第1章
第1話 強さを求める理由
ナイフは金属同士のぶつかり合う音を立て、無残に砕け散る。
事務所のあるビルから少し離れた場所にある、壊れかけたビル。中は埃まみれで、使うはずだった、もしくは折れてしまった鉄筋が無造作に放置されている。五階以上の高さがあるビルだが、三階から上は床が抜け落ちている。そのため三階には天井はなく、見上げれば容易に空を見ることができた。窓ガラスは曇っているか、割れているかのどちらかで、天井と合わさって通気性は皮肉にも抜群である。床のタイルも割れており、細々とその欠片が散らばっている。
月宮は吹き飛ばされ、コンクリートでできた柱に身体を強く打ちつけた。そして力なく崩れ落ちていく。彼の服は切り裂かれていたり、血に染まっていたりしている。露出している肌にも多くの傷があった。
「今ので五回だ。お前は五回、オレに殺された」
無機質な室内に、声が響き渡る。声変わりを見事に果たした、男らしい声だ。
目に映る男の姿。舞い上がる埃。入口近くで様子を窺っている二人の姿。そのすべてがぼやけていた。白い靄がかかっている。気を失いかけていることを自覚できた。
「もう終わりか? オレはそれいいけどな。お前が手合わせをしてくれって言うから、指導係のオレとしては付き合わざるをえなかった。本当はもう帰りたくてしかたねーんだよ」
何度も立ち上がりやがって、と男は吐き捨てるように言った。彼は手に握っている長さが二メートルを超えるハルバードを器用に振り回す。銀色のそれは、光を浴びて輝いていた。鋭利な刃が、なにかを求めるように輝く。
その光を見て、月宮は立ち上がらなければ、と自身を鼓舞した。身体が悲鳴を上げていることがわかる。いつ以来だろうか、と考えてみたが、つい最近立ち上がれなくなったばかりだった。
「なあ、オレ、もう帰っていいよなぁ?」
男が二人組に声をかける。
「月宮が終わりって言うまでが、充垣(あてがき)の仕事」
積み上げられた荷物に座っている女が静かに言った。あまり大きな声ではないが、よく通る声だ。月宮には彼女がどんな顔をしてこっちを見ているのかがわかる。きっとつまらなさそうな顔をしている。
「咎波(とがなみ)さんもそう思うか?」
「うん。概ね、琴音(ことね)くんに同意だよ」
腕を組み、壁に寄りかかっている男が言う。三十手前くらいの風貌で、よれよれになったカッターシャツを着ている。
咎波と琴音は監視係である。月宮たちがビルを破壊しないように、お互いに殺し合わないように監視している。琴音がつまらなさそうにしているのも、自分が望んでここにいるわけでなく、ただ見ているだけの仕事だからだ。一方の咎波は、文句が一言もなく、ただただ仕事を遂行している。
この三人は、月宮と同じく事務所で働いている者たちだ。月宮よりも所属したのが早い。つまるところの先輩に当たる存在だ。どのような経緯があって、事務所にいるのかは不明だが、三人ともアイリスが関わっていることに間違いはないようだ。
月宮は柱に右手をかけつつ、ゆっくりと立ち上がる。「破壊」の能力は禁止のため、「創造」の能力しか使えない。左手に新たなナイフを握る。
充垣はその姿を見て、頭を掻いた。逆立った短髪が、そのときだけ手に抑えられ倒れていく。まだ続ける月宮に心底呆れているのだろう。深い溜息をした。
「ったく、おとなしく寝てろってんだ」
充垣はハルバードを構える。
身体がかなり重かったが、まだ支えがなくても立てる。月宮はただ充垣を見据えた。どこから攻撃が来てもいいように、避けられるようにする。
この手合わせは、月宮が姫ノ宮学園で「敗北にならなかった敗北」を味わったために始まったことだ。水無月ジュンになに一つ敵わなかったことが悔しかった。同じ信念を抱いていた彼女が届かなかった場所に、弱い自分が辿り着けるはずがない。
どんな能力を持っていようとも、そればかりに頼るわけにはいかない。水無月は、月宮に能力に頼っていないと言ったが、そうではない――そうではなかった。やはりどこかで頼っている節があったのだ。だからこそ彼女に負けた。傷一つ付けられず、ただ怯えているだけに終わってしまった。
