07-4 満面の笑みでにべもない返事
休日の昼過ぎ、レッシュは青井家を訪れた。
昨日、探偵事務所の所長、亮からちょっとした預かりものを受け取ったのだが、その日のうちに渡さねばならないものではないようだ。ならば次の日でもいいか、と、日曜日の昼に訪れることになったのだ。
夏の暑い日差しの中、バイクを飛ばしている間は爽快だが、停まると途端にむっとする熱気が全身を容赦なく包み込んで、レッシュはフルフェイスヘルメットの中で暑苦しい吐息をついた。
インターフォンのベルを鳴らすと、家の中から騒々しい足音が聞こえてきた。勢いよく開いたドアの先には、わんぱくを絵に描いたような男児が満面の笑顔でレッシュを見上げている。
「わーい、レッシュおにいちゃんだ!」
青井家の長男、今年六歳になる淳がはだしで飛び出してきてレッシュにぴょんぴょんと飛びついてくる。
「こらー、淳。外に出る時は靴をはきましょうー」
やんわりとたしなめる声は母親の照子だ。独身時代に一度会った時は「活発そうなねぇちゃん」だと思っていたが、今は母親としての凛とした強さと、それ以上に優しさも醸し出している、とレッシュは感じている。
照子を見ていると、時々、ロサンゼルスで平和な暮らしをしていた頃に自分を優しく包んでくれていた母親を思い出す。レッシュは微苦笑を漏らした。
「よぅ、チャンプ。淳は相変わらず元気だな」
「元気すぎるのよ、まったく。さ、あがって。結も待ってるよ」
靴を脱いで淳に引っ張られるように居間に移動しながら、レッシュは考える。
まさか青井家にこんな形で訪れるのが当たり前のようになるなんてな、と。
結と初めて会ったのは、マフィアの構成員としてリカルドの下で働いていた頃で、諜報員である結とは仕事上の利害が対立したために敵対関係であった。
時として共闘することもあったが基本的に相容れる立場ではない、という二人の関係は、ずっと変わることはないと思っていた。
レッシュが足抜けして日本にやってきてからの、結のレッシュへの態度は、特に気さくに打ち解けたというわけでもないが存在を否定するものでもない。レッシュとしてはいま一つ、結にどう思われているのかが掴めない。悪く思われているわけではないだろう、と感じるのは希望的観測だろうか。
同じように仕事上で対立していたリカルドとは、レッシュ以上に親しくなっているように感じるのが、自分だけ認められていないのではないかと気に病む材料でもあった。
「休みの日なのにわざわざ悪いな、レッシュ」
居間では結がのんびりとソファに座っている。諜報員としての彼は表情も行動も読ませない、何を考えているのか判らない食えない男だったのだが、日本に来て、プライベートでも彼と接することが増えると、意外にも判りやすいところがあると気づかされる。元々感情は豊かなのだなと思ったのは、照子達家族に接する時の結の笑顔だった。
「いやぁ、バイクで走るの好きだし、いいよ。で、これがうちの所長からの預かりもの」
レッシュが茶封筒を差し出すと、結は体を起こして「ありがとう」と受け取った。その勢いで立ち上がって部屋を出て行く。封筒をしまいに行くのだろう。
「ほんと、暑い中ありがとうね。冷たいもの淹れるからゆっくりしてって」
照子も台所に引き揚げて行く。淳は照子にまとわりつくようについて行った。後に残ったのはレッシュと、いつの間にかやってきていた咲子だった。
「おぉ、咲子だ。また背が伸びたなぁ」
確か咲子は三歳になったばかりだったか、と思いだしつつ、レッシュは咲子の頭をなでた。
咲子は、じぃっとレッシュの顔を不思議そうに見つめている。誰だったかな、といった顔だ。
「レッシュにいちゃんだぞ。忘れちゃったか?」
前に会ったのは二カ月近く前だったか。会う頻度がそう高くないので覚えられていなくても仕方ないだろう。逃げられたり泣かれたりしなくなっただけましというものかもしれない。
顔を見ただけで大泣きされたりすると、小さい子はそんなものだ、と言われて理解していても結構傷つくものである。前職が前職なだけに、相手が幼児だからではなくレッシュが恐れられる雰囲気を醸し出しているからなのかと不安にもなる。
「覚えてもらうなら、もうちょっと頻繁に会わないと駄目ねえ。咲ちゃんがもうちょっと大きくなったら何カ月に一回ぐらいでも覚えてると思うけど」
盆にアイスコーヒーとジュースの入ったグラスを乗せて、照子が戻ってきた。もちろん淳もくっついている。
「ふぅん。ま、泣かないだけでもいいってもんだ」
「そうねー。随分人見知りもなくなってきたし、よかったわ」
照子が笑いながら、グラスをテーブルに置こうと手を伸ばすと。
「さきちゃん、やるー」
今まで黙っていた咲子が照子にせがむように、グラスを取ろうとしている。首の後ろで括った髪がひょこひょこと揺れてかわいらしい。
「そう? じゃあお願いね。レッシュお兄ちゃんに、どうぞ、って」
照子はアイスコーヒーのグラスを咲子にそっと手渡した。
咲子は、まるでこれを落としたらこの世の終わりだというほどの真剣な表情でグラスを睨みつけながら、ゆっくりゆっくりと歩いてきて、レッシュの前にグラスを置く。
「れっしゅにーたん、どーぞ」
まだ少し警戒していますという表情だが、それがまたなんとも愛らしい。たどたどしい口調もほほえましくて、ついついレッシュは目じりを下げて笑った。
「ありがとなー、咲子。かわいいなぁ」
咲子をひょいと抱っこしてやると、警戒心はどこへやら、きゃははと笑いながらレッシュの膝の上で体を揺らして遊び始めた。
「わー、いいなぁ。ぼくもー」
今まで大人しくジュースを飲んでいた淳も、空いている膝の上にまたがってきた。
「うぉ、淳、重っ」
予想よりもずっしりとしている淳に乗りかかられてレッシュはバランスを崩しそうになる。
「こらこら、二人乗ったら重いって」
照子が子供達を引き取ってくれたのでレッシュは思わずため息をついた。しかし照子にひきはがされてぶーぶーと文句を言っている子供達は、可愛いと思う。
「これでちょっとは咲子にもなつかれたかな。しっかし、子供って可愛いもんだなぁ」
「自分の子ならなおさらだよ。レッシュくんも結婚して子供作ったらいいじゃない」
「まず相手がなぁ。そうだ、咲子、レッシュにいちゃんと結婚するか?」
戯れに問うてみたら、「さきちゃんね、パパとけっこんするの」と満面の笑みでにべもない返事が飛んできた。
「パパとかー。残念だなー」
「いくら相手がいないからって、咲はやらんぞ」
突然後ろからつっけんどんな結の声がして、レッシュの笑いが引きつった。
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