8.エスキルの選択

 片脚を引きずりながらエスキルは村の通りを歩いた。夜の静寂の中に、エルフの嘘と迷信を信じて家に閉じこもる村人たちの息遣いを感じる。傷の痛みに呻き声を上げそうになるたび、攻撃に対する本能的な怒りが沸き起こった。怒りを解き放ち、扉をぶち破って住人を痛めつける――そんな想像をして愉しみはするが、実行はしない。それが人間というものだ。半獣の状態でも、完全な狼の姿になっても、心はなんら変化しなかった。


 いっそのこと昔話のように、心までも獣になれたら、門前に捨てられていた自分を育ててくれた村への恩義も、一途に愛情を注ぎ続けるアーダのことも忘れて夜の森へと駆けて行けただろうか。


 アーダと友達以上の関係になってから、孤児の狩人が村長の一人娘と一緒になることを快く思わない村人の囁きは、嫌でもエスキルの耳から浸入し、脳にこびりついて蓄積していった。彼女の愛情を重荷に感じたこともないではない。彼女の気持ちを素直に受け取れない自分に苛立ったこともないではない。だが、心安らぐ瞬間は確かにあって、ゆえに離れ難かった。そんな時、あのダイアウルフと出会ったのだった。


 去年の秋。人を恐れない熊を追う危険性をエスキルは十分に理解していなかった。トーベンを怪我させてしまった――村から受けた恩を仇で返してしまった――ことへの恐怖が冷静さを失わせてもいた。落ち葉舞う秋の森に、はっきりと残っていた熊の足跡は崖下でぷっつりと途絶えていて、しまった、と思った時にはもう遅かった。背後に獣の荒い吐息を感じてすぐさま地面に身を投げ出すも、頑丈な爪の一振りが厚い革の上着を切り裂き、鋭い痛みが走る。エスキルにできたのはうつ伏せで丸くなり、奇跡を願ってひたすらに耐えることだけだった。熊は様子見しつつ、エスキルを仰向けにしようと何度も噛み付き、爪で叩く。


 死を意識した刹那、瞳の奥で閃光が弾け、何かが目覚めた。気付けばエスキルは熊の肩口に牙を埋め、ぶ厚い毛皮の下の筋肉のうねりと、ねっとり温かい血の味を感じていた。視野、味覚、聴覚、嗅覚、今までとは何もかもがまるで違う。自分に何が起こったのか、と力を緩めてしまった瞬間に、熊の爪が顔の右側を切り裂いた。世界の半分が赤く染まる。地面に叩き付けられたエスキルは狼と化した自分の腕と、長い鼻先を見ながら目を閉じた。


 再び目を開いた時、見えているものは同じでも場所が違っていた。獣の巣穴の中だ。鋭くなった嗅覚が熊のものではない別の動物のにおいを捉える。人間の感覚で腕を伸ばそうとして、実際に前足が腕に変わり、エスキルは目を見張った。どうやっているのか自分でもわからないが、意識するだけで人間と狼とを行き来できる。全身でも、一部分でも。これがエスキルにとって初めての変身だった。


 ぬっ、と巣穴の入口が影に塞がれる。獣が入って来ても、エスキルにはどうする事もできない。逆光になった巨大な影は狼の形をしている。獲物の肉を鼻先に置き、顔の傷を舐め、エスキルが起き上がれないと知ると、咀嚼して柔らかくしてから直接口の中に押し込んできた。奇妙な安心感に困惑しつつ、エスキルは獣の介抱に身をゆだねた。


 変身は体力を消耗し痛みをともなうが、傷は浅くなる。それに気付いてからは回復も早く、起き上がれるようになったある晩、エスキルは巣穴からヨタヨタと外に出た。そこは見知った森の外れで、背後の気配に首をひねって見上げると、彼女がいた。灰色の体毛をした馬ほどもある巨大な狼ダイアウルフ。月光を浴びて銀色に縁どられた姿は神々しくさえあった。赤い瞳がエスキルを捉えた瞬間、強烈なまでに純粋な想いが胸を打つ。


〝おまえがいとしい。おまえが欲しい。おまえを自分のものにしたい〟


 そこにはエスキルが密かに抱いていたアーダへの負い目も、村社会のしがらみも、何一つ無かった。ただ生きる、という純粋な生への解放が約束されていた。ダイアウルフは崖上から飛び降り、ついて来いとばかりにゆっくりと歩きだす。二頭の狼は夜の森を歩き、エスキルが知る世界の境界を越えて進んだ。視界が開け、さぁっ、と心地よい秋の夜風が吹き抜ける。


 目の前には山間に向かって伸びる広い草原があった。本能の赴くまま、エスキルは傷も体力も忘れて思わず駆け出し、よろけた身体をダイアウルフが支えた。二頭は寄り添いながら月光の草原を駆けていった。


 短い秋が過ぎて冬になっても、エスキルはダイアウルフと逢瀬を重ねた。雪深い北方の森。白い静寂の中を二頭の狼は駆けまわり、飛び跳ね、戯れて、ともに狩りをした。人間の姿を見せても魔獣の態度はなんら変わらず、外見ではない、もっと本質的な部分でエスキルを認識しているようだった。


