Bces ビーセス

杜乃日熊

Bces ビーセス

 最近、体の調子が良くない。睡眠はしっかりと取っているはずなのに、日中仕事をしていても頭がぼうっとする。知らないうちに日頃の疲れが溜まっていたのだろうか。

 今朝にしても、妻と一緒に朝食を囲んでいた際に、


「なんだか、アナタの顔が疲れているように見えるわ」


 と言われた。心配そうに見つめる妻。余計な心配はかけまいと、


「何、別に大したことはないさ。何なら休憩がてらにレモンでも食べておけば問題ないよ」


 平気なふりをしてみた。しかし、勘の良い彼女のことだからきっと看破しているのだろう。私を見つめる視線が、何かを訴えたがっているようだった。とはいえ、彼女はそれ以上追及することはなかった。

 支度を済ませて、家を出て、そして電車へ乗り込む。体調が多少優れないからといって、みだりに仕事を休む訳にはいかない。たかが一人分の空きでも、それが巡り巡って職場全体に迷惑がかかってしまいかねない。仕事とは歯車の組み合わせから成り立っている。どの部品でも欠かすことはできない。

 座席に着いて、おもむろにPCを起動させる。コンタクトレンズの表面にウインドウが映し出される。立ち上がるのを待って、それからブラウザを開く。

 今となっては、出社前の電車内でネットサーフィンをすることが日課となっている。それも、「Bces」があればこそできることだった。

 前頭葉に埋め込む超小型チップ式のPC、「Brain calculation expanted system (=Bces ビーセス)」が開発されてから、それはかつてのスマートフォンに打って変わるように普及していった。手に持つ物は何一つ必要なく、チップと連動するコンタクトレンズ型ディスプレイを装着しているだけで従来のPC同様のパフォーマンスを発揮する。

 視界には今日のニュース一覧が映し出されている。その中から気になった項目を読むため、カーソルを移動させる。カーソルの操作方法は、視線を動かすか、頭の中でカーソルを動かすイメージを働かせるか。視線を動かす方はやたらと目が疲れるので、決まってイメージする方で操作している。

 〈○○社、新型アンドロイドの開発に着手〉

 某月某日、○○社は次世代型AIを内蔵した新型アンドロイドの開発を行うことを発表した。開発予定のアンドロイドは全自立駆動が可能とされており、人間と遜色ない機能が持てると言われている────。

 〈○○社製パワードスーツ、大量リコール〉

 某月某日、○○社が製作した機能補助機械服、パワードスーツに不備があったことが明らかとなった。○○社は、パワードスーツの一斉回収を行うことを発表した。パワードスーツは装着式の機械で、身体障害者や重労働作業者などが難なく生活や仕事に望めることを目的として製作された────。

 このご時世、人間みたいなロボットが作られたり、人間が機械を体の一部として使用したりすることが当たり前の光景となっている。科学が進歩したことによって、人間の営みの中に機械という存在が密接に関わるようになった。その利便性ゆえに、人間は機械に頼るようになり、いつしか機械がある生活に何の疑問も抱かないようになった。

 とはいえ、そんなことは何十年も前から続いてきたものだ。今更この生活に何の疑問を抱こうというのか。機械の恩恵は私達の生活をより豊かにしてくれる。その確固たる事実さえあれば、その他に考えることなど何もない。


「────次は、○○駅、○○駅です。○○線にお乗り換えのお客様は、次でお降りください────」


 気づけば、そろそろ下車する頃合いになっていた。Bcesをスリープさせて、降りる準備をする。

 不規則に流れる人の波を掻き分けて、会社へ向かう。

 歩いていくうちに、目的のビルが見えてきた。そのままビルの中へ入る。

 自動ドアをくぐった先にはゲートが設置されている。空港の金属探査機のようなそれは、私が通ると赤外線を発射する。一通り私の体に照射した後、それまで通り道を塞いでいたバーが持ち上げられる。

 これも科学の進歩の賜物だといえよう。このゲートは中を通る者のBcesを検査する。そこで得た情報と予め登録してあるデータとを照合して、一致すればゲートを通過させる、といった仕組みだ。これがあることで、うっかり証明証を忘れてしまって出社できない、なんてトラブルは無くなった。