まだ自分は弱い。守りたい人を、託された人たちを守れない。今、自分に必要なのは能力の使い方などではない。ただ今持つ技術を磨くことだけだ。超えられなかった恐怖に立ち向かうだけ。
汗が額を伝い、不覚にも左目に入ってしまう。閉ざされる視界。その一瞬の内に、そこにいたはずの充垣の姿がなくなっていた。音もなく、見えるのは奥にいる琴音と咎波だけだ。
死角となった左側に気配を感じ、前方に転がり回避行動をとる。ハルバードが振り下ろされていても、横に振られてもこれならば回避ができる。それに回避しながら、体勢を立て直し、死角ではない右目に相手を映すことができる。
視界に映った充垣は、月宮の思惑通りハルバードを振り下ろしていた。思いっきり振り下ろしたためか、床のタイルは砕け散っている。
「またそうやって避けんのかよ。お前、こんなことするためにオレを呼んだのか? だったらマジで殺すぞ。これは、実戦じゃねーんだよ。多少の無理でも突っ込んでこいよ。それともなにか? お前、ビビってんのか?」
充垣は静かに、いまだ片膝立ちの月宮に冷たい視線を送りながら近づいてくる。ハルバードを引き摺りながら、距離を縮める。床のタイルや、剥き出しになっていたコンクリートを砕きながら、月宮を見下す。
まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。足が言うことを聞かない上に、充垣の視線から逃れることができない。水無月の殺気とは違う。相手に気付かせようとするものではなく、相手をひるますものだ。恐怖し、足が竦む。
監視係の二人もこれには動きを見せた。目付きが明らかに変わり、充垣の行動を見逃さないようにしている。その行動次第では、監視係としての使命を果たそうということだ。同じ事務所で働いている、そんなことで彼らに仲間意識が芽生えるはずがなかった。
「実戦とこのくだらねー遊びは違う。あっちは負ければ死ぬし、こっちは怪我をするだけだ。怪我をしながら、自分の悪いところを直す。できないことをやれるようにする。悪くねーよ。オレはそういうの好きだ。大好物だ。お前のことは嫌いだけどな、お前のそういう向上心は嫌いじゃない」
ハルバードの切っ先が月宮の首に当たる。ひんやりとした感触は、ただの冷たさではないのだろう。死に直面しているという恐怖からくる冷たさ。
「今のお前にあるのは、それじゃない。ただ考えごとを振り払おうとしているだけだ。染み付いちまったものを洗い流そうとしているだけ。逃げんじゃねーよ。その染み付いちまったものはな、洗い流すもんじゃねーんだよ。それを受け入れろ。それがお前の強さに直結してるもんだったろ」
充垣は告げる。
「後悔がいつもお前を強くあろうとさせてきただろ」
その言葉の最後を聞き終わった瞬間、月宮の視界は黒く染まった。なにも見えないだけでなく、なにも聞こえない。なにも感じない。なにも考えられなくなった。
※
「充垣にしてはいいことを言った」
琴音が珍しく他人を褒めた。
「そうか?」
そう言って彼は二人から視線を逸らし、頭を掻いた。彼の性格は単純明快で、その行動もまた然りだ。視線を逸らし、頭を掻くのは、照れ隠しをしているときだ。彼自身は気付いていないのだろうが、咎波たち事務所員の間では周知の事実だ。
「まあ、指導係としての仕事はやっただろ。所長から頼まれてることだし、それにオレはあいつの先輩だからな」
壁に寄りかかるように気絶している月宮。充垣のハルバードの柄が彼の身体を吹き飛ばしたのだ。そのことをあの状態の月宮が理解できたとは思えない。なにが起きたのかわからないまま、気絶してしまったはずだ。充垣の言った通り、なにかを振り払うように仕事をしてきた彼にとっては、いい休養になるだろう。
「あれ? 充垣って何歳だっけ?」
「今年で二十歳だな。今は十九。あいつより上だろ? たしか高校に通ってたよな?」
「二つくらい離れてるんだ。ちょっと意外」
「それはオレがガキっぽいってことか? それともあいつが大人びてるのか?」
「どっちも。充垣は子供っぽいし、月宮は」
琴音は少し考える。
「――生き急いでるって感じ。高校生らしくない」