 しかし、それでも、エスキルの心はどうしようもなく人間のままで、獣として生きていく覚悟も無く、アーダに別れも告げられず、春を迎え、そしてあの日、ヨエルに呼び出されたのだった。


 森の中の茂みに囲まれた小さな空き地で、誰からも好かれた金髪の若者はまっすぐに言葉を叩き付けてきた。


「お前はアーダの気持ちを考えたことがあるのか。その気が無いなら、そう伝えろよ。ちゃんと向き合って話し合え。でないと彼女が可哀想だろ」


 それが最後の一滴となって、エスキルの中の何かを飽和させた。


「……やるよ」


「は?」


「彼女、お前にやるよ」


 青い瞳が危険なまでに怒気をはらむ。「きさま……!」


 胸倉を掴んで引き寄せ、エスキルの目を見て本気なのだと知ると、ヨエルは人間らしい正義感を爆発させた。腕を伸ばして半歩下がらせ、握った拳を肩の高さに持ち上げる。一発くらいは殴られてやるつもりだった。それで何もかも、きれいさっぱり、終わりにできるはずだった。


 けれど拳は飛んで来ず、ざっ、と灰色の毛皮がエスキルの眼前を横切った。一瞬の出来事。ヨエルがいた場所には下半身だけが残されている。むせかえるような血と内臓のにおいが狭い空き地を満たし、その中で灰色のダイアウルフが身を丸めるようにして上半身を食んでいた。無傷の顔面に残された歪んだ表情は、怒りなのか恐怖なのか。


 声も出せないでいるエスキルに、ダイアウルフの意識が触れる。これは弱きもの、我々の敵ではなく、獲物だ。一緒に食べよう、と無邪気に誘う。


「駄目だ!」エスキルははっきりと口にした。「駄目だ。そいつを置いて、今すぐ巣穴に戻れ。おれが迎えに行くまで戻って来るな!」


 なぜ、とダイアウルフの赤い瞳は問うたが、エスキルの真剣さと複雑な思考に気圧され、ヨエルだったものをその場に置いて茂みを飛び越え姿を消した。エスキルは周囲に誰もいないのを確認すると、冷や汗を拭ってその場を離れた。


 どうする――あの有様を見れば誰でも魔獣の仕業と思うだろう。魔獣の類が現れたと知れば、ベントはアードリグのエリアス王に連絡し、王は戦士団を派遣して森狩りを行う。彼女のいた痕跡を全て消すのは不可能だし、誇り高き彼女が〝弱きもの〟から逃げ隠れするはずがない。森は戦場と化し、たくさんの人命が失われ、最後には彼女も殺される……。


 いやまて、それが人狼なら、どうだ。村長も村人も、村から人狼が出たとは知られたくないはずだ。秘密裏に処理してくれる可能性はある。問題はベントだが……いや、まずはこの手でやってみるしかない。時間稼ぎくらいにはなるだろう。その間に、心を決めるのだ――。


 結局、その思い付きは上手くいかなかった。まさか魔獣殺しのエルフが現れるなんて誰が想像できるだろう。だが、アンサーラは助けになってくれた。人狼が何かを教えてくれ、村人から救い、〈皮を変える者スキンチェンジャー〉の力を手放す方法を用意してくれた。


 エスキルは村の交差路に辿り着き、そこで今度こそ本当に決断せねばならなくなった。左の道をいけば、自分の家がある。成人の祝いに村の人たちが建ててくれた家でアーダが待っている。〈皮を変える者スキンチェンジャー〉の力を捨て、普通の人間として生きていける。右の道を上って門を抜ければ、その向こうは夜の森。行けば二度と人里には戻れない。


 どちらが正しい選択かは、考えるまでもなかった。本当は分かっていたから、アーダに別れを告げなかった。可能性を担保しつつ、どちらも手に入る都合のいい方法を探していただけだった。その狡猾さこそ、まさに人間そのものではないか。アンサーラの霊薬エリクサとやらで、少なくとも片方は断ち切れる。ダイアウルフと過ごした時間は、本当の自由を味わった一時の夢として、心の中にしまっておけばいい。独り酒を飲みながら、時々思い出して浸ればいい。


 エスキルは左の道を進んだ。家が見えてくる。がたついた壁板の隙間から小さな明かりが漏れていた。アーダが待っている――その時、遠く森の彼方から狼の遠吠えが聞こえ、思わず振り向いた彼の目は煌々と輝く満月に満たされた。月光の平原。雪の中で跳ねる銀色の狼。雪玉をぶつけた時の彼女の顔。そしてあの、赤い瞳。打算も、しがらみも無い、純粋な愛。


 普通の人間には決して手にできないものを手にしておきながら、それを捨て、村のしがらみの中へ自分を埋葬することが本当に正しい選択といえるのか。アーダには家族も村もある。彼女ダイアウルフにはおれしかいない。この道はおれにしか選べない。


 エスキルはアーダの待つ家に背を向け、交差路に戻り、右の道を上りはじめた。徐々に足を速め、みるみる狼に変じて村の門を抜け、闇の中へと駆けていった。

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