続・背中を向けた少女

菜美史郎

第1話 プロローグ 

 真夏の太陽がもうずいぶん西に傾き、あと一時間もすれば水平線に沈んでしまいそうだ。家路に着いたのか、海水浴客の姿がほとんど見られない。

 人の声に代わって、波の音がはっきり聞こえる。


 二時間ほど前から山本勇夫は、時折ポイントを変えては、ごつごつした岩の多い磯で釣り糸をたれている。


 垂れているといったが、実際はとても忙しい。

 リールを巻きながら、岩から岩へと、走り回らねばならないのだ。


 餌はルアー。疑似餌である。本物の魚に似せて、作られていて、それがリールを巻くことで、さも泳いでいるように見えるのである。


 いつもなら、チヌの大物が一匹や二匹、釣れているのにと、勇夫はいらいらがつのる。くわえるたばこの数も増えた。


 よく釣れるときは、たばこをくゆらす暇なんてない。


 波が荒くなってきて、足もとの岩にぶつかっては、大きくくだけ散り、勇夫の雨合羽のフードをぬらした。


 勇夫は川釣りもやるが、海釣りもやる。どちらかといえば海釣りのほうが好きだ。予想外の大物がかかったときの嬉しさといったら、この上ない。川釣りで絶対に経験できないことである。


 海釣りは常に危険がともなう。一歩あやまれば、波にさらわれ、海底まで引きずり込まれてしまう。


 だが、それは承知の上だ。

 今も、岩にくっつくフジツボのように、勇夫はゴム靴の両足をしっかり踏んばっている。


 突然、キャッという女の声が辺りに響いた。

 若いカップルがひと組、勇夫のすぐ後ろにある高い岩場にのぼっていく。


 彼らはまるで子猫がじゃれあっているよう、手といわず、脚といわず、互いの体を触れあっている。


 (うるせえな。こっちは魚と真っ向勝負のさいちゅうなのに)

 勇夫がふりむき、鋭い視線を彼らに投げつけると、彼らはおとなしくなった。


 やれやれ、これで大丈夫、心おきなく釣りに専念できるぞと勇夫はほっとひと息ついた。 


 日差しが斜めになり、あたりが朱色に染まりはじめたので、勇夫は焦りだした。

 ふいにひゅっと風を切る音がした。


 何か黒くて、小さなものが、勇夫の頭上を飛んでいき、それは釣り糸が海面に接している辺りに、ドポンと落ちた。


 勇夫はちっと舌打ちし、きっとさっきの若いやつらの仕業だろう。まったく困ったやつらだ、と思った。


 二の矢が飛んでくるやもしれない。

 勇夫は最寄りの岩かげに身をひそめた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る