第11話 虚構
足が軽い。それどころか身体全体が軽く感じられた。今ならば空も飛べそうだ、とルーチェはその姿を想像して一人で笑った。
どこまでも高く飛んでいく。
自分たちより背の高い建物や山がどんどん小さくなる。
その反対に高い場所にあった小さなものがどんどん大きくなる。
もしかしたら星だって掴めるかもしれない。
月に行けるかもしれない。
そう考えるだけで胸が躍り、興奮が止まらなかった。空を飛べれば、もう地を舐めることもなくなる。汚いものから遠ざかることができる。
雲の上には綺麗なものばかりだ。
太陽も、月も、星も。
雲だって白くて綺麗だ。
青や赤、紺色に変わる空の様だって綺麗だ。
空が飛べたらどんなに楽しいだろうか。
しかしなにも地上が悪いことばかりだというわけじゃない。もしそうならば身体が軽く感じることで空を飛べるかもしれないと思うはずがなかった。
「風のお姉ちゃんにぃ、不思議な動きをするお姉ちゃん。隠れてるのに気付いちゃうお兄ちゃん。ふふ、楽しいなぁ」
ルーチェは思い出しながら、さらに笑う。
ただの人間と戯れたことはあっても、化物どうしで遊んだことはない。それだけに今後の展開が楽しみだった。
※
街の様子はまだ変わっていなかった。夏休みの終わりを満喫する若者たちで賑わったままだ。
ルーチェという石が投じられてはいるが、その波紋は外側まで広がっていない。その原因はルーチェが表立った行動をしていないからだろう。人目のある場所でその敵意のままに行動を起こせば、たちまちこの近辺は封鎖されていた。
しかし彼らに悪いが、封鎖はじきに行われる。
犠牲者を出さないためにも彼女に近づかず、近づかせずの状態にしないとならない。《欠片持ち》の存在を認識していても、それだからこそ《欠片持ち》でなく特殊能力を扱う彼女を目にすれば、思考が追いつかなくなる。当然、咄嗟(とっさ)の動きなどできない。
もうすぐ時間は正午になる。なるべく早く、そして相手に悟られずに民間人を商店街付近から遠ざけなければならない。人が増えるたびに、誘導にかかる時間が増える。
最善策は、誰かが彼女を見つけること。誰かが相手をしているかぎり、民間人が彼女に襲われる可能性が低くなる。
そのために音無は走っているのだが、なかなかその尻尾を掴むことができなかった。あれから嫌な風を感じ取っていない。
「一旦休んだら?」耳に付けたインカムから導の心配する声が聞こえてきた。「闇雲に捜すのが無駄とは言わないけど、体力は温存しておいた方がいい相手なんじゃないの」
「まだ平気よ。体力作りは基本中の基本だからね」
どんな訓練よりもまず優先されるのが体力作りだ。疲労で低下するのは運動能力だけではなく、思考能力も著しく下がる。十全に行動するために体力だけは付けておかなければならない。
たとえ《欠片持ち》であっても例外じゃない。むしろ《欠片持ち》であるからこそ、体力が必要だと言えた。
「さすがだねえ。私は汗をかくのが嫌いだから、体力作りするくらいならプールで溺死した方がましだと思ってるよ」
「それは嘘でしょ」
「さてね」
「……まあいいわ。ところで、ルーチェは見つかった?」
「見つかってたら報告してると思うけど」
「確認のため」
「どこの監視カメラにも映ってないよ」
「逆に考えれば、監視カメラの範囲外にいるってわけね」
しかしそうなると矛盾が発生する。ルーチェが「街の外」から訪れたというのなら、監視カメラに映らずに行動できるのはおかしい。いくらなんでも把握し過ぎている。この街の住人ですらそのすべてを知っているわけじゃない。たまに見かける程度のことだ。
そして仮にルーチェの言葉を信じるのならば、街の住人になりたいと切望するのなら、一目につかないように行動するのは不自然だ。
(どれも嘘ってこと……?)
