あ、い、いや、そうじゃなくて……!」

「だぁいじょうぶっ!おねぃさんにまかせてぇん」


 落下は途中で止まったけど、今度は物凄い勢いで上空に向かって急上昇、させられている。

 飛ぶ鳥を越え、雲を突き抜け――、これ、どこまでイッちゃうんだ?!あ、止まった……。

 ホッとしたのもほんの束の間。上昇の勢いと変わらない速さで急下降していく。いやだ、俺は、俺は……!


「ホントは死にたくないって??あっそ、じゃ、これからは何が何でも上見て生きていけば??」


 耳に突き刺さる剣呑な声、おねぃさんの声じゃない。視界の端で捉えたのは巨大蝙蝠の羽根。二本の細腕が僕を抱き止めている。細腕の主であるゴツイ山羊角の美少女が上空に向かって叫ぶ。


「お生憎さまだね!この姿が本来のアタシ!フェンス乗り越えるくらい楽勝さ!!」


 おねぃさんは空と同じ青い目を細め、無言で美少女と僕を見下ろしていたけど。嫌そうにチッと舌打ちを一つすると、ぶぉおん!と可愛らしさの微塵も感じられない轟音響かせ、飛び去っていった。


「あのぅ、ありがとう……」

「何が」

 お礼を言うと心外だと言わんばかりに鼻を鳴らされた。

「いや、飛び降り、止めてくれたし」

「……一人の天使につき月一で30人、人間の魂を天界に送るノルマがあるように。地獄では一人の悪魔につき月一で40件、天使の職務妨害を成功させなきゃいけないのよね。アタシも自分のノルマ稼ぎたかっただけだし。あんたの事情なんて知ったこっちゃないわ」


 屋上に到着するなり、安全なフェンスの内側にぺいっと放り捨てられた。尻餅をついたコンクリ地面の熱さ、痛みに生の実感を覚える。

 振り返ることなく飛び去る黒い背中に、(諦めの境地も手伝って)生きるしかないことを悟った。








 あれから、約二十年。


 衝撃の体験を経て生かされたからと言って、一念発起!ということもなく、とりあえず身の丈に合った進学、就職して。家庭も波風立てずに生きてきた、筈だった。

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