第14話 鏡映し

 いつもの集合場所に茜夏とシグナルはいた。ウィンクと茜奈は颯爽と仕事に向かってしまったため、今は二人だけしかいない。


 二階部分の割れた窓から月明かりが微量だが差し込んでいた。ただの倉庫がその光だけで幻想的な世界に姿を変える。雰囲気がある、と表現されるべき場所になっていると言ってもいい。なんの雰囲気、どんな雰囲気かと問われれば、もちろんなにかが絶対的に変化しそうな――そんな雰囲気だ。


 だから茜夏は月が嫌いだった。


 目の前の現実を夢のように錯覚させるその光の力が、どうしても気にくわなかった。不安になり、不安定になり、感情を呼び起こされ、心を乱される。人によってはこの柔らかい光に落ち着きを感じるだろうが、茜夏にしてみれば、それは自身の心に踏みこまれているということだ。


 その光は夜になるたびに世界を照らし、そのたびに人の心に踏み込む。


 太陽よりもよっぽどたちが悪い。


 その目に映すことができる分、それだけその存在を認識せざるをえない。


 だからこそ人は夜に眠るのだ、と茜夏は思っている。月の光を見ていたくないために、月そのものを意識から外したいがために、人は夜になれば眠りにつく。


 無意識下で恐れているために。


 まるで神のようではないか。人間の心に踏み込むどころか住みつき、その存在は魅力で満ちている。


 ならば、今夜はその神に祈ろう。


 すべてが終わるように。


「話がある」


 茜夏がそう切り出しても、シグナルは背を向けて座ったままだった。なにか作業をしているようだが、陰になっている。


「へえ、どんなよ」


「ここを辞めようと思う」


「かはっ」

 シグナルは吹き出した。


「なかなか面白いこと言うじゃねえか。そりゃ、またどうしてだ」


「……もうここにいる理由がないからだ」


 それはずいぶんと前からそうだった。裏組織に身を置く理由などすでになく、今までは惰性で居続けただけにすぎない。


「理由ねえ……。まあ、いいんじゃねえの。辞めたきゃ辞めちまえ」


 予想とは違う答が返ってきて、茜夏は身構えた。人を殺すことを命じる組織が、そう簡単に辞めさせるわけがない。まだ続きがあるに決まっているのだ。


「いつまでもこんなところにいたら、気が滅入って仕方ねえしな。まあ俺から言わせてもらえば、妥当な判断だな」


「あんたもそうなのか?」


「あ?」


「あんたも、神経を擦り減らしながら仕事してるのか?」


 そうは見えなかったが、気になったため掘り下げようと思った。シグナルのことをよく知らない茜夏にはいい機会だった。


「そんなわけねえだろ。俺は好きでここにいるからな――俺のために、俺の目的のためにここにいるんだ。神経擦り減らすとかもったいねえことはしない」


「目的?」


 舞い込んできた依頼を完遂するだけのこの組織に、いったいどんな目的があって所属しているというのか。茜夏たちのように、生きるため、というわけではなさそうなニュアンスを感じた。


「目的つうか、理由だな。ここにいる理由」


 カタカタと換気扇が回る音がした。外では風が吹いているようだ。倉庫全体が揺れていないため、その風速は高くない。茜夏たちが使っているとはいっても、手入れなどはまったくしていない。鉄は錆び、木は腐り、荒れるだけ荒れている。強い風が吹けば崩れてしまってもおかしくはない。


「俺は、人助けをするためにここにいる」


 そんなシグナルの言葉に、茜夏は目を見張った。まさかそんな「人助け」なんて言葉がシグナルの口から零れるとは思っていなかった。


 しかし考えようによっては、あながち嘘ではないのかもしれない。依頼というのはつまり依頼主の願いだ。それを完遂することは願いを叶えていることと同じであり、それは人助けと言えるだろう。


 たとえそれが殺害の依頼だとしても。


「ちょっとした昔話をしてやるよ」


 そうは言うが、シグナルは一向に振り向かない。


「あるところに、一人の男子がいました。そいつは小学生で、自分には他の奴らとは違う力があることが嫌で嫌で仕方なかった。どう使っていいかもわからねえし、どんな意味があるのかも同じだった」


 なぜ《欠片持ち》がそうであるのか――それは今も判明していない。ただの自然現象にしてはあまりにも個体数が多過ぎる上に、初めて確認された時期がほぼ同時であることも奇妙であった。


