第3章
第12話 矛盾
日陰とはいえ空気が滞留する路地裏は、走ればその空気が纏わりついてきた。まるで生ぬるいカイロを身体中に貼っているかのようで、体温調整をするために汗は容赦なく流れ出る。
音無はその汗を拭うことは諦めている。ただ重力に任せて地面へと零れ落ちるか、服に吸収されていくかのどちらかに委ねていた。
以前に導から「風」を操れるのは便利だと言われた。暑いときは涼しい風を、寒いときには暖かい風を自分の程度に合わせて吹かせられる。まるでエアコンのようだと。
しかしそれは大いに間違いで、音無は風を操れても、風の温度まで調整できるわけじゃない。あくまで風力とその向き程度だ。《欠片持ち》は万能だと思われている節が多々あるが、そんなことはない。できることとできないことがはっきりしている。
無尽蔵に扱えるわけでもない。無闇やたらに使えば、それだけ体力と気力を消費することになる。それもまた一般人が誤解しているところだ。
何事も限界がある。
おそらくルーチェの力にも制約があるはずだ。
肉体の変化を繰り返すことも、武器を生成するとも、必ずどこかで限界がくる。彼女を捕らえるのはそれからでいい。気絶させることも考慮したが、しかし先ほどの接触であまり効果がないことは明らかだ。
気絶に耐性がついている、とは考えづらいし、考えたくもない。ただ彼女の言葉がそうなのではないかと考えさせた。
だからこそルーチェを野放しにすることができなかった。彼女はいるだけで周りに悪影響を与えるだろう。それだけの力は感じられた。不用意に誰かが接近すれば、その存在で、あるいは言葉を持って歪まされていく。
噛み合っている歯車の一つを腐敗させていき、その動きを狂わせていくのと同じだ。平穏など簡単に崩すだろう。なんといっても一般人が見ても彼女のうちに秘めている色濃い異常性は理解できる。
望んでそうなったわけじゃない。おそらく彼女を取り巻いていた環境が変化させたのだ。故に恐ろしい。
そしてたぶん彼女には殺意はあっても悪意はない。
音無は自分の導き出した推論を頭の中に構築していき、どう対処すべきかを思案する。ルーチェの狂気に満ちた行動は、少なからず精神的苦痛を与えてくる。
この街で、あの年頃の女の子が平気で腕を傷つけることはない。
自分の身体を傷つけてなお笑い続けるなんて正気ではない。
まだ手遅れでなければ救い出したかった。まだ間に合うのならば、暖かい光の照らす世界に住んでもらいたい。
「お願いだから武器をしまって」
音無は立ち止まり、三メートルほど離れた場所にいる少女に告げた。白髪は路地裏に差しこむ微かな太陽光を浴びて輝き、紫色の瞳はまっすぐ音無を捉えている。その両手にはショーテルが握られていた。
ルーチェは微笑する。子供らしく。
「ダメだよ、それはできないの」
「どうして?」
「お姉ちゃんが邪魔だからだよ。ここで生きるために、これから生きていくために邪魔だから、お姉ちゃんはここで殺さないといけないの」
音無は静かに息を深く吸い込み、そして吐き出した。関わってしまったせいなのか、彼女から目を離すことができなくなっていた。
「その考えを捨てないと、あなたはこの街で生きられないわ」
この街どころではない。どこにも居場所なんてない。自分たちに危害を加える可能性がある者を身近に置こうとは誰も思うわけがなかった。
「大丈夫。今はお姉ちゃんが邪魔なだけだから」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「お姉ちゃんも私を殺したいでしょ? だって邪魔だもん」
「そんなこと言ってない!」
ルーチェから目を離せないが、しかし同時に目を離したくもあった。どうしようもなく歪んでしまっている彼女はこちらの心を平気で折りかねず、本能が回避しようとしているのだ。
彼女とて破滅願望があるわけじゃない。いくら身体を傷つけることができるとしても、それが平気だと言っても、撤退を選択できるのだから救いはある。
生きたいと願うのなら、適応することだってできるはずだ。
だからまだ間に合う。
だから必死になる。
「邪魔だからといって殺してしまえばいいってわけじゃない。こうしてあなたは会話ができるの。まだ話し合いで解決することができるわ」
「できないよ」ルーチェは否定する。「だってお姉ちゃんが邪魔なのは同じだもの。今解決しても、やっぱりあとでお姉ちゃんが邪魔になるんだ。だったら今のうちに殺しておくのが、人間らしさだよね?」
「それは今のあなたが続けばのことでしょ」
「私は変わらないよ。変わりたかったのなら、とっくにそうしてる」
そうじゃない、と音無は思った。ルーチェは変われなかったのだ。周囲の人間が、環境がそれを許さなかったに違いない。痛みに慣れているのも、おそらくそれが日常の一部としてあったからだ。
「ごめんね、こんな私で」
ルーチェの口が三日月のようなかたちに変わる。音無はすぐに察し、《欠片の力》を使い、自身の周囲の風の障壁を作り出した。
ショーテルの刃が目の前で折れ、弾き飛ばされる。
ルーチェに驚かされるのはただ異様な力を持っているだけじゃない。動きが人間のそれではないのだ。三メートルの間合いなど本当に一瞬で埋める。
「あれ? 話し合いしないの?」
次々と武器を作り出しては、障壁に切りかかる。それが無駄だとわかっていても、少しずつ自分の身体が傷ついていっても、彼女の勢いは変わらない。閉じ込められた子供が壁を叩き続けるように武器を振り回す。
