06 悪い夢
06-1 誰もそばにいないことに慣れているはずだった
ざわりと嫌な感覚がして、リカルドは目を覚ました。
今朝から少し発熱していて仕事は休んだ。うたたねを繰り返し、体調は良くなったようだが、体はなんとなくだるく重い。
外は曇っているのか、まだ夜ではないが陽の光のささない薄暗い部屋の中でベッドの上に身を起こし、額に浮いた汗を手の甲ですっとぬぐって、ふと気付く。
誰かの気配がある。隣の部屋か、あるいはキッチンあたりだ。
比較的穏やかに眠っていたのに急に目が覚めたのは、この気配を感じたからかもしれない。
もう眠っている間に命を狙われるということはないのに、生活圏内に慣れない気配を感じると目が覚めてしまうのは長年染みついた感覚のなせる業だ。そんなものはいらないのだが。
とりあえず殺意めいたものではないので、リカルドは一呼吸おいてから、枕元の時計に目をやった。
十八時前だ。もしもレッシュがリカルドの身を案じてやってきたとしても少し早い。
では誰だろう? と小首をかしげつつ、リカルドはベッドをおりた。
殺意はないとはいえ、警戒心を完全に解くこともできず、リカルドは音と気配を忍ばせて気配の元へと向かう。
廊下に出ると、キッチンの電気がついている。中からかすかながら物音も聞こえてくる。
きっとレッシュが勝手に上がり込んでいるのだ。リカルドの様子を見てくるからと早めに事務所を辞したのだろう。
リカルドはそう推測して、微苦笑を漏らした。自分の見舞いを口実に早退して、勝手に冷蔵庫の中身を漁っているレッシュの姿を想像したのだ。前にやってきた時も、「ビールもらっていいか?」と問いながらすでにその手にあるビール缶のプルトップが引かれていた。
まったくしようのない奴だ、と過去の悪行を思い起こして呆れつつ、リカルドはキッチンにつながる扉を開けた。
だがそこにいたのはレッシュではない。ゆるくウェーブしたダーティブロンドの後ろ姿にリカルドは息をのんだ。
「……あ、リカルドさん。お邪魔しています」
ジュディが振り返って、一瞬戸惑いの表情を見せた後に微笑んで挨拶した。
「……ジュ、ディさん?」
あまりにも予想外の光景にリカルドは言葉につまり、やっとのことでジュディの名だけ口にすると激しくむせてしまった。
「まぁっ、大丈夫ですか? こんなに咳込むなんてひどい風邪ですね」
ジュディが慌ててリカルドのそばにやってきて、背中を優しくさすってくれる。
「い、いえ……。大丈夫です……」
何度か大きく呼吸して、どうにか落ち着いてきたリカルドは軽くかぶりを振った。
しかしジュディはまだ心配そうな顔をしている。
「レッシュさんがおっしゃっていましたよ。リカルドさんは無理をなさる、と。我慢されているのではないですか?」
「レッシュが?」
余計なことを言う、とリカルドは苦虫をかみつぶしたような顔になる。まさかジュディの優しさに付け込んで、心配をあおって自分の元によこしたのではないだろうなと、心の中のいたずら顔のレッシュを睨みつけた。
「やっぱりつらそうな顔をされていますよ。もう少しお休みになった方がいいと思います」
ジュディはリカルドの背中をそっと押して寝室に促そうとする。
「あ、いや、本当に大丈夫ですから」
「でも、ひどい咳をなさってましたし」
あれはあなたを見て驚いたからだ、とリカルドは口にしそうになったが、改めてそのような言いわけをするのもなんだか恥ずかしくて、口をつぐんだ。
結局、ジュディに押されるままに寝室に逆戻りすることとなった。
「すみません。気を遣わせてしまって」
ベッドに腰をおろして――と言うより介助されて腰かけさせられ――リカルドは隣に座るジュディに頭を下げた。
「いいえ。困っている時はお互い様です。こちらこそ、勝手に上がり込んでしまってすみません。様子をうかがったらすぐに帰ろうと思ったのですが、リカルドさん、よく眠ってらしたので、食べやすいものを作っておいた方がいいのではないかと思って……」
夜になって起きてから食べるものを準備するよりは、作り置きがあった方がいい、と考えてくれたようだ。
彼女の気遣いにリカルドの顔は自然とほころんだ。
「ありがとうございます。料理はあまり得意ではないので助かります」
ジュディも笑顔になった。
「それでは、わたしはキッチンに戻りますけれど、リカルドさんは体を休めていてくださいね」
言いながら彼女は立ち上がった。かすかな空気の流れに、リカルドはなんだか彼女がとても遠くに離れてしまったような錯覚を覚えた。まだジュディはそばに立っているというのに。
寂しさを感じたと自覚して、それをジュディに知られたくなくて、リカルドはそそくさとベッドに横になった。
リカルドが大人しく体を休めたことに安心したのか、ジュディはかすかに笑みを漏らして部屋を出て行った。
彼女がいなくなって、リカルドは長い溜息をついた。
誰もそばにいないことに慣れているはずだった。
それなのに、彼女が少しそばを離れただけで孤独を覚えて寂しいと感じるなど。
体調が悪いから人肌が恋しいのだろうか。
それとも。
彼女がディアナに似ているからか。
どちらにしてもジュディには失礼な話だ。
ここは彼女の言うようにしっかりと体を休めて早く復調しなければ。
リカルドは静かに目を閉じた。
ジュディに言われてベッドに横になるだけのはずであったのに、リカルドはまた眠っていた。
しかも最悪なことに、悪い夢をはっきりと理解している。
闇の中でリカルドは横たわっている。
誰だか判らない者、男か女か、大人か子供かも判らない影が、リカルドの首に手をかけて、殺意をもって締め付けてくる。
その人の思いが伝わってくる。
……を返せ! おまえが殺したんだろう!
最初の部分は判らないが、誰かの名前のようだ。
誰だか判らない者に、知らない者の恨みだと、殺されようとしている。
マフィアに属していた頃は、恨みを買って殺されてしまうならそれは仕方のないことだと思っていた。むしろ楽に死ねるなら、その方がいいのかもしれない、と考えていたこともある。
しかし今は。
殺されたくはないと、死にたくないと思っている。
そしてそれがとても自分勝手な思いだと、リカルド自身が感じている。
人の不幸の上にしか成り立たなかった人生を送ってきたのに、その罪も償わずに平穏な人生を手に入れたことに、心の片隅では罪悪感が芽生えていた。自分が苦しまないためには、こうするより仕方がないのだと今まで目を反らしていた、罪の意識。
自分の首を締める手を、払いのけるべきなのか、享受するべきなのか。
判らない。だが、息苦しさにリカルドの手は自然と宙を描いていた。
その手が掴まれる。温かく柔らかい手だ。生きなければ駄目だと励ますように、ぐっと包み込んでくれる。
――俺はこの手を知っている。これは……。
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