「んで、まあ小学生といえば遠足つうのがあるんだが、お前、学校行ってたんだっけか?」


「まあ一応」


 とはいえ、その当時の記憶はまるでない。記憶喪失なのではなく、あまり学校に行ってなかったのだ。いわゆる不登校であり、理由は単純明快、つまらないからだ。さらにいえば、教室という狭い空間に四十人あまりが集まっているというのも気に入らなかった。


「あっそう。んじゃあ話続けるわ。遠足はまあバスで行くことになったんだが、事故っちまったんだ。落車して、中にいたほとんどが血まみれになった。そこでその男子は思ったわけだ。自分の力なら出血を抑えられるんじゃないかって」


 しかし同時にこうも思った、とシグナルは言った。


 血液の流れを遅くさせた場合、人間はどうなるのか。


 かぎりなく減速したとき、人間にどんな反応があるのか。


 知りたくなった。


「自分にやれよって思うかもしれねえが、残念ながらそいつはほとんど無傷だったんだ。そいつの代わりに何人か死んだが。んで、助けを求める声が聞こえるわけ。そいつはそれを頼りに、一人ひとりに力を使った」


 最初の一人は、死んだ。男子だった。


 次は女子だったが、やはり死んだ。


 その次も、さらに次も。


 出血多量を防ぐために血液が流れ出るのを遅くしたが、そのために血流そのものの速度を落としたが、やはり死ぬのだ。


 その能力者は一つの答を得た。


「まあ血液が回らねえってことは酸素が回ってこねえってことで――というか、そもそも人体は急激な変化には耐えられない。そのことをそいつはそのとき知った。まああれだ、ノートとにらめっこするよりも実験の方が楽しい、だからこそ憶えられるみたいな」


 迷惑な憶え方だな、と茜夏は口に出さなかった。


「そんで、クラスの奴らを半分くらい殺しちまったときだった。助けを求めるものじゃない声が聞こえてきた」


 ありがとう。


 そいつを殺してくれて。


 そんな声が聞こえてきた。


「まあ、死んだ奴の中に虐めをしてた奴がいたらしくてな。知らないうちに虐められてた奴の願いを叶えてたんだ。人生における障壁を取り除いていた。そのとき、男子は思ったんだ。そうか、人助けをするためにこの力があるんだってな。そう考えたら、もう一つの疑問が浮かんできた」


「もう一つ?」


「もしかしたらその虐められてた奴を嫌っている奴がいるんじゃないか、もしいるのならそいつを殺して欲しいと思ってるんじゃないかって考え始めたんだ」


 その考えは当然数珠つなぎのように連鎖していく。それは願いでもなんでもなく、ただの憶測に過ぎないのだから、止めどなく溢れる疑問だ。


 茜夏の考えは正しかった。


「気付いたら、自分以外全員死んでいた。そりゃあそうだ。そうなるに決まっている。その男子が考えていたのはそんなどうしようもない無駄なことじゃなく、人を殺すことが意外と楽しいってことだったんだからな。殺さずにはいられない。人助けという名目で、人殺しという目的を果たした」


 人間が当然として持つべき倫理と道徳の鎖が彼から外れてしまったのだ。小学生ということもあったからだろう。まだ自分の好奇心に歯止めを効かせることができるような自制心が育まれていなかった。


 殺人の連鎖が止まるはずがない。


 そこにいた生徒は彼を止める力がない。


 そこにいた大人は真っ先に殺されていたのだから。


 子供を止める大人が、その場には存在しなかった。


 自分を止める自分が、彼の中には存在しなかった。


「一人だけ生き残ったんだが、まあこんな街だ、能力者が関わったってことはすぐにバレる。そいつが都市警察に厄介になるのは目に見えていたわけだが、そんなガキに一本の蜘蛛の糸を垂らしてきた奴らがいた」


 蜘蛛の糸――ということは、つまりその男子はまだ捕まるわけにはいかなかったのだ。窮地に陥っていたからこそ、それは甘美なものだっただろう。


 もちろん、茜夏にはすでにわかっている。その男子が誰であって、蜘蛛の糸を垂らしたのが誰であるのかを。言葉にするまでもなく明らかだ。だからこそその蜘蛛の糸は甘美な誘いだったことがわかる。


 人助けという名目で、人殺しという目的を果たせる。


 奇しくもそれは、茜夏たちが裏組織に所属した理由に酷似していた。だとするならばウィンクも案外そうなのではないかと考えたが、彼女の場合は「人殺しという名目で、人殺しという目的を果たす」だろう。