 ゲートをくぐって持ち場へ到着した頃には、既に何人かが出社していた。軽く挨拶を交わして、自分のデスクに着席する。

 机上にある読み込みリーダの方へ親指を引っ付ける。親指にはBcesと連動したICチップが埋め込まれている。なので、親指を通して会社独自のサーバーと自前のBcesを接続させられる。それによって、デスクワークを行うことができるという寸法だ。おかげで、社員の机の上は殺風景になっている。中には家から持ち込んできた写真立てとか人形とかを机上に置く社員もいる。ちなみに私は何も置かないようにしている。どうせBcesを使えば視界はウインドウに遮られるのだから、わざわざ机の上を飾り立てる必要がない。

 しばらくして、コンタクトに「接続完了」というメッセージが表示される。これで仕事の準備は整った。

 それから、続々と社員が出社してきた。課長もおいでなすって、一通りメンバーが揃ったところで朝礼が行われる。


「今日も一日、よろしくお願いします」


 事務連絡の後、課長が淡々と挨拶を述べた。社員一同はそれを復唱して、それぞれのデスクへ向かう。

 着席してからBcesを立ち上げる。それから会社専用のブラウザを開く。そこでログインを済ませると、メールボックスに入ってある今日担当の仕事に関するファイルを確認する。一通り目を通して、それから作業に取り掛かる。

 コンタクト上に映し出されるいくつものウインドウ。それをひたすら見つめ続ける。その間、カーソルは右往左往している。

 ふと、今の自分の姿を傍目から見たらどう見えるのか、と想像してみた。きっと、座ったままぼーっとしている不可思議な光景になっていることだろう。しかも、それは私だけでなく、他の社員も皆一様にぼーっとしている。何度となく繰り返しきているはずなのに、その光景を想像するだけで可笑しく思えてくる。

 高度経済成長期と呼ばれた時期には、朝から晩までがむしゃらに汗を流すサラリーマンが大勢いたという。働くことがさも美徳であるかのように、誰も彼もが会社のために手足を動かしてきた。

 それが今ではどうだ。エアコンが効いた部屋の中で、誰も彼もがじっと座り続けている。しかもそれだけで仕事がこなせてしまう。

 百年とない間に、人間はこうも変わってしまうものなのか。それとも、機械という文明の利器が人間をここまで変えてしまったのか。

 いや、よそう。こんな考えは邪推にも程がある。気持ちを切り替えて、目の前の仕事に集中する。

 一つは、エクセルで制作された表。その中には様々な商品の売り上げが記載されている。その他は、空白のワードテキストだ。エクセルに記載されたデータを基に、売り上げの動向をまとめ直さないといけない。

 目前に並べられた数多くの数字。ゼロから九までの記号の羅列から、必要となる情報を抜き出す。

 商品名○○。売り上げ、七八万五七〇〇円。前年度比、プラスゼロ.二パーセント。売り上げ増。

 商品名○○。売り上げ、八六万九六〇〇円。前年度比、マイナスゼロ.八パーセント。売り上げ減。

 二つを比較すると、前者の方が売れ行きは良くなっている。しかし、売上高自体は後者の方が大きい。そうなると、どちらをより販促していけば11000001000100 11000001000100 11000001101110 11000001001011──────




「──────おい。大丈夫か?」


 肩を叩かれた。そこで、はっと我に帰る。一度Bcesをスリープさせて、肩を叩かれた方を見る。どうやら隣の同僚が呼びかけてきたようだ。


「大丈夫、って何が?」

「何がじゃねぇよ。さっきから声が聞こえてくるから誰かと思ってみれば、お前が何やらブツブツ独り言を呟いてたんだよ。あまりにも様子が変だったから、わざわざ心配して声をかけてやったんだ。気づいてなかったのか?」