それには同意を示さざるを得なかった。高校生らしくない。生き急いでいる。たしかに月宮を表すのには充分な言葉だ。実際、咎波も機会があれば、休養を促すつもりだった。事務所員とはいえ、学生だ。その本分は学生生活にある。だが、彼にとっての重要度は異なっている。任務の方に天秤が傾いてしまっている。
そもそも咎波は、月宮の配属には反対だった。今は類を見ない二つの能力を持っているが、当時はなにもできない高校生だった。運動が少しでき、頭の回転が速い程度だ。飲み込みの速さも称賛に値するものだったが、飲み込むまでがただの一般人では任務に支障をきたす。それに死と隣り合わせだ。ハッキリ言えば、使いものにならない。本音を言えば、学業に専念して欲しい。
世界の悲しみを知っている、見てきた咎波としては、子供は子供らしく生きていて欲しかった。その点では充垣にもアリスにも同様のことが言える。琴音に関しては、なにもわからないので言えることがなかった。見た目は子供っぽいが、実は充垣くらいの年代ではないかと咎波は思っている。その実力が玄人を遥かに凌駕しているからだ。正直に言って、人外に近いものを感じたことさえあった。
「咎波、今、失礼なこと考えてたでしょ」
琴音が睨むように咎波を見た。
「そんなことないよ。ただ僕からすれば、三人ともまだまだ子供だなって思っただけさ」
「咎波さんは、人生経験豊富だもんな。したことないことなんてあんの?」
「死んだことがまだないね」
「私もない」
「オレだってないさ」
「だからちょっと湊くんの死には興味があるね。一度死んだらしいじゃないか。死ぬとどんな気分になれるのかなんて、生き返った人にしか訊けないからね。身近にいてくれて助かるよ」
それでいて、まだ死と隣り合わせの場所にいる。近況を窺う限り、死を恐れていないわけではない。むしろ死には敏感に反応している。誰よりも死ぬことを恐れている。なにが彼をそうさせているのだろうか。死を恐れていて、死に一番近いところにいる。皮肉なものだ。いつだって、どこだって気に食わないことが起きる。行動と本能に矛盾が発生する。
この世に喜劇などない。すべてが悲劇だ。喜劇だと思っているものは、まだ幕を下ろしていないだけだ。だからこそ世界には悲しみが満ちている。
「じゃあさ、死にかけたことってあるか?」
「あるよ。きみだってあるだろ?」
「そうだな。――愚問だった」
日が傾き始めたのか、空が暗くなり始めている。季節で考えれば、二十時前後にはなっている色だ。咎波の立っている場所からはわからないが、とっくに一番星が瞬いていることだろう。ざっと三時間はここにいたことになる。
「咎波さん、あと頼んでいいか? 治療とかできねーんだわ。やっぱここは人生経験豊富な咎波さんがあいつと話してやるべきだと思うんだ」
「いいよ。そのためにここに来させられたはずだし」
軽く頭を下げ、充垣は立ち去った。咎波は目で彼を追うだけで、別れの挨拶をすることもない。それは琴音も同様だった。つまらなさそうに積み上げられた木箱に座っている。
「琴音くんは帰らないのかい?」
「死にかけた」
予想の範疇外の返答に咎波は呆気に取られてしまった。質問の内容に答えていない。自分のペースで琴音は続けた。
「何回、死にかけたの?」
琴音の目は、咎波を捉えていない。視線の先にいるのは月宮だ。
「何回もだよ」
咎波は答えた。
「でも、きみよりは少ないと思っているよ」
「そう」と琴音は生返事して、その話題を終わらせた。彼女にとって、自分がした質問も、咎波がした質問もたいした興味があるわけではないらしい。
「死にかけるのって地獄よね」
「……ああ」
「月宮は地獄を見ようとしているのかもね」
琴音は言う。
「見るというよりは訪れる。辿り着きたい場所なのかもしれない」
「どうして?」
「さあ? 神様がいた場所が地獄だったんじゃない?」
「神様に会いたいってことか。なにか言いたいことであるのかな」
「それもわからない」
琴音は箱の上から軽やかに飛び降りる。そしてそのまま立ち去ろうと出口へ向かった。咎波は相変わらず目でそれを追うだけだ。