 彼女だけが根本的に違う。彼女だけが、最初の殺人に、純度の高い好奇心を抱いていた。シグナルもあくまで最初は人助けがメインで、そのあとに好奇心が生まれただけであって、ウィンクとは同列に語れない。


 根源だけを見れば。


 ただ殺人を犯したという罪は誰もが同じだ。


 シグナルも、ウィンクも。


 茜夏も、茜奈も。


 根源は違っていても、結果は同じだ。


 ただの殺人者に過ぎない。どんなに悲劇的な人生を歩み、そうする以外に生き残る方法がなかったとしても、命を奪ったことに変わりはない。


 拭うことのできない罪。


 けれど。


 これ以上その罪を重ねないことはできる。


 始めてしまったからこそ、終わらせることができる。


 茜夏はその手に刃渡り二十センチほどのナイフを手に持ち、その作業着姿の背中を見つめた。そのふざけた二色に染め上げられた髪に隠れた首筋をただただ見据えた。


 そして、瞳に欠片を出現させた。


 五メートルほどの距離だとしても、《欠片の力》を使えば一瞬で詰めることができる。音がしたところで問題はない。その音を認識したときにはすでに茜夏の刃は対象の命を狩り取れるのだから。


 一瞬で――一瞬にも満たない時間の中ですべてが済むはずだった。すべてを終わらせるための第一段階を終えることができるはずだった。


 しかし、その動きの初動である、足を動かす、という行動ができなかった。


 いや、動いている――動いているのだが、それは茜夏が思うよりもずっと遅い速度だった。まだ足を地面から離すこともできていない。


「とまあ、こんな話をしたのはいわゆる冥土の土産ってやつだ」


 シグナルは立ち上がり、振り向いた。その瞳には欠片が浮かんでいた。


「いつから」


 口はまともに動かせた。どうやら足だけに能力を使われたようだ。


「んなもん、最初からに決まってんだろ。最初も最初。お前はいつかここを辞めると言うと思っていた。同類の能力を持つと、なんとなく考えがわかっちまうんかね。まあ知らんが」


「なぜ今日だとわかった」


「今日だとわかったわけでもない。ただ、いつでもお前を殺せる用意はしていた――それだけの話だ」


 けして油断していたわけではないが、この場所を――誰にも目につかないこの倉庫を選んだことが間違いだった。用意をしていた、ということは、倉庫内は罠でそこかしこに仕掛けてあるのだろう。


 これもその一つ、とシグナルは枠のない鏡を見せた。ティッシュ箱程度のサイズのものだ。今はその鏡面に茜夏の姿が映っている。


「お前と俺はことごとく《欠片の力》が逆をいってるからな。『減速』と『加速』。『自分』と『視界』。これもなんかの縁だったのかもしれねえな」


 その縁はたしかに茜夏も感じていた。街で出会うだけならばありえない話ではないが、しかし裏組織という特殊な場所で出会うなどその確率の低さは言うまでもない。


 足はようやく地面を離れ、一歩目を踏み出していた。いくら《欠片の力》で加速したところで、シグナルの視界に入っている以上相殺されてしまい、先にかけられた能力だけが残ってしまう。


 そして問題なのは、この拮抗が「拮抗」であることだ。相殺し合っているからこそ、茜夏はこうしていられるが、仮に加速を重ね、さらなる加速をし、そのときを見計らって「減速」の能力を解かれた場合、さすがの茜夏でもそのときは制御できる速度ではない。


 まずシグナルが能力を解くことはないだろうが、万が一解かれたときに自分の能力を瞬時に解くことを念頭に置いておかなければならない。


「辞めたければ辞めろってのはこのことだったのか」


「いや、あれは俺の本心だ。辞めたきゃ辞めればいい。ただ組織の意向としてはそれを許すわけにはいかない。知られてしまったからには消すしかないだろ。裏切り者には制裁をってな」


 シグナルは持っていた鏡を地面で叩き割り、その欠片を拾い上げてから茜夏に近づく。鋭利な切っ先ができたその欠片が茜夏の右腕に突き刺さった。痛みはなかった。


「痛くないだろ。まだその感覚が脳に届いてねえからだ。まあ、お前がなにもしなければ十分後くらいに痛みを感じるはずだ」


 あとはシグナルの視界から外れた場合だろう。効果の範囲外に出れば、通常どおりの痛みを得られる。


 なるほど、と茜夏は以前にウィンクから聞いた話を思い出していた。こうやって身体が爆発していく様を遅らせ、それを見て恐怖する相手を見ていたのか。痛覚がいつ元に戻るかを教えなければ、心が壊れんばかりに震えあがるはずだ。


