第21話 幸せの在り処

 その日、茜夏は孤児院を抜け出した。数年間身を置いた場所だったが、特に思い残すことも、執着心もなかった。茜夏にとってそこは家族ごっこを強要され、その建物はただ雨風を凌ぐものでしかなかった。


 それでも数年の間過ごしてきたのは、単純に身体ができていなかったからだ。知識がなかったからだ。この不条理な世界で生き残っていくための「力」を蓄える期間だった。それに自身が《欠片持ち》だったこともあり、下手に行動できなかったこともある。街にそう登録されてしまっている以上、その大きな力から逃れるために、やはり知識と身体が必要だった。


 この世界に抗おうとしても無駄だということは知っていた。個人がどうこうできるものではない。逆に言えば、個人の思惑で簡単に屈するようならば、それは世界とは言えない。


 世界の不条理さには抗えない。


 世界の不平等さには抗えない。


 どうして自分だけが、と思ったところで、自分以外にも同じ境遇の、それ以上に過酷な境遇に身を置いている者は数多におり、それはただ悲劇の主人公を気取りたいだけに過ぎない。


 たとえば茜夏の過ごしてきた孤児院。両親を失った、あるいは彼らに捨てられた子供が集める場所である。両親がいない、という世間のその他大勢から外れている不幸はあるものの、雨風を凌ぐ居住空間があり、同じ境遇である仲間がいる幸福はある。


 自分だけが、とは誰も思わない。全員が横並びだからだ。


 そして彼らは知っている。


 自分たちよりももっと酷い境遇の子供たちがいることを。


 ただ両親がいないというだけで不幸を気取ることはしない。寒さを凌げる壁と天井、談笑できる仲間、知識や食事を与えてくれる大人。それらがあれば充分に生きていけるのだ。このうち二つがないのなら不幸と言える。


 少なくとも、茜夏はそう考えていた。孤児院にいる連中がどう考えているかは知らない。ただ彼らは彼らで、あの場所にいることで幸福を得られ、茜夏はそうではないというだけだ。


 幸福とはなにか。


 茜夏はそれを知らない。


 なにがあって幸福なのか。


 なにがなくて不幸なのか。


 寒さを凌げる壁と天井?


 談笑できる仲間?


 知識と食事を与えてくれる大人?


 たしかにそれらは必要であり、周囲にそれらがなければ不幸だと言える。茜夏の個人的な見解ではそう答が出ていた。


 だけど本当にそうなのだろうか。


 寒さを凌げる壁と天井があり、偽りだとしても談笑できる仲間が、知識と食事を与えてくれる大人がいた、あの場所で考えたから、そういう答に行き着いてしまっただけなのではないか。別の環境に身を置いたとき、はたして同じ答を導き出せるのか。


 本当に幸福と不幸とはそういうことなのだろうか。


 それを知るために、茜夏はそれらすべてを捨てた。


 捨てたはずだった。


 しかし茜夏は偶然立ち寄った公園で、一人の少女と出会う。深夜だというのにその少女は一人でブランコに座り、ただ地面を眺めているだけだった。鎖を掴むその手には包帯が巻かれ、雰囲気からして近寄りがたい。


 そんな少女に茜夏は話しかけた。「なにをしているんだ」と。その声に顔を上げた少女の瞳を見て、茜夏は戦慄した。光がなかった。生がなかった。なにもかもを失ったような瞳をしていた。それでいて整った顔立ちをしているため、人形のようでさえあった。


 人の形をしたもの。


 顔にこそ、仕草にこそ出さなかったものの、茜夏はその場から逃げ出したくなった。幸福とはなにか、不幸とはなにか。その答を見てしまったからだ。


 彼女こそが不幸で、


 彼女の存在を知らなかったことこそが幸福だった。


 そんな茜夏に少女は問い掛ける。


「私に幸せをくれるのは誰?」


 その答はいまだに出ていない。



     ※



 茜奈は、今まで眠り続けた茜夏が声を出したため、勢いよく椅子から立ち上がった。声を出していたが、しかしそれを聞き取ってはいない。


「茜夏!」


 薄らと瞼を開き、まだ焦点の定まっていない茜夏に呼びかけた。彼の瞳に自分は映っているだろうか。それが心配だった。目だけが茜奈を向く。これだけでは見えているのか、それともただ音のした方を見たのかはわからない。


「俺は……生きてるのか」


「ほんの二、三日生死の狭間をさまよっていただけだ。私がわかるか?」


「お前を忘れる方法を知りたいくらいだ」


 茜奈はナースコールを押し、病室を訪れた看護師に茜夏の意識が戻ったことを伝えた。それから医者が来て、簡単な検査をした。もともと射干玉という少女が怪我のほとんどを治していたため、残る問題は精神的なものだった。


