第3章

第13話 漂う不穏な空気

 彷徨が目を覚ますと、見慣れない光景が広がった。自分の部屋ではないことを思い出すのに、数瞬も必要なかった。


 昨晩はリビングのソファで寝ることにした。心歌には二階の空いていた部屋を与えたが、それが問題だった。まだ誰かと一つ屋根の下にいる環境に慣れていなかったのだ。一人で過ごす時間があまりにも長かったせいだろう。


 それに心歌はただの人間ではない。《欠片の力》がまったく通用しない。体質の可能性も考えられるが、しかしそうではないと本能的に理解した。彷徨の知らない「別の力」を彼女は使用している。


「別の力」とはなにか――。


 あのとき、心歌はなにをしていたのか。


 ただ《欠片の力》だけが効かないというのは、いささか限定的すぎる。もっと大きな力が働いているのではないか。《欠片の力》ではなく、《欠片》の正体そのものに直結するような、それくらい膨大な力を心歌は会得している。あるいは初めから持って生まれた。


 なにが考えられるだろうか。


 たとえば、そう――魔法のような力。


 自分の思うように現実を捻じ曲げられるような力だ。


 ただの絵空事のような考えかもしれないが、《欠片の力》も現実離れしていることに違いはない。持っていない者からすれば、非現実な存在だ。


 この世界にはいまだに解明されていないものが多くある。《心》や《魂》のこともわかってはいない。具体的にどういうものなのかはっきりしていない。しかし信じられている。《神》の存在も同じだ。信仰心などないはずなのに、危機に陥ったとき、試練を乗り越えたいときに縋る思いで祈ることがある。


 見えないから、知らないから、存在しないわけじゃない。


 だから《魔法》の存在も、どこかにあっても不思議ではない。


 彷徨は上半身を起こし、頭を掻いた。まだどこか落ち着かない。


 微かだが、まだ煙草の匂いがしていた。悪くない匂いだ。だが御津永のように大量に摂取したいとは思えない。


 心歌の姿はなかった。まだ部屋にいるのだろう。


 導くなどと言われたが、心歌はなにもしていない。御津永が帰ったあとも、ごく普通の生活を過ごしていた。それこそ年齢に相応しいものだ。時期的には学校は夏休みだ。怠惰な生活を送っている者もいるだろう。その典型例を見ているようだった。


 そして彷徨の中で一番気がかりなのは、「本当の力」のことだ。《欠片の力》が変化するという話は聞いたことがない。普通に考えるならば、「重力」の使い方に別の道があるということ。その答はどんなに考えても、思い付かなかった。


 水を飲もうと立ち上がったとき、テーブルの上に紙が置かれていることに気付いた。大きさから見て、キャビネットの上にあったメモ用紙だろう。彷徨はテーブルに向かい、メモに目を通した。


「捜してください 心歌」


 書かれた文字を読んで、彷徨はメモを握りつぶした。ふざけている。まったく行動が読めないことが腹立たしかった。


「なにも言わねえくせに、今度はこれか?」


 怒りを通り越して、笑いすら込み上げてくる。その気持ちを握り締めた拳にぶつけた。手の中にあったメモの感触が消えている。


 なにかを知っている心歌に対して彷徨ができることは一つだ。


 抗うことでも、逆らうことでも、拒否することでもない。


 徹底的についていく――ただそれだけ。


 手のひらで踊らされているとわかっているとしても、それだけの価値がある。心歌という得体の知れない少女はこの街を、この世界を変えるなにかを持っている。彷徨はそう確信した。


 外側ばかり見て、判断してはいけない。


 それはまやかしだ。


 本当に見るべきは、その内側。


 それを根こそぎ奪う。


「上等じゃねえか」



     ※



 午前中の天気は予報によれば曇りらしく、テレビで言っていたとおり、空には灰色が拡がっていた。雨は降らないとも言っていたが、いつ降り出してもおかしくない天気模様だ。念のために如月たちは傘を持っていた。