 想像だけは嫌でもしてしまうのだから。


 そのときに幸福な未来を描ける一般人など狂気の沙汰だ。


「今だけは、たとえ四肢をもがれても、目玉を刳り抜かれても、まったく痛みは感じねえ。やってほしいことがあれば、経験したいことがあれば、相談に乗るぜ?」


「だからここを辞めさせろって言ってんだ」


「さすがに図太い神経してんなあ」


 どこにある神経だ、と言いながら、シグナルは茜夏の太腿に鏡の破片を突き刺した。当然、痛みはない。ただ身体になにか異物が入ってきたくらいの感覚だ。筋肉と筋肉の間にあるその欠片の存在を、見るまでもなく体内で確認できた。


 ウィンクが殺人という結果に快楽を得るのだとしたら、シグナルは殺人という過程に快楽を得るタイプのようだ。もし目の前にいる相手がウィンクだとしたら、一思いに――そう思う間もなく殺されていただろう。


 ただ彼女だった場合、茜夏の足が不自由になることはなかったのだが。


 あくまでこれは仮の話にしか過ぎない。この瞬間があるのはシグナルがシグナルだからであり、シグナルがウィンクだったのなら、シグナルがウィンクのようであったのなら、けして訪れることがなかった。


「しっかしまあ、甚振りがいのない奴だ。なんだ、その無表情は――痛みはないにしても、少しは焦るとかしろや」


「はっ。こんなもん、あいつの傍にいた日々を思えば楽なもんだ」


「言ってくれるじゃねえか」


 そうは言うが、シグナルも煽られただけで揺らぐような男ではない。あくまでもこれは仕事の一環であり、今の状況はただ消すべき対象が足掻くこともできないでいるに過ぎない。シグナルが焦ることも、憤慨することもない――心が揺らぐことはない。


 ただ茜夏はその視界に捉えるだけだ。全身を視界に捉えることで、茜夏のすべての機能を支配している。茜夏の身体はいまだにシグナルを刺殺しようと行動しているのだ。まだ結果を出せていない。まだ過程の、それもほんの始まりだ。


 今のところまともに動けるのは顔くらいだった。手足は過程を続けている。だからこそ抵抗を試みていたのだが、それも耐えられなくなる。


「ようやく瞬きしやがったか。さすがに俺もそろそろ辛くなっていたところだ」


 茜夏から光が奪われた。瞬きをしたことにより、瞼が閉じてから開くまでの動作をかぎりなく減速させられた。


 シグナルの視界から外れるには、彼の瞬きの瞬間を狙うしかなかった。その一瞬こそが茜夏だからこそ攻略できる個所だったのだが、それも潰えた。彼が瞬きをしたとき――完全に目を閉じたその瞬間こそ、茜夏にかかっている能力が解かれるときであり、茜夏だからこそその一瞬ですべての行動を終わらせることができる。


 シグナルが次に光を目にすることを阻止することができた。


 人間であるかぎり、瞬きは避けることのできない行動だ。本人の自覚なしにその行動は成され、たとえ抵抗したところで我慢の限界は必ず訪れる。そういうふうに人体が構成されている以上、避けることはまず不可能。


 だが、脱せない状況ではない。


「さてさて、アクセルの顔が歪むところで見るとするか」


「お前の性格が悪くてよかった」


「あ?」


 二十分だ、と茜夏は心の中で呟いた。


「なっ――」


 シグナルが声を上げた瞬間、茜夏の身体に自由が戻った。当初の予定どおりシグナルをここで始末するために、一歩目を踏み出した。


 二十分――それは茜夏が仕掛けた閃光弾のスイッチが入る時間だった。条件は知らないにしても、シグナルの能力が「減速」であることは知っていた。また彼の性格も八割方掴んでいるつもりでいた。


 だからこそ、この状況になることを予期していた。シグナルのくだらない過去話を聞いたのも、わずかな抵抗もしなかったのも、この瞬間のためだった。


 瞼を開くまでもなくシグナルの居場所は声でわかっていた。おおよその距離は掴めているため、あとはただ加速しながら移動し、そのナイフをシグナルの身体に突き立てるだけだ。