 私が独り言を呟いていた? 全く気がつかなかった。それだけ目の前の仕事に集中していたということか。それとも、やはり最近の疲れが影響しているのだろうか。


「なんか、最近のお前ってどっか疲れてるみたいだしさ。今日はもう早退した方がいいんじゃねぇのか? 病院に行った方がいいぞ、マジで」


 彼にしては珍しく、私を気遣ってくれている。いつもならば、「さっすが、社畜体質が身についてんなぁ」と軽口を叩きそうなものなのに。


「そう、かもしれないな。とりあえず今取り掛かってる仕事を済ませたら、課長に相談してみるよ」

「いや、まだ仕事すんのかよ。やっぱりお前って社畜体質だよなぁ」


 そう言って、同僚はうっすらと笑顔を浮かべた。


 案の定、やりかけの仕事はすぐに終わった。その足で課長に早退していいか尋ねた。すると課長は特に渋る様子もなく、


「まぁ、君はよく頑張ってくれてるからね。今日は早く上がってくれて構わないよ。無理に働いて体を壊したら、それこそ我が社の損失だよ」


 すんなりと承諾してくれた。今まで意識してこなかったが、課長は案外良い人なのかもしれない。

 課長のお言葉に甘えて、早退することにした。病院に行こうかどうか考えたものの、今日はそこまで気乗りしなかったので明日行くことにした。

 今日は早めに寝よう。ついでにレモンも食べておこう。疲れを取るにはビタミンCが一番だ。そこで、私はレモンを買うためにスーパーへ向かった。

 まだ昼前ということもあって、店内はそこまで客数が多くない。どこかのんびりとした雰囲気が漂う。それにつられるように、穏やかな気持ちで青果売り場へ向かう。買い物カゴを手にして、そして目的のレモンを見つけた。

 帰ったら妻に蜂蜜レモン漬けを作ってもらおう。妻は料理上手だから、ついつい頼ってしまう。それに妻の料理を食べてからというもの、既製品の料理では満足できなくなってしまった。それ故に、どうしても妻に料理を作ってもらいたいと思うのだ。なんとも罪深い妻だ。

 ついでにビタミンドリンクとビタミン剤も買っておく。これだけビタミンを摂取しておけば、ひとまずは問題ないだろう。

 レジへ向かう。カゴに入れた商品を一つずつレジ台のバーコードリーダーへかざす。レモン、百五十円。レジ台の画面上に商品名と値段が表示される。ここでも数字か、と思って内心ほくそ笑む。全てかざし終えてから、親指を専用のリーダーへ押し付ける。ピッ、という電子音の後に「お会計完了」という文字が画面に現れる。これで買い物は済んだ。

 店での買い物一つとっても、Bcesが日常生活の必需品と化していることが窺える。どこへ行くにしても、Bcesの使用は当然のように求められる。今時リアルマネーで買い物をすることは滅多にない。あっても精々貯金箱に小銭を入れるぐらいだ。趣味嗜好はそれぞれだが、そんな不便なことをわざわざ行動に移そうとは思わない。路上ライブを行うストリートミュージシャンだって、自分のBcesを経由してお金を集めるというのに。

 買い物は済ませた。しかし、このまま帰るのはなんだかもったいない気がした。どうしたものかと思案した末、本屋へ寄ることにした。

 圧倒的なデジタル化の波に飲まれゆく社会において、唯一と言ってもいいほど生き残ったアナログ。それが書籍だった。書店の数は昔に比べて減少してはいる。しかし、ITと上手く競合する術を身に付けた書店は、今もなお経営を続けている。

 経営が続けられるのは、ひとえに需要が途絶えていないからだ。どれだけデジタルが世界を覆うことになっても、アナログならではの楽しみを見出す人々は存在した。そんな彼らの働きかけによって、紙媒体の本は今でも売られ続けている。そして、私もまた、アナログを好む酔狂な人間の一人だった。

 書店へ入ると、まず視界に入るのは新刊売り場。大々的に宣伝されているのは、日常と非日常が織り混ざった「マジックリアリズム」的な小説だ。かのガルシア=マルケスが『百年の孤独』を手掛けてから百年は経とうとしているのに、再び「マジックリアリズム」が人気を博するとは予想だにしていなかった。相対する事物が融合し合う世界。それは奇しくも私達が生きる世界によく似ている。だからこそ、この類の小説が注目されるのだろう。

 書店を廻るルートはいつも決まっている。まずは新刊売り場を見て、それから時計回りに進む。雑誌コーナーを越えて、実用書のコーナーへ。それから折り返すように新書を巡って、小説へ辿り着く。小説といってもカテゴリーは多岐にわたる。まずはエッセイ・ノンフィクションを見て、それからハードカバーの小説を眺める。そして最後は文庫へ。文庫の陳列数は店内で最も多く、そのために見て回る時間が一番長くなる。時間をかけるなら、最後に回して心ゆくまで堪能したい。