あの場を脱するための嘘だったというのなら理屈は通る。陰に身を隠しながら、街の人間を襲おうとしていた。だから道を塞いだ音無が邪魔だった。言葉ではダメだったから攻撃をした。
本当にそうだろうか。
彼女の並べた言葉は嘘だったのだろうか。
「白髪で瞳は紫色。名前はルーチェ。この街にはそんな子いないのよね」
「いないね。だから街の外から来たというのは間違いじゃないと思う」
それは最も疑わしいだけあって、最も真実味のあることだった。音無は彼女が街の外から来たことをほとんど疑っていない。
だからこそ、監視カメラのことが気がかりなのだ。
「ついでに言えば、街に入ったという痕跡もない」
「え?」
「だから都市警察は動かない」
淡々と続ける導に、音無は戸惑いを隠せなかった。
頭の中で彼女の言葉を繰り返す。都市警察は動かない。
「どうしてよ!」
「舞桜以外の目撃証言がないからだよ。誰もルーチェという子を見ていない。人間も、機械もだ」
「私は見たわ。応戦もした」
彼女の声を、容姿を憶えている。剥き出しの敵意を肌で感じた。たしかに理解の範疇を超えていた相手ではあるが、たしかにあの場に存在していた。それだけは間違いない。夢幻の類のはずがなかった。
「上はどうやら慎重派ばかりになってしまっているようだよ。先の一件がかなり響いているみたいだ」
「響いているなら、むしろ戦うべきよ」
「私に言われても困る」
「……そうね、ごめん」
導の事務的な対応が音無を冷静にさせた。自分でも気付いていなかったが、かなり興奮状態にあったようだ。ルーチェに出会ってしまったために、不可解な存在と相対してしまったが故に、熱くなり過ぎていた。
「動かないっていうのは、本格的に捜査を開始するわけじゃないってことね。警戒だけはするみたいよ。要は住民に混乱を与えたくないのと、ルーチェを刺激したくないんだ」
導は少し間を開けた。
「――いくら訓練を積んでいるとはいえ、未知との戦いを想定しているわけじゃない。都市警察の相手はいつだって既知の中の未知だ。完全な未知と相手をするとなると、さすがに動けない――それだけはわかって欲しい」
おそらくこれは導の言葉ではなく、彼女が代弁しているだけの言葉だ。伝え聞いたことをそのまま話している。それだけに相手の感情が読み取りやすかった。
都市警察の考えを肯定することができた。
「わかったわ」
「報告終わり。怠過ぎ」
その語気から、いかに彼女が報告を面倒だと思っていたかがわかる。ただの溜息にしても常人よりも深く重い。
「んじゃあ、こっからは個人的な会話」
「なに?」
「ルーチェは瞳に欠片を持っていなかったんだよね?」
「ええ。それは間違いないわ」
唯一の《欠片持ち》の特徴を見逃すはずがなかった。それに欠片だけではない。微弱な光を発するのだから、気付かないはずがないのだ。
「だったら、もう一人いたって可能性はない?」
「もう一人?」
「ルーチェは《欠片持ち》じゃない。だったら《欠片持ち》が彼女を能力者として見せていたのなら、彼女の瞳に欠片がなくてもおかしくないと思わない?」
導の考えは間違っていない。まず思いつくのが、ルーチェを《欠片持ち》ではない能力者に仕立てあげることだ。なんらかの方法で街の外から彼女を引き込み、とある計画の一部として利用する。ありそうで、今までなかった話だ。
ただそれは思考の話であって、事実であるとはかぎらない。そういった意味では間違いである。《欠片持ち》に仕立て上げるために、実際に《欠片持ち》が関わっていては特定は容易だからだ。
「この街の人間がルーチェを利用してなにかをしようと思っているのなら、一つ厄介な組織があるでしょ」
「あー、雪柳か」
この街で《欠片持ち》による犯罪が少ないのは、都市警察が抑止力として働いているのではなく、雪柳研究所がそれを担っているからだ。《欠片持ち》が能力を行使した際に発する波動を検知し、そこから対象の特定に繋げることができる。
すべての《欠片持ち》が管理されているからできることだ。
しかし彼らもまた受動であり、未然に事件を防ごうとも、事件が起きたからといって自分たちから協力を申し出ることもない。あくまで研究所であり、治安部隊ではないからだ。そのあたりの線引きはしっかりしているようである。
逆にいえばその線引きが、十全な情報を開示しない要因でもあった。《欠片持ち》の研究がどこまで進んでいるのかも不明だ。
「私の言葉が信じられないにしても、雪柳研究所には一応、調査要請を出しているはずよね。もうそれが正しいかはわかっているんじゃない?」
都市警察が本格的な捜査に乗り出さないのは、ルーチェが只者ではないことを証明していた。《欠片持ち》が相手ならば、彼らだって臆することはない。それこそ「正義のため」と集った者が多いのだから。
「波動がいくつか重なると特定が困難になるから、相手は複数人いるとか」導は可能性を並べていく。「あとはこの間の爆発のときみたいに、登録されていない《欠片持ち》の登場くらいか」