「案外、ここが月宮にとっての地獄なのかもね」
その言葉は、琴音が月宮をどう認識しているのかを具体的に表わしていた。そして誰もが一度は思ったことがあることだろう。
※
気が付くと、辺り一面が暗くなっていた。月が高く昇っているためか、目を凝らすほどではない。数時間ほど気絶していたようだ。立ち上がろうとしたが、身体の節々に痛みが走る。まだしばらくは動けそうになかった。
「起きたかい?」
「その声は、咎波さんか」
咎波の気配を察するのは、月宮には困難だった。そういう仕事をしていたためか、常に気取られないようにしていると聞いたことがあった。過去を話さない事務所員の中では、変わり種と言える。
「その調子じゃ、もう少し休養が必要なようだね」
「充垣と琴音は?」
「帰ったよ。もう三時間ほど前かな」
咎波は時計を見ずに、空を見て言った。
「……そうか」
静寂が空間を支配する。もともと人気のないこの場所ならば、これが当然のあり方だ。暗く、そして静か。今の月宮には心地よい空間だった。
「咎波さんは、帰らなかったんだな」
「それが仕事だからね。まあ、仕事というよりは役割かな。きみを一人にさせてはいけない。きみは重要な人材だ。どこかの誰かに狙われるかもしれない」
「都市警察か」
「それもある。きみもここで働いて長いからね、何人か敵を作ったと思う。割と複数人行動が多いしね、きみは。それに無能力者扱いでここにいるのだから、要注意人物になってるんじゃないかな」
事務所に所属しているというだけで異端者として見られるというのに、月宮は無能力者のためにさらにそれに拍車をかけていた。事務所の仕事は無能力者に務まるはずのないものばかりだ。都市警察と激突することも考慮された人員構成。それなのに、無能力者に働かせることは、その人物にそれだけの価値があると周囲に知らしめていることになる。そしてそれが目的なのだ。陽動としての真価が発揮される。
「なにもできないはずがない」――その正解に辿り着かせることが、アイリスの目的だった。依頼を円滑に進めるための手段として、何度も月宮に依頼を受けさせる。
普段の生活に都市警察が介入しないのは、月宮がなにかをしているという瞬間を捉えられたことがないからだ。月宮の捕縛する優先順位は、事務所員の中では低い方である。一番高くて、充垣だろう。やること成すことすべてが派手で、なによりハルバードが目立ってしまっている。
「あとは魔術師だね。この間、きみを昏倒させるまでに至らせた魔術師に狙われているんじゃないのかい?」
「それは――わからないな」
星咲夜空の真意を探るのは、雲を掴むようなものだった。気にするだけ時間の無駄なような気がして、忘れようとしていた存在だ。彼のことについては、誰にも話していない。無論、魔術師ということは、如月トモから伝わっているのだろう。だが、彼女は名前までは知らないようだった。それに乗るような形で、月宮も彼の名前を伏せた。なぜだかわからないが、その名前を出すことが躊躇われたからだ。
天災のようなあの黒い魔術師は今、どこに災厄を運んでいるのだろうか。
咎波は胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。明後日の方向を向いて、煙を吐き出す。
「あのさ、咎波さん」
月宮は話しかけた。咎波が視線を向けてから続ける。
「『強い』ってどういうことだと思ってる?」
「生きていることだよ」咎波は即答した。「生きている者は強い。強い者が生き残るんじゃない。生き残っている者が強いんだ」
「俺も強いのか?」
「ああ、もちろん。こうして僕と話しているのが、その証拠さ。きみが先日のことで死んでいたら、この瞬間は存在しない」
煙草の灰が、静かに床へ落ちていく。その一瞬の出来事が、長く感じられた。
「染矢(そめや)くんだったら、強者が生き残るって言うだろうね。彼の強さの定義は、戦いに勝つことができる。弱いから死ぬ。そういう考えだ。だから彼は強い。生き残ることに、勝つことに執着しているからね」
なるほど、と月宮は納得した。たしかに充垣ならそう言うに違いない。