 本来ならば二、三日も眠ることはなかっただけに、心配は募る。しかし記憶の障害も、心を閉ざした様子もないため、それは杞憂に終わってくれた。


 医者の話では当分はベッドの上らしい。目を覚ましたばかりのため、今日は特に安静にしているように、とのことだった。


 医者と看護師がいなくなり、茜奈は身体から一気に力が抜けた。ここまでの安堵を味わったのは人生で初めてだった。


「ここは病院なんだな」


「うん? ああ。月宮くんがよく通っている病院らしい」


「月宮……」


「私たちの恩人だ。彼がいなかったら――いや、彼らがいなかったら私たちはここで話すこともできていない」


 あの夜、倉庫街から月宮たちのもとに戻ると、茜夏の傷は夢だったかのように消えており、顔色も良くなっていた。月宮によれば身体(うつわ)の方は完治したが、茜夏の心が傷ついたままらしく、だからこそ茜夏を入院させることになった。茜奈たちの住処はおよそ心を癒せる場所ではなく、茜奈はそれに従うしかなかった。


 入院までの手続きのことはよくわからない。すべて月宮に任せてしまっていた。彼に言われていることはただ一つ。


 余計なことをするな。


 そんなつもりは毛頭もなかったが、茜奈はここ最近で一番大人しくしていた。茜夏が目を覚ますまで、ずっと彼のことを見ていた。


「だから、礼を言わないといけない」


「シグナルはどうした」


「死んだよ。あれが本物の死体なら、シグナルは死んだ」


 能力者住まうこの街では、常識は通用しない。見たものがすべて正しいともかぎらない。たとえ緑と赤の毛髪が血だまりの中にあり、衣服がその日に見たものであっても、簡単に偽造はできる。能力者とは、《欠片持ち》とはそういう存在だ。


 ウィンクの移動がシグナルの能力で減速したが、しかしそれが横たわった彼がしたとは断言できない。茜奈は彼の瞳に欠片が宿った瞬間を見たわけじゃない。あのときはウィンクを喰うことだけを考えていたため、シグナルのことは後回しだった。


 ただ個人の感覚でいえば、あの死体は紛れもなくシグナルのものだと思えた。死ぬ間際までしぶとく生き残っていた男の執念を少しだけ肌で感じたのだ。やられっぱなしで終わる男ではない。最期までウィンクを潰そうとしていただろう。


「死んだ、のか……」


 茜夏の視線は天井に向けられた。


「死体があるってことはお前がやったわけじゃないんだな」


「ウィンクがやった。詳しいことはわからないままだが、少なくとも今回のことを散々に掻きまわしたのは彼女だ。茜夏はずいぶんと利用されていた。まあ半分は私のせいなんだが」


 ウィンクが茜夏を利用したのは、茜奈の行動を制限するためだ。そのためだけに生かされていたと言ってもいい。ほんの少しでも彼女の気が変われば、茜夏はシグナルと同じようになっていた。


「あいつは生きてるのか」


「間違いなくな。私たちの中で一番死にそうになかった奴だ。当然といえば当然。だがやはり消しておきたかった。あれは、またなにかをやらかすに決まっている」


 個人的感情を抜きにしても、ウィンクを野放しにしておくのは危険だと思えた。ただ快楽を求めて殺人を行うのならすぐに尻尾を掴めそうなものだが、しかしどうやら彼女を上手く扱っている者がいる。その人物がいるかぎり、ウィンクを捕まえるのは不可能だろう。あの床に穴を出現させた能力があるかぎり、逃走を許してしまう。