 私が本を好むのは、それが活字を用いるからだ。私は昔から活字というものに親しんできた。幼少期の頃は絵本などといった挿絵と併せて読んだりしてきたが、成長するにつれて挿絵は必要なくなった。

 活字というのは実に面白い。それらは単なる記号でしかなくて、本も新聞もただその記号を羅列しているに過ぎない。それなのに、読めば読むほど知識が蓄えられていく。読めば読むほど新たな世界が脳内で構築される。その感覚が不思議でたまらず、また、刺激的だった。

 とはいえ、ここ最近は紙の本をじっくりと読む時間は少なくなってきた。会社の行きと帰りの電車内で読めそうな気もするが、やはりBcesの方が荷物にならなくて済む。ネットワークに接続できるから、ネットニュース以外に電子書籍も読める。紙媒体と内容が変わらないのであれば、ついつい便利な方を選んでしまう。

 媒体は違えども、どちらも活字から成り立っていることは同じ。であれば、私は特に抵抗感を抱くことがない。

 そうこうしているうちに、ひとしきり巡り終えたらしい。寄ってみてなんだが、今日は欲しい本が見つからなかった。残念。

 本屋を出て、いよいよ家を目指す。駅まで歩いて、それから電車に乗って、地元の駅へ着く。無論、乗車中はひたすらBcesを駆使していた。

 改札を抜けて、再び歩き出す。もう既に正午を過ぎている。太陽の光が煌々と街中を照らし、無機物さえも生命力に満ち溢れていた。

 しかし、外へ出た辺りからどうも体調が良くなかった。脳に霞がかかったように、意識が判然としない。自然と、歩く足が遅くなる。

 生命力みなぎる街の中。しかし、それに反比例して私の体力は徐々に磨耗していく。会社を出るまでは特に問題なかったはず。それなのに、ここにきて急に具合が悪くなった。一体、私の体はどうしてしまったというのか。

 それでも、どうにかして歩き続ける。一刻も早く、家に帰らなければ。愛する妻の元へ。帰るんだ。早く、早く────。


 膝から崩れ落ちた。顔が地面に触れたところで、私の意識は途絶えた。





「────それで、彼の容態はどうだ? あの後から何か変化はあったか」

「いえ、特に変わりありません。依然として昏睡状態に陥っています。このままでは、彼が目覚める見込みは限りなく低いものと……」

「そうか。それでは、現状我々にできることはただ見守ることだけか……」


 白衣を着た男女一組が会話をしている。男の方はやや年老いていて、度のきつい眼鏡を掛けている。女の方は歳が若く、凛々しい面持ちをしている。

 彼らがいる場所は、機械に囲まれた部屋だった。さながら研究所と思わしきその風景は、何やら説明しようのない怪しさを醸し出している。

 その中でも、特に目を惹く物があった。それは白衣の二人組が見つめる視線の先。そこには卵型の大きいチェアが置かれていた。そのチェアはいくつものケーブルに繋がれていて、独特の存在感を発露している。そして、そこに鎮座する者がいた。中肉中背の男性で、簡易的な患者服を着ている。彼は目を閉じている。その表情はひどく穏やかだ。その一方で、彼を見つめる二人組の表情は険しい。


「しかし。あんなことが本当に起き得るのでしょうか。開発が進んではや数十年。今更こんな問題が起きるとは到底考えられません」

「その疑問はもっともだ。これまで幾度となく研究が進められて、その安全性は世界的に保証されたようなものだ。とはいえ、その保証が未来永劫続くと決まったわけではない。昨日今日でなくとも、いずれかこのような日がくることは想像に難くないだろう」

「ですが、何故このタイミングだったのでしょうか。こんな前触れもなくトラブルが起きるだなんて」

「おそらく、今だからなんじゃないのかな。人間社会に機械という文明が流入してから、長い月日が経った。かつては社会の流通を捗らせるために補助的な道具として使われた機械だが、今となっては人間にとって欠かせない存在となった。まさに人体の一部と化したとでも言わんばかりに。

 確かに、機械は人間社会をより一層充実したものに変えてくれた。世界中の人間が関わりを簡単に持てるようになったおかげで、これまで以上に国際化が進んだ。土地も人種も関係なく、我々が同じ地球に住まう民だという自覚が持てるようになった。

