02-5 これで幕引きにするつもりか

 十六歳になる直前まで、ごく普通の家庭だった。

 一つ難があるとするならレッシュは幼い頃、体が弱かった。

 だが父も母も姉も、いつもレッシュを心配してくれていたから心細くはなかった。学校でいじめっ子にからかわれても姉が助けてくれた。


 父はそんなレッシュをマーシャルアーツのジムに通わせてくれた。体力をつけたレッシュが健康に育っていくさまを喜んでくれた。

 これで安心ね、と姉はずっと付き合っていた彼氏と結婚し、家を出たのはレッシュが十四歳の頃だ。


 それが一変したのが、あの日だ。


 突然家になだれ込んでくる捜査員達に拘束される父、わけが判らず父にすがる母は払いのけられ、抗議したレッシュはまるで汚物でも見るような目で見下げられた。


 業務上横領罪。父の容疑だった。


 あの父が、信じられない。

 しかしレッシュには事件の真相を確かめるすべはなく、気落ちし、自殺するまでに精神を病んでいく母を救うこともできなかった。


 姉を頼っていったが、かつての優しい姉はレッシュの存在を疎み、いたたまれなくなったレッシュは姉の家を出た。


 路地裏で生活するうちにストリートキッズを牛耳るマフィアから父親の事件の真相を聞く。

 父はマフィアに脅されていたのだ。

 そしてそれを摘発に導いた諜報員がいる。


 レッシュは、復讐することを決意した。


 ヤツらがいなければ、おれの生活は平穏なままだったのに。

 怒りを胸に実行犯を撃ち殺した。だがレッシュ自身も危機に陥る。

 それを助けてくれたのが、リカルドだった。




 レッシュは目覚めて辺りを見回し、大きくため息をついた。

 そうだここは日本だ。おれは足抜けしたんだ。もう犯罪者として暮らさなくていい。


 ――だが、“カズ”は。マフィアの資金調達源を断つべく父の事件を摘発させた諜報員は……。


 いや、それは考えてはならないことだとレッシュは首を振る。


 “カズ”を探し出すために裏社会で働き、それだけのために生きてきた。その生活にいきなりピリオドが打たれて何も思わないわけではない。

 だがリカルドが、自分よりも過酷な生活をしてきたリカルドがやっと安定した平和な生活を手に入れられたのだ。自分が勝手なことをして彼の立場を危うくさせるわけにいかない。とレッシュは心の中で呪文のようにつぶやく。


 願いが叶うならせめて、“カズ”と会ってみたかったな、とは思うが。


「レッシュ、今日、“カズ”さんが来るからね」

「……ふぁっ?」


 出社していきなり亮に言われた一言でレッシュは変な声しか出てこなかった。


「探してたんだろう? 無理言って来ていただくんだからあんまりなことしないでよ」


 さらっと言うが亮は復讐のために相手に大けがを負わせたり、ましてや殺したりするな、と言いたいのだ。


 ずっと探していた“カズ”に会える。

 だがただ会って話すだけで、果たして自分の気持ちは収まるのか。


 いや、収めなければならないのだ。


 日本に来てから“カズ”のことは考えないようにしていた。それでも時々ふと思い出してしまっていた。

 それを感づかれて決着を付けさせようとしてくれているのだろう。


 しかしいきなりすぎる。

 レッシュがあれこれと考えている間にその時がやってきた。


 黒崎章彦が富川探偵事務所に入ってくる。その後ろから、彼よりも少し背の低い老齢の男が姿を見せた。


 あれが“カズ”か。黒崎と一緒に来たということは親父か。


 本人を見て心がざわめくが、落ち着け、と自分に言い聞かせる。


 ソファに向かい合って座る。

 レッシュの後ろには信司、透、亮が並んで立っている。リカルドは少し離れて全体の様子を見守っているようだ。


 特に感情の読めない、落ち着いた様子の和彦の後ろにいる章彦は普段より厳しい顔をしている。


「わざわざご足労、ありがとうございます、黒崎さん」

「いえ。こちらこそ。私の過去の仕事に関することなのに、こうして場所をお貸しくださってありがとうございます」


 亮と和彦が挨拶をかわす。

 そこから会話が続くわけでもなく、皆、レッシュをじっと見ている。


 何を話せばいいのか、判らない。

 レッシュが考えていると。


「……さ、レッシュ。言いたいことを言えばいいよ」


 亮の声は優しかった。後押しされるようにレッシュは本音を口にした。


「おれはあんたを許せない。だからあんたを探すために、いろんなものをぶっ壊してきた。それだけ、あんたに会いたかった。会って、殺してやろうと思ってた」


 そこで一旦言葉を置く。父が逮捕されてからの変転をいろいろと思い出して歯を食いしばる。

 一つ大きく呼吸をしてから話を続けた。


「誰からどう思われても、おれ自身が復讐の対象になろうとも、“カズ”だけは許さない。この手で始末する。それだけを思って生きてきた。けれどまさかこんな形で会うことになるなんてな。正直言って、何をどうぶつければいいのか、全然判らない」


 ほんとうに、全く分からなかった。

 何も言えなくなってしまったレッシュに、和彦は静かに、しかしゆるぎない口調で言葉を返す。


「君が私の仕事の裏で犠牲になったことは知っている。君の件に限らず、私の仕事にはそういったことが付き物だ。極力悪影響は少なく留めたいと努めてはいるが、犯罪者の家族がそれまでの暮らしを捨てなければならないことは、ほぼ避けられないことだ」

「だから甘んじて受け入れろ、って言うのか」

「そうだ」


 レッシュは息を呑む。そこまできっぱりと言われるとは思っていなかった。


「犯罪者の家族というレッテルを張られても、それに負けずに生きる者達も多い。それを君は放棄し、あまつさえ自ら犯罪者となる道に走った。教唆があったとしても、最終的に選んだのは君だ」


「……そう、選んだのはおれだ。マフィアに与したのも、勧められるままに抜けたのも。……日本に来て、過去を断ち切って平穏な生活を手に入れて、……おれはあんたのことを忘れようと思ってた。けれど今こうして会ってる。殺したいとは、もう思わない。そこまで拘る過去を捨てたんだから。でもあんたが憎いという思いも失せたわけじゃない」


「ではどうすれば、君の気は晴れる? 長年抱いてきた憎しみを捨てきれとは言わない。だが君やゴットフリート氏がここ日本でつつがなく暮らすには、君の今の感情は危うすぎる」


 リカルドの存在を言及されて、レッシュはちらりと彼を見る。

 意外にも、後悔しているかのような表情を浮かべていた。

 彼のためにも感情を爆発させてはダメだとレッシュはぐっと拳を握る。


「わびを入れろよ。ひざついて、申し訳なかったと」


 どうせこんな要求呑みはしないだろう。それならば殴らせろと続けるつもりだった。


 だが。


「……申し訳なかった」


 和彦はソファを降りて両膝を床につき、頭をたれた。

 レッシュが息を呑む。口がわななき、握った拳が震えた。


 これで幕引きにするつもりか。


 そう思うと許せない気持ちがふつふつと湧き上がる。

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