 病室の扉がノックされ、茜奈はそれに答えた。個室であるため自分たちへの来訪客だということはわかっている。


 扉を開いて現れたのは月宮湊だった。初めて出会ったときの彼だ。まるで冷たさや鋭さを感じさせないのはプロだからだろう。


「起きたって聞いてきたんだが」


 月宮は茜夏に目を向けた。


「うん、どうやら問題はないみたいだな」


「茜夏、この人が月宮湊だ」


「思ったよりもずっと若いな。こんな場所を用意するくらいだから、俺たちよりは上だと思っていた」


「あんたらもわかってると思うが、ちょっとまともじゃない仕事をしているから金だけはあるんだ。こういうときに使わないと使う暇がない」


 茜奈は彼に椅子を用意しようと立ち上がろうとしたが、月宮はそれを手で断った。長居をするつもりはないらしい。


「まともじゃない仕事? 同業者か?」


「月宮くんは事務所で働いている」


「ああ、なるほど。それはまともじゃない」


「そして私たちも所属することになった」


「は?」


 茜夏が間の抜けた声を出した。


「茜夏を助けてもらう条件として、私の身を事務所に預けることになっていたんだ。茜夏のことも頼んでおいたぞ」


「それじゃあ意味ねえだろうが」


 茜夏は俯いて、そう呟いた。彼は誰にも聞こえないようにいったつもりだったようだが、病院の個室ということあって小さな呟きでも難なく拾うことができた。天気も穏やかなようで風もなく、鳥が鳴いていることも、外で誰かが騒ぐ声もない。だからこそ余計に、その呟きは茜奈の耳まで届いた。


 その言葉の意味を問おうとしたとき、それより早く月宮が口を開いた。


「茜奈には人殺しをさせない」


 茜夏はぴくりと反応し、ゆっくりと月宮を見た。茜奈がいるのは入口の反対側の窓の前であり、茜夏が入口側を向いてしまうとその表情を窺うことはできない。


「本来ならお前たち二人は都市警察に突き出すか、こちらで始末するはずの重罪人だ。それが生きるためだったとしても、人を殺し、人を喰ったことには変わりない。俺たち――事務所も人を殺めることはある。都市警察の手では負えない奴らを排除しているわけだ。殺人という点では同じだが、その対象が違う。お前たちは罪のない人間を殺し過ぎた」


「もう調べはついているんだな」


 茜奈は言った。


「数年前にとある孤児院が廃業している。理由は、そこにいたすべての人間が消えたからだ。その施設の名簿にお前の名前があった。その『手の力』を知らなければ、被害者の一人にしか見えないが、知っていればお前が犯人であることは明らかだ」


 あの日、茜夏に出会い、彼と一緒に当時住んでいた孤児院に行った。静かな夜だった。玄関の扉を開いたときの蝶番の擦れる音が、自動車のクラクションのように聞こえるほどに、他の音はなかった。


 一階から順に回っていった。


 部屋の扉を開け、寝息を立てる同居人たちがいることを確認し、一人ずつ「掌の口」で喰っていった。やはり音はなく、静かな夜は壊れなかった。悲鳴も上がらない。その暇も、そもそも苦痛を与えているわけでもないため、一瞬でことは済んだ。


 一夜の眠りが、永遠の眠りに。


 幸せそうに眠る彼らの顔をほんの少しだが憶えていた。明かりのない中での行動だったため、部屋によってはなにも見えなかったりした。だが間取りや家具の配置を憶えているために、暗闇程度では問題にならなかった。


 すべてが終わったとき、不思議と達成感があった。充実感があった。これが幸せを奪うことなのだと、幸せを得ることなのだと当時は思ったが、今ではそれが錯覚であったことを知っている。


 それはただ欲求を満たしたに過ぎない。


「掌の口」が求めていたものを与えたに過ぎない。


 それを誤解していたのだ。「掌の口」が自分であると思っていたあのころは、そのとき抱いた感情も自分のものだと思っていたのだ。


 茜奈は自分の掌を見た。いつものグローブではなく、包帯を巻いてある。祖父母を喰ってしまったあとと同じだ。


「私の掌には――私の中にはなにがいるんだ」


「詳しく説明すると長くなるから短く言うが、それは『暴食』の力だ」


「『暴食』」


「大罪の一つであり、また冥界の王――って言ってもわからないか。つまりは悪魔みたいなものだ」


「なぜ私に憑いているんだ?」


 どうして私でなければいけないのか、とは茜奈は言わなかった。思わなかったわけじゃない。それこそ知りたい答ではあるのだが、なぜか躊躇われた。茜奈があえて言わなかったのか、それとも身に宿る悪魔がそうさせたのか。


 悪魔みたいなものと言われて、茜奈は納得してしまっていた。たしかに悪魔のような力ではあるし、それになんとなくそう思っていたような気がした。自分の中になにかがいると感じてから、そんな存在がいるのではないか、と常々思っていた。


「それはわからない。そいつに訊くしかないんだが、今のところ対話をする方法が判明していないんだ。お前が命を落とせば解放されるのかもしれない。だけど、また別の奴に憑く可能性もある。だから今は手を出せない」


 悪いな、と月宮は謝った。彼がそうする必要はないのに。


「構わないさ。この命があるだけで充分だ」


「とはいえ、絶対にそれを守れるわけじゃない。うちの所長がやれと言えばやらなければならない。そのときがきたら、なんとか交渉してみるが、それだけは憶えておいて欲しい。絶対はない。ただそうならないように努力はする」