 しかし、我々は機械がもたらす明るい側面ばかり見ようとしてきた。否、明るい側面しか見ようとしてこなかった。

 今回起きた事件は、そんな我々人間の勝手さに対する罰なのかもしれん。見て見ぬ振りをし続けてきた我々に気づきを与えるため、天がもたらしたものなのかもしれない。

 我々は考えなければならない。人間と機械が共存するこの世界が、果たして正しいものなのかどうか。我々はこれからどうしていくべきか。天からの問いかけに、我々は答えを示さなければならない」


 そんな矢先。一台のパソコンから電子音が鳴った。それは卵型チェアに繋がれたものから発せられて、その音は異常を示すものだった。

 白衣の二人組はそのパソコンの画面を見やる。そこには心拍数および脈拍を図形化した折れ線が表示されている。その横に書かれた数値が少しずつ上昇しているのが分かった。

 二人はチェアに腰掛ける男の方を見た。男は微動だにしていない。しかし、刹那に目元が動いた。小さく痙攣するように動いて、やがてその瞳が開かれる。焦点の定まらない目は、まるで虚ろのように生気が宿っていない。男はおもむろに口を開く。それから、声が発せられた。


「100111101001101 111111101101110 111100010111010 1000101010001101。

 場所、特定。現在地は、北緯○度、南緯○度。○○、○市○町○丁目。機械工学に関する研究施設。

 脳演算拡張システム、Brain calculation expanted system、通称『Bces ビーセス』。これより起動します」


 抑揚のない声で告げられた言葉は、人間が喋っているように思えない。まるで機械が音声を流しているかのようだった。

 それを見た二人組は唖然とする。信じられないものを見てしまったことによる驚愕が、彼らの心を占めていた。


「博士……これは」

「ああ、間違いない。彼の意識は完全にBcesに支配されている。これはいよいよ緊急事態のようだ」


 今ここに、人類への脅威が誕生しようとしていた。



 女は泣いていた。夫が行方不明になったのだ。

 ある日、仕事へ向かった夫。しかし、その日から夫は帰ってくることはなかった。

 女は警察に相談した。捜索はこれから行われるらしい。とはいえ、女の心が休まることはなかった。

 あの日。夫はどこか体調を崩していた様子だった。もしかして、それが災いして、どこかで倒れてしまったのではないだろうか。しかも、その倒れた場所が人目につかないような所なために、今もなお発見されていないのでは。夫の命が危ない。そう思うと、女はますます焦燥感に駆られた。

 しかし、それだけ心労を募らせても、自分にできることは何もない。ただこうして夫の帰りを待つことしかできないでいる。女は自らの無力さを呪った。

 それでも祈らずにはいられない。どうか、あの人が無事に帰ってきますように。女は懸命に祈り続けた。その祈りは、天に届くかどうか。それを知る術は現状どこにもなかった。



 とある企業にて。一人の男が行方不明となった。男のBcesとは連絡が取れず、自宅に連絡しても男は未だに帰ってきていないという。

 現在、警察が捜索しているとのことで、ひとまずは警察に任せることにした。

 社員が一人消失した。この奇妙な出来事が起きたことで、社内は不安に包まれた。今まで何の事件性もなかった人が突如として行方知れずとなった。一体何が起こったのか。

 その動揺は上層部にも伝わった。しかし、彼らが下した決断は通常通り業務を行うことだった。今どれだけ彼の身元を心配したとしても、それを理由に業務を停止させるにはあまりにもデメリットが大きすぎる。それに言い方が悪いが、たった一人抜けただけだ。それなら多少の人事異動で穴埋めができる。企業は、社員一人の安否よりも会社の利益を優先させた。

 それからも、仕事は滞りなく進められた。誰もが一抹の不安を抱えながら、それでも業務を怠ることなく従事していった。そして、時間が経つにつれて、その不安は少しずつ霧消していった。



 Bcesのとあるネットニュースにて。隅の方に、ある記事が掲載されていた。


 〈一般男性、消息を絶つ〉

 某月某日。○○市において、一般男性が消息不明となった。○日、男性は朝から会社へ出勤するも、体調不良を理由に早退した。しかし、その後から消息が絶たれた。目撃者の話によると、男性はスーパーや書店へ立ち寄っていたことが判明した。警察はさらなる証言を集めるとともに、男性の捜索を引き続き行うとの方針を示している。

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