「完璧なものはないわ」
どんなに頑強な管理体制であっても、それを打ち砕く手段は必ずできる。人間には心があり、欲がある。機械にだって誤作動がある。一つ一つの小さな綻びがやがて大きくなって脆弱を作り出すことがあるのだ。
それは理解している。わかっていたことだ。
だからこそ音無が理解できないのは、立て続けに“同じような”ことが起きていることだ。街の外からの侵入はおそらくルーチェや爆破を引き起こした《欠片持ち》だけじゃないだろう。
表沙汰になっていないだけで、何度も侵入されているに違いない。
それなら誰も気付いていないのだろうか。
しかしそれは考えにくい。街の管理が行き届いているのは、住人リスト、そして《欠片持ち》リストがあることからわかる。人の増減に関しては、かなり注視されていると見ていい。
だから誰かは気付いているはずなのだ。今回のルーチェの侵入もそれ以前のことも、気付いていて放置をしている。
(そうじゃないわね)
見逃しも、放置もない。都市警察が動いていないのはたしかだが、傍から見れば意味不明な行動をしている組織が一つだけある。その行動に予測が付かず、こっちは手を拱(こまね)くどころか、安易な接触すら拒むような組織がこの街にはある。
「向日葵」
「なに?」
「引き続きルーチェを捜して」
「おっす」
それから、と音無は続ける。
「月宮湊も。たぶん彼も動いているはずだから」
事務所。
やはり彼らがこの街のなにかを握っていることは間違いないようだ。それさえわかれば、月宮湊を誘導として扱ってきた意味も明らかになる。
※
音無との通話が終わり、導は天井を仰ぎ見た。背もたれに身体を預けたため、スプリングの軋む音が響く。
いつかは現れるのではないかと思っていた。《欠片持ち》ではない能力者がいても、別に不思議ではない。世界には人間の知らないことの方が多い。未知が溢れているというのに、それを否定することはできなかった。
少し見方を変えるだけ。
それだけでこの街では認知されている《欠片持ち》も、ただの御伽話の一部のようでしかなく、誰かにとっては信じがたい存在だろう。信じがたいし、遠い。
「舞桜さん、なにか言ってました?」
ふいに課題と向き合っているだろうイヴが訊いてきた。音無が出て行ってから彼女の様子を見守っていない。首を動かし、視線を天井からイヴに向ける。一人でもきちんと課題をやっていた。
「なんか面白いことになってるみたいよ」
「面白いこと?」イヴは顔を上げた。
「未知との遭遇だよ、未知との」
「宇宙人でもいたんですか?」
「それに近いね。もしかしたらそうかもしれない。しかしイヴ。あんた、意外にそういうこと平気な顔して言うんだね」
「宇宙人?」
「いると思ってるの?」導は頷いてから訊いた。
「いると思っているというより、いないことを証明できないですもん。あれです、天使の証明ってやつですよ!」
「違うんだけど、合ってるなあ」
「向日葵さんはどうなんですか?」イヴは持っていたシャープペンシルを置いた。会話に身を入れるようだ。「宇宙人はいると思いますか?」
「いるんじゃないかなあ……」
「そんな気怠そうに言わなくても」
「いても不思議じゃないしなあ……」
「なんでですか?」
「私たちだって見方を変えれば宇宙人だからだよ。いや、まあ見方を変えなくても宇宙に存在する星に住んでいるから宇宙人なんだけど。この星が生まれたように、似たような星があってもなんら不思議じゃないし、たとえここよりも過酷な環境であっても、順応していける生命がいるかもしれない。だから、イヴと同じく一概に否定はできないよ」
「神様だけが知る、ですね」
「さあね。意外と知ってる奴いるんじゃないの」
「え?」
「ただ口に出さないだけで、知っている奴がいてもおかしくないでしょ。未知を未知のままにしておく方が得する人もいるだろうし」
「そうなんですか? どんな人です?」
「知らない。言ってみただけ」
「向日葵さんっ」イヴは頬を膨らませた。
言ってみただけだが、しかしそれが間違っているとは思っていない。知らないことを知らないまま、曖昧なことを曖昧なままにしておくことで得をする人間はいるはずだ。
たとえば《欠片持ち》のこともそう。なにもわかっていないにも関わらず、この街では「普通」に受け入れられている。なにか“知らない”力が働いているとしか導には思えなかった。
未知を未知のままにしていられるのは、それがすでに既知だからだ。誰かがその正体を知っていないかぎり、こうして当たり前の生活を与えられるはずがない。
そういえば、と導は思い出す。
誰かがこの街のことを“箱庭”と呼んでいたことを。
やがて頬を膨らませていたイヴが首を傾げて訊いた。
「それで、宇宙人に近いってなんです?」
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