 茜奈はちらりと茜夏を見た。彼が今回、シグナルたちを仕留めようとしたのは、茜奈にこれ以上人を殺めさせないようにしたかったようだ。たとえそれが悪魔の欲求を晴らすためとはいえ、見るに耐えなかったのだろう。茜夏はそういう奴だ。


 器用そうに見えて不器用だし、頭脳派かと思えば肉体派だ。頭よりも先に身体が動き、心の命じたままに行動する。


 まるで大人になろうと健気に努力をする子供のようだった。


 そんな彼だからこそ愛おしく思えた。


 一緒にいたいと心から願えた。


「もしも」


 茜夏は言う。


「もしも、俺たちが今回みたいなことを」


「起こそうと思うな。行動する前に相談してくれ。無闇に命を粗末にするような真似だけはしちゃいけない」


 命を粗末にしてはいけない。その言葉には「お前たちが奪ってきた命の分は償え」という意味が込められているような気がした。「死に逃げるな」と釘を刺されているようでもあった。


「命を粗末に扱うつもりはない」


 茜奈はしっかりと月宮の目を見た。


「だが、もし今回のように茜夏の命が危うくなったとき、たとえば恩人である月宮くんの窮地のとき、月宮くんの守ろうとしている者の命が危険に晒されたとき」


 手を胸の前で握り締める。


「私は誰がなんと言おうとも、この命をかける。茜夏が望まなくとも、私は二人や二人の大切なものを守るために、人を喰い殺す」


「俺たちの大切なものにお前がいてもか?」


「それでも、だ。というか、もし二人にそんなことを言われたら、嬉しさで死ぬ。頼むから言わないで……いや、言って欲しいんだが……。うーん」


「まあ、最終的に決めるのはお前だ。そうしたいのなら俺は止めない。すでに二人は事務所の一員であること、所長の命令には逆らえないこと。俺からはそれだけだ」


「そうか。わざわざすまないな」


「気にしなくていい」


「ときに月宮くん。少し痩せたか?」


「それも気にするな」


「もしかして私たちのことで――」


 あのとき射干玉が茜夏を助ける条件を出していた。いや正確には提示される前に、月宮はそれを呑んだ。もしそれが過酷なものであれば、月宮を苦しめていることになる。なにも知らないで、助けられたままでいるのは居心地が悪い。なにか手助けできることはないか、それを言いたかった。しかしそれを告げる前に、


「大丈夫だ。これは俺の解決すべき問題であって、お前が気にすることじゃない」


 と言われてしまった。彼がそう言う以上、茜奈は口を出すことはできない。無理を言うことが逆に彼の負担になることもあるのだ。ここはそれで納得をするしかなかった。


「俺のことはいいから、あとは自分たちのことをどうにかしとけよ」


「……そう、だな」


「――あいつがお前に会いたがってる」


「あいつ」とは秋雨美空のことだろう。他に彼の知り合いで茜奈に会いたがっている人間がいるとは思えない。射干玉も当然として、長月がそう思うはずがないと断言できた。


「一度しか会ってないのに。変わっているんだな」


「あいつの前では誰もが平等だ」


「たとえきみでもか?」


「おそらくな。まあそういうわけだから、今度会ってやってくれ。『左手』なら俺も安心できる。そっちの手では喰えないだろ?」


 そう言って、月宮は病室から立ち去った。もしかしたら仕事の合間に来てくれたのかもしれない。やはり最初のイメージどおり、彼は優しい。だからこそあの戦いの場での冷たさが際立っているのだ。


 その背中を見ていた茜夏は、病室の扉が閉まってからしばらくして言った。


「なんだありゃあ。人の心を見透かすように言いやがって」


「喰えない奴なんだ」


 茜奈は自分の左手を見た。右手と同様に左掌にも口はある。右手がただ喰うことに特化していることに対して、左手は「吐き出す」ことに特化していた。右手は人間も、動物も、植物も、有機物も、無機物も容赦なく喰う。能力でさえ例外ではない。触れてしまえば、すべてを消滅させることができた。


 一方の左手は、能力だけを喰い、そしてそれを「吐き出す」ことができた。吐き出すとは、左手で喰った能力を茜奈が使用できるという意味である。ただし貯蔵できるのは一つだけで、もう一度喰わなければ二度目の使用はできない。