「私、傷ついてるよ? もしかしてこれがお姉ちゃんの話し合いってこと? なぁんだ、やっぱり人間って傷つけることが好きなんだね」
「あなたが近づくからよ。傷つくことがわかって――」
近づくから、と言おうとしたときには、ルーチェは「そうなんだ」と不敵な笑みを浮かべて、距離をとった。
音無は目を見開く。
さっきと同じくらいの間合いに立った彼女の両手には機関銃があったからだ。彼女の細腕で耐えられる代物ではない。その反動で骨折してもおかしくはないだろう。
ルーチェはそのことを理解している。
そしてもう一つ。
音無が自分の身を守るために風の障壁を消すことができないことも。
「やめ――」
大粒の雨がバケツをひっくり返したかのように降り始めたかのごとく、その音は路地裏に響き渡った。薬莢(やっきょう)がバラバラと雹のように地面に零れ、その閃光は音も相まって雷のようだ。
音はそれだけじゃない。
放たれた銃弾が建物や壁を抉り、突き刺さる。剥き出しの配管に容赦なく穴があき、そこから水が吹き出した。
それはただルーチェの腕が反動に耐えられず照準が定まっていないためだけではなく、風の障壁にぶつかり跳弾しているためもあった。
銃声と蹂躙の音の中、甲高い声を音無は確かに聞いていた。ルーチェが笑っている。声を高らかに上げ、跳弾で自身も傷ついているのに、それでもなお、それだからこそ彼女は笑っている。
「話し合い楽しいね! お姉ちゃん!」
雑多の音の中でも、彼女の声は通った。
音無はただ見えているしかできないでいた。歯を噛み締めて、周囲の建物が破壊されていく様を、ルーチェが傷つき血を流していく様を見ていることしかできない。
風の障壁を取り払えば、音無は蜂の巣のようになるだろう。だからこの防御を解くことはできない。ルーチェを止めるために「攻撃」をすることはできる。しかし「攻撃」をすれば、音無が告げた「話し合い」にはならない。それはただの開戦の合図だ。ルーチェの思惑どおりになってしまう。
故に音無に今できることは、ルーチェが機関銃に飽きてくれるのを待つこと、この騒ぎを聞きつけた野次馬が現れないことを願うくらいだった。
自分の身をここまで案じない相手をするのが、これほどまでに精神を抉るとは思っていなかった。ルーチェのような少女が相手であることも要因の一つだとしても、ただ人間として生物として見ているのが辛かった。
やがて銃声は止んだ。跳弾の数が多かったために、土埃が酷く舞っている。
「へへ。見てよ、お姉ちゃん」ルーチェは両腕を広げた。ただ右腕は千切れ掛け、左腕は肘から先がない。ローブは赤黒く染まっている。彼女の髪もまだそうだった。全身から血が溢れ出ている。「これがお姉ちゃんの言う話し合いなんだよね? どうだった? 私を助けられそう?」
手遅れだ、と音無は零しそうになったが、ぐっと堪えた。これはあくまで彼女の作戦だ。殺すだのそうじゃないだの言っているから勘違いをしてしまっていたが、これは心を折る戦いなのだ。
彼女は理解している。
自分にどれほどの影響力があるのかを。
どうすれば相手の心を打ち砕けるのかを。
年端のいかない少女の無残な姿を見て、誰が正気でいられる。しかもその少女は全身を赤く染めてもまだ無邪気な笑顔を見せるのだ。気持ち悪いと言う他ない。胃は縮小を始め嘔吐感を引き起こし、胸が酷く痛む。
こうやって彼女は生きてきたのだろう。
それが悲しかった。
誰も間違っていることを教えなかったという事実が、こうすればいいと彼女たちに知らしめてしまった世界があまりにも悲痛だ。
ルーチェの損壊した身体が徐々に回復していく。右腕を一瞬でもとに戻したときとは違うのは、わざとその様を見せて精神を削るためなのか、それともただ損壊が激しいためにそうすることしかできないのかは不明だ。
「私は傷つけられるのが嫌い」紫色の眼光が妖艶に瞬く。「傷つけば痛いし、傷つけば苦しいの。でもね、みんなが喜ぶからそうするの。みんながこうすれば喜んでくれるからこうするの」
だから私もみんなに傷ついてもらうの。
みんなが教えてくれたのは喜べる方法だから。
鼓膜を振るわせる彼女の声もまた心を不安定にさせ、音無はその場に片膝をついた。気付いてしまえば、視覚も聴覚も彼女に汚染されてしまっていることを意識してしまう。見ていられない。聞いていられない。
それでも見てしまう。
それでも聞いてしまう。
回避不能の精神削りが、音無にかつてない不安と不安定を与えていた。嗅覚でさえ、火薬と土埃、そして彼女の血肉の臭いで使いものにならず、ただ気持ち悪さを気分の悪さをさらに悪化させるだけだ。
「ねえ、話し合い……しないの?」
これが完全な未知との戦い。
ただ民間人や情報を得られる《欠片持ち》とは違う。
自分たちの常識を外れ、想定は無意味。
理解を超え、許容もできない。
戦うべきだと思ったのが間違いだった。危険な相手はやはり危険なのだ。どんなに訓練を積んでいようと、それを凌駕されてしまっては太刀打ちができない。
知らないうちに白枝畔と同じ道を歩んでいた。
しかし気付いたところで遅い。
不安定になった心は、いつもどおりの行動を引き起こせなくする。つい先ほどまで使えていた《欠片の力》の使い方も今ではわからない。手の動かし方も、足の動かし方もわからない。
なるようにならない。狂ってしまっていた。
近づいてきたルーチェの右腕が鎌になり、振り上げられる。
「じゃあね、お姉ちゃん」
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