 白い世界の中を進み、対象に目掛けてナイフを突き出した。


 皮を破り、筋肉を貫いていく感触があった。


 まだシグナルにはその感覚がないだろう。声を上げるのもこれからだ。


 ただ違和感があった。


 たしかにナイフを刺した感触はあるのだが、それはこれまで経験した命を狩り取ったときのものとは違っている。


 その正体はすぐにわかった。身体の痛覚が正常に働き、普段どおりの行動を妨げているのだ。右腕に力を込めていてもそれは充分ではなく、踏み込んだと思っていてもバランスがとれていない。だからぶれる。浅くなる。


 痛みを感じるまでの時間の中を行動したとしても、その身体の異常の訪れを回避できるわけじゃない。


 ナイフを引き抜き、また突き刺すか。


 閃光弾の光が引いていないのなら、まだシグナルの視界は塞がったままだ。ならばこの絶好の機会に終わらせるべきだろう。


 しかしナイフを引き抜いたと同時に、腕に衝撃があった。茜夏は通常の何倍もの速さで動いているため、なにかにぶつかれば何十倍の衝撃を身に受けることになる。だからこそ周囲の状況には細心の注意を払い、そのときの状況を把握していた。


 そのため、その衝撃は茜夏に撤退を余儀なくさせた。光の中を進むのはもちろん危険だが、それ以上にシグナルの周辺にいることが危険だと思われた。


(これだから頭の切れる奴は嫌いだ)


 茜夏は《欠片の力》を緩めつつ、倉庫の外へと走った。結局、その倉庫から出るまでに八度の衝撃に襲われた。傷口の大きさから察するに、茜夏の周辺には銃弾が散乱していたのだろう。そのどれもが見事に貫通している。


「頭に当たらなかっただけ幸運か」



     ※



 それは同時にやってきた。


 倉庫内にあるものを砕く騒音と、身体を走る痛み。


 どちらもその正体はわかっている。前者はシグナルが仕掛けた罠の一つであり、アクセルの加速による移動を制限する、あるいは彼の命を奪うものだ。スイッチを押せば、装置が自動的に銃の引き金を引くというものだ。


 念のために用意しておいたとはいえ、まさか起動させるとは思っていなかった。


 そもそもアクセルが閃光弾を用意するなどと考えていなかった。シグナルの能力についてその特性は知られていたとはいえ、それが視界に映る対象にのみ作用するとは、それこそシグナル以外の人間は知らない。他の能力者にしても、瞼を閉じたからといってその効果が途切れることはないのだから、能力者対策に閃光弾を使う、というのは選択肢としてはない。あくまでシグナル対策に用意したものだ。


 読み切られていた――それが、ただただ気に入らない。


 血が溢れ出る左腕の傷口を確かめた。咄嗟に身体を捻ったことが功を奏した。わずかでもその判断が遅ければ、アクセルに殺されていた。アクセルと相対したときは一瞬の迷いが命取りになる。


 それなのに。


――お前の性格が悪くてよかった。


 この一言がなによりシグナルには響いた。すべてを悟った上で、察した上でこの場所に立ち、そしてシグナルの内側を見透かしていた。


 最高のパフォーマンスは阻止したものの、敗北の色は濃い。


「しっかし、まあ、悪くねえ展開だ」


 倉庫内には血液が飛び散っていた。アクセルの移動した痕跡だ。その量から見て、かなり深手を負っていると考えていい。


 シグナルは携帯電話を取り出し、電話をかけた。組織から渡されたもので、個人的な所有物ではない。


「はいは~い。こちらウィンクちゃんです」


「アクセルが裏切った。おそらくトリックも裏切る」


「そんな様子はなかったけどぉ?」


「アクセルがトリックに伝えていなかったにしろ、それに気付いたときトリックも裏切るだろ。もったいねえが、殺しておけ」


「ウィンクちゃん、これから帰ろうと思ってたのに」


「いいからやれ。やらなきゃ、やられる」


「あっ、もしかして先輩、やられちゃったんですかぁ? うわぁ~、だっさい。余裕かましてるからですよ」


 シグナルが答えないでいると、「はいはい、わかりました」とウィンクは言い、通話が切断された。


 傷口を適当な布で塞ぎ、シグナルは倉庫の外へと出た。血痕が点線を描いていた。能力を使って移動をしたわけはないらしい。傷の深さ、多さはアクセルの方が上だ。捉えることができれば追い詰めることは簡単だろう。


「鬼ごっこなんて何年ぶりかねえ」


 しかしまともな小学生時代を送っていないシグナルは、そんな遊びをしたことが一切なかった。

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