第1話 クリスマスの夜に。

 私の名前は坂部さかべちよ子。日系企業で事務職として新卒入社して六年目の女。給料は低いのに任される仕事は増え、同期や先輩女性社員が寿退社などでどんどん辞めていき、すでに課の女性の中では年上の部類。この仕事に遣り甲斐を感じているわけではなく、私も辞めたいと思う事はあるが、寿退社の予定は全くないし(まず彼氏がいない)、ただの事務員じゃ転職も難しいだろうし、正社員として雇ってもらえるだけでも有り難いだろうと自分に言い聞かせて何とか頑張っている。


 夜七時半。そろそろ帰ろうかと思いながらもまだ一つ仕事が残っている。

 ちよ子はほんのり茶色に染めた少し肩にかかる程度の髪を揺らして席を立ち、営業課へ向かった。


「菅原さん」


 パソコンの画面を見ながらキーボードを打つ男の名は菅原明治すがわらめいじ。ちよ子より三つ年下だがすでに営業成績は社内でも上位に入っている若手のホープである。


 ちよ子の声がけで菅原は「はい」と振り向いた。彼は外回りや電話対応で毎日多忙なはずなのにそれを顔に出す事はない明るい人。黒髪、はっきりと整った顔立ちは爽やかな印象を与え、彼は社内で男性社員にも女性社員にも好かれている。


「アンケートまだですよね?」


 ちよ子は淡々と言った。すでにメールで催促していたのだがまだアンケートを貰っていない。提出期限は本日夕方六時までと記載していたのに。


「あ、今送ります」


 菅原はさささっとマウスを動かしアンケートを総務ちよ子宛へ送信した。


 記載していたならさっさと送信してよ、元々二、三分で記入出来る社内アンケートなのだから。


「あと年賀状提出は十二月二十五日までですからね」


 ちよ子の勤める会社は毎年クライアントに手書きのメッセージを加えて年賀状を送っている。正直菅原が期限に間に合わなかろうが、ちよ子にとって知った事ではないが忘れてそうなので念押しをした。菅原の机の上にはまだ手をつけられていない百枚ほどの年賀状の束が置かれていた。


「了解です」


 そう言って菅原は笑った。


 今日はもう十二月二十四日なんだけど大丈夫か? この人……。ま、大丈夫なんだろな。


 いつも菅原は夜遅くまで残業しているようだ。体を壊さないか心配だが毎日休まず会社に来ている。(この会社は体調を壊して転職する人もいる。)


 ちょうど菅原の机の上の電話が鳴ったので、ちよ子は席を離れた。


 正直ここ数週間、菅原に何か言われないか緊張していた。営業部の菅原とはあまり接点はないが、廊下などで出会う際は必ず挨拶をしてくれ、時間がある時は彼の方から少し雑談もしてくれる。事あるごとに、ちよ子の仕事ぶりや性格を褒めてくれる。一度だけ「可愛い」と言われた事がある。その後、もう一か月も前の事だが飲みに誘われた事もある。ただその全てが社交辞令だと思い、ちよ子は受け流してしまっていた。


 菅原からクリスマスの予定を聞かれる事はなかった。やはり今までの事は社交辞令だったのだ。私だけ特別視されているかもと勘違いしそうになったが、誰にでもそういう人なのだろう。彼は仕事が出来るのに偉ぶることはなく、重いものを代わりに運んでくれたり、気配りが出来る人で正直モテる。


 痛みを感じないと言えば嘘になるが、「今日」は何もなかった。一か月悩んでいた答えが出た気がする。もう彼のことは忘れてまた日常に戻ろう。



 今日は十二月二十四日。クリスマスイブ。花金。


 夜八時。ちよ子は仕事を終えて会社を出た。並木通りのイルミネーションはとても綺麗で華やいでいる。街はいつもよりカップル率が高い気がして、毎年この日は寂しい気持ちになる。