 トリックを喰い殺そうとしたとき、茜奈は茜夏の能力を使用した。いつか役に立つと思ったのも一つだが、なによりその能力を保持していることで、常に彼と一緒にいる気持ちになれた。どちらかといえばそちらの方が主な意味だっただろう。


 悪魔のような存在が住み着いている。ただの人間を、《欠片持ち》を蹂躙できる力がいったいなんのためにこの世界にあるのかはやはりわからない。どうして人間に住みつく真似をしているのか。


 なにか意味があるのだとしたら、茜奈はそれを見つけたいと思った。


 それからの会話はなかった。たしかに月宮の言うとおり、自分たちのことを考えなければならない。茜奈は一方的に茜夏のことを思っているが、それが彼にとって迷惑なことだってある。茜夏がどう思っているのか、茜奈は知らない。そういう会話をする時間はこれまでに一度としてなかった。


 静かな時間だった。初めて出会った夜を思い出すほどに。


 あれから数年が経ち、茜奈は二十歳に、茜夏は十八歳になっている。お互いに、お互いの誕生日を知らない。それまでの会話にあった年齢の話題を憶えていたに過ぎない。祝ったことも、祝われたこともなかった。


 長い時間ともに過ごし、家族として認識してさえいるのに、茜奈は茜夏のことをなにも知らないでいた。誕生日だけじゃない。他のことも知らないのだ。妥協的に過ごしてきてしまったからこそ、こういう場でその明らかな溝が浮き彫りとなる。


 それでも構わないと自分自身に言い聞かせても、やはり知りたいものは知りたい。それが家族であり、大切な人であり、恋心を抱いている相手ならなおさらだ。


 意を決し、茜奈は口を開いた。


「茜夏は、その……後悔しているのか? 私をあの孤児院から連れ出したことを、そのあと裏組織に関わりを持たせてしまったことを悔いているのか?」


 沈黙。


 返答を待つ時間。


 短く、けれども苦しい。


 胸が締め付けられ、手に込める力が強くなる。


「……俺はあのとき、幸せとは不幸とはなにかを知りたいでいた。《欠片持ち》として生まれたことが、両親がいないことが、はたして幸せなのか、不幸なのか。それを知りたかった。あの公園でお前を見て、すぐに理解した。俺は幸せで、お前が不幸なんだと」


「そんなに酷かったか、私」


 茜奈は少し笑ってみせた。


「酷過ぎた。俺の心を折るのには充分過ぎるほどに。見ていられないほどに。だから俺は言ったんだ。貰えないなら奪っちまえ――てな。ほとんど八つ当たりみたいなものだった。まさかお前が本当に行動に移すとは思わなかったんだ」


「私はあの言葉で救われた。なにかが見えた気がしたんだ。だから茜夏についていこうと思ったんだよ。茜夏なら、私を幸せにしてくれると思ったから」


 そう信じて、間違いはなかった。それだけははっきりと言える。どんなに罪を重ねたとしても、これからその罰を幾重に受けることになろうとも。


「幸せだったか?」


「ああ」


「たくさん人を殺したのに」


「それでもだ」


「辛くなかったか?」


「茜夏と離れる方がずっと辛い。だから茜夏といられるなら、私は人を殺すことだって厭わない」


「俺は茜奈のことが嫌いだ」


「私は茜夏のことが好きだ」


 二人は同時にそう相手に告げた。一瞬のずれもないタイミングだった。ただ自らの内を吐きだしたいという気持ちがそうさせたのだろう。相手を気遣うのではなく、相手に聞いてもらいたいという一心が、二人の行動をリンクさせた。


「ずっと隣にいることはできない」


「ずっと隣にいられることを願っている」


「それでも」


「だからこそ」


「お前のことを大事に思いたい」


「きみのことを大事に思っている」


「後悔じゃなく」


「嘘偽りなく」


 これが本心だ、と二人の声は重なった。


 茜奈の頬を温かいものが伝い、顎の先から右手に向かって落ちた。


 いつぶりだろう、と茜奈は考える。


 涙を流したのは。


 まだ流せるとは思っていなかった。


 人の道を外れてしまったとき。


 いや人の道を外れたのは、この世に生を受けたときからだ。


 人並みの幸せを得られないと思っていた。


 こんな感情で涙を流す日は永遠に訪れないと思っていたのに。


 冷たい涙ならまだしも、温かい涙など。


 縁遠いものだと憧れていたのに。


 手に入ってしまった。


 貰えないなら奪ってしまえ。


 その必要はなくなった。


 幸せをくれるのは誰か。


 そう問うこともない。


 答はもう出ていた。


 それがようやく本当の意味で、確信に変わった。

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