「琴音はどう思う?」
「そうだね、彼女は――」
咎波は言う。
「たぶん、彼女が認めた人間が強いんだろう。これは湊くんが知りたい答えとは違う部類だね。強さとはなにか。その問いに対して彼女は『私の認めた人間が強い』と答えるんだ」
「それは琴音自身が強いから、そう言えるんだろ?」
「そのとおり。彼女は、自分自身を強さの基準に考えている。彼女自身がボーダーなんだ。特殊と言ったのは、彼女の視点で考えると、生き残っていなくても私の認めた人間なら強いってことになるからだよ。僕とも染矢くんとも違う」
「強くなるのは難しそうだ」
「湊くんにも持っている信念があるだろう? 生き残りたい、勝ちたいみたいな。それができていれば、きみは強いんだ。どうして強くなりたいのか考えてみるといい」
目を瞑り、思考を巡らせる。自分を見つめ直す。どうして強くなりたいのか。生き残りたいからか? 勝ちたいからか? それとも誰かに認められたいからか? ――そうではない。様々な強さに対する考え。人それぞれでいいものを、混同してはいけない。
行動の理由。それを思い返す。
「人はね、その信念が崩れそうになったときに、強さを求めるようになるんだ。より優れた技術を得ようと、より柔軟な思考をなせるようにと。自分にはないもの、足りないものを求めるようになる。間違ってない。だけどたまにそればかりに没頭して、信念を忘れてしまう人がいる。それが今のきみだ」
咎波の言うことは正しい。強くなりたいと切に願った。自身の向上を目指し、充垣に相手をしてもらった。しかし、信念を忘れて、「強さ」という言葉に魅了されて視界が暗転していた。だから、充垣は怒ったのだ。信念を見失った月宮の姿は、見るに堪えなかったのだろう。
「きみが闇雲に強さを求めたのは、これで二回目だ。二回目はもちろん今日。そして記念すべき一回目は今年の春だ」
「ああ――」
「あの時期に、きみの能力を知らされたんだったね。そして隠していた理由も充分なものだった。だけど、あの事件のことは知らされなかった。あれほどの大火災があったというのに、なにもなかった」
「気になるか?」
「正直に言えばね。だけどまあ、アイリスが口を閉ざしているんだ。僕たち所員が訊けるようなことじゃないと思ってるよ」
月宮の「根源」とも呼べるあの大火災。あれがあったからこそ今の月宮がいて、そして「彼女」と出会えた。知ることができた。あの悲しみの事件を忘れてはいけない。誰がなにをしたのかを、心の深い場所に刻み込まなければならない。
「春の湊くんは、それはもう狂ったように強さを求めていた」
咎波は取り出した携帯灰皿に吸い殻を入れた。
「あのときは――そう、信念を見失ったというよりは、見つけたって感じだった」
「俺がやらないといけない」
月宮は腕を動かし、自分の手のひらを見た。
「戻れなくなった。これまでとは立ち位置が違う。自分の都合で人を傷つけた。取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない」
「それらに後悔したのかい?」
「結果には後悔してない。だけど、そうすることしかできなかった俺の弱さを恨んだ。弱いままでいた自分に後悔した」
「だから――強くなろうとした」
「それもある」
「他にもあるのかい?」
「約束なんだ。――約束をしたんだ」
その後、月宮は咎波に肩を借りて、アパートまで帰った。その道中で二人が口を開くことはなかった。話すことは話し、聞くことは聞いてしまっていたからだ。
深夜近くとはいえ、夏の暑さが充満していた。それを不快に思わなかったのは、時折吹く風のおかげだろう。汗を気化させ、月宮の身体を冷やした。同時に思考もクリアになっていく。
咎波との別れ際に、月宮は言った。
「咎波さんと話せてよかった」
「そうかい? それはよかった」
「また今日みたいになったら、相談してもいいか?」
「いいよ、僕でよければね」
咎波は付け加えるように言う。
「――そのときまで、生き残っていればだけど」
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