 今日は秋雨美空の追試当日だ。如月と長月は登校する必要はないのだが、いかんせん秋雨が気になって仕方がなかった。


 案の定、彼女はすでに緊張して、どこか動きがぎこちない。


「あっきー大丈夫?」


 如月が声をかけるも、秋雨は返答をせず唇を少し動かすだけだった。どうやら勉強したことを忘れていないか確認しているようだ。その作業に集中しているのは知っていたが、オーバーヒートを起こしてしまわないかが心配だった。


 如月は秋雨を挟んで反対側にいる長月と視線を交わし、肩を竦めた。手のかかる妹を見守る姉たちの気分だった。


 目の前の電柱に気付かず進む秋雨を長月と一緒に誘導する。これで三度目だ。危険回避はすべて長月とやっている。どんなに声をかけても反応をしないため、こうするしかなかったのだ。


「しっかし、まあよく集中していられるよね」如月は言った。どうせ秋雨には聞こえていないだろう、と思ってのことだ。


「トモは記憶力がいいですから、こういう経験はしたことないですね」


「いっちゃんは……それ以前の問題か」


 如月は軽快に笑った。


「いくらトモといえど、叩き潰しますよ」


 月宮湊に魔術の使用を禁止されている今は圧倒的に長月の方が強い。昔から巨大なハンマーを振り回していたおかげで腕っ節が凄いのだ。これには如月も理解ができなかった。どう考えても振り回せるはずがないのに、長月は簡単にそれをやってみせる。いつからだったか如月は考えるのをやめた。


 魔術を使えれば、と思うが、しかしこれは月宮との約束なのだ。如月たちが目指した「普通の生活」を手に入れた今、彼女たちには魔術など必要ない。使う必要も、その存在も必要なくなっていた。


 もう誰かを守るために、誰かの命を奪うこともない。


 血生臭くなった身体を洗うこともない。


 そういう世界にようやく辿り着き、月宮はそこから外れないように配慮してくれている。感謝されるようなことはしていない、と言う彼だが、やはり如月たちは感謝してもしきれなかった。


 いつかこの恩を返さなければならない、と考えている。


 天野川高校の正門が見えてきた。如月は秋雨の様子を改めて窺った。驚いたことにやる気に満ちた眼差しが彼女に見受けられた。どうやら乗り越えたようだ。


「もう大丈夫?」


 如月が訊ねる。


「大丈夫」


 秋雨は自信たっぷりに頷いた。


「おや、誰かいますね」


 正門に目を向けていた長月がそう言った。


 如月と秋雨もそちらに目を向ける。たしかにそこには人影があった。徐々に近づいていき、その風貌が鮮明になっていく。


 まず気になったのは、その履物だ。足は一本しかなく、その高さが二十センチはあるだろう下駄を履いていた。服装は浴衣。淡い赤色のもので、黄色の帯を巻いていた。今日はどこかで祭りでも開催するのだろうか、と思ってしまう。髪は簪で留められ、綺麗な黒髪は逆立っていた。


 如月たちの視線に気付いたのか、その子は振り返った。幼い顔立ちと大きな瞳が露わになる。年齢は低そうだが、しかしなぜか如月はそう思わなかった。それはおそらく秋雨の存在があったからだろう。見た目で年齢を把握することはできない。


 その子は如月たちが近づいてくるのをじっと見つめていた。


「迷子かな?」


 正門前に着き、秋雨が心配そうに言った。秋雨が近くに来てようやく浴衣の子の方が、身長が低いことがわかった。


「どうだろう」


 如月は観察を続けようとした。その子はまず長月をじっと見つめ、次に如月、最後に秋雨を見た。時間としては長月と如月が一分程度、秋雨は二分ほどだった。


「姫ノ宮学園」


 浴衣の子が突然、その名前を呼んだ。


「え?」


 如月は長月と顔を見合わせる。


 学園がどうしたのか、と訊こうとしたが、浴衣の子はにんまりと笑顔を見せると駆け出してしまった。あの下駄で軽快に走っていく。


 その後ろ姿を三人は見届けるしかなかった。


「なんだったんでしょう」


「わかんない」


 秋雨が答えた。


「ささ、追試の始まり始まり」


 如月は手を叩いた。


「気持ち戻していこー」


「そうだね。二人のためにも頑張らなきゃ」


 秋雨の日常の戦いが、今始まろうとしていた。

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