 このまま家に帰る気にはなれず一時間ほど街をぶらついて、夜九時、最近行きつけの店へ向かった。


 それはワインショップ。夜十一時まで営業していて、目立たないがバーが併設されている。バーは六人〜八人程で満席になってしまう長テーブルが一つあるのみ。「いらっしゃいませ」とすらっと格好良く黒の制服を着こなしたショートカットの女性が笑顔で迎えてくれる。


 お酒は普段あまり飲まないが、それでも飲みたい気になる事はある。特に今日はそう。


 お洒落なバーは知らないし、チャージ料とかよく分からないし、中々足を踏み入れられなかった中で見つけた穴場がここ。たまたま試飲で配っていた甘口ワインに惹かれて入店したのが始まり。チャージ料なしで一杯数百円で飲める。ボトルを買っても一人じゃ飲めないし、客寄せになるから一杯注文するだけでも構わないと言う二十代前半の明るい女性スタッフとお喋りするのも楽しい。


 カウンター越しに女性スタッフがメニューを渡してくれた。一週間ごとにメニューが変わるらしい。「甘口ならコレ、おすすめはコレ」とメニューを指差して教えてくれる。「今日は辛口を飲んでみたい」と伝えると、カルフォルニアの赤ワインをお勧めしてくれた。


 オーパスワンとかと言う一本四万円の高級ワインと同じ産地で作られている一本五千円のワイン。のグラス五百円。


 前回飲んだ「メルロー」と異なり、かなりガツンとした味わいだった。でも美味しい。ついに辛口ワインの味の良さも分かる年頃になってしまった。


「チーズのご試食もどうぞ♡」と小さく切られたブリーと言う名前の白カビチーズを店員さんが持ってきてくれた。チーズの上に乗せられていたミックスベリーと相性が良くとても美味しかった。


 ふと離れた席で男女で楽しく飲んでいる男の方と目が合って、ちよ子は一気に血の気が引いた。


「ちよ子さん」


 そう言ったのは、数時間前に会社で顔を合わせていた男、菅原明治。

 ちよ子は顔を強張らせて、頭をペコリと下げた。


 菅原さん、彼女がいたのか。

 そりゃそうか。


 赤ワインの入ったグラスを見つめながら動揺する。早くこの場から立ち去りたい。


 ちよ子はワインをグビリと飲んでさっさとお会計を済まし店を出た。


 外の空気は冷たく寒い。心まで――。


「ちよ子さん!」


 菅原がちよ子の後を追って店を出てきた。


「な、何ですか?」


「ちよ子さんを待っていたんです」


「え、私? よくここに来るって分かりましたね」


「前にこの店にハマってると言ってましたから」


「言ったっけ……?」


 そういえば言ったような気もする。


「それで……何でしょうか?」


 何か仕事でミスしたかしら? 年賀状の枚数少なかった?

 菅原はまっすぐとちよ子を見つめて口を開いた。


「今度、どこか一緒に出掛けませんか?」


「え……どこかって?」


「どこでも。映画でも動物園でも」


 そういえば「穴と雪の大王」の新作映画が気になってる事や、パンダの赤ちゃんが産まれた話を菅原さんにしたっけ。でも……


「か、彼女、店で待たせてるんじゃ……?」


 ちよ子は店内でワインを飲んでいる女性を指差した。


「え?」


 菅原はちよ子が指差す方向を見て、またちよ子に視線を戻した。


「俺、一人ですよ。さっきたまたま隣に座る人と一瞬喋りましたけど」


「え!?」


「はい……」


 このワインショップは一人で来るお客さんが多く、お客さん同士で喋ることもある。菅原さんの隣にいた女性はただのお客さんだったのか。


 ガラス越しに店内を覗くと、先程の女性はスタッフと楽しくお喋りをしている。


「難しいですか?」


 菅原は子犬のような顔をちよ子に向けた。


 この顔で数々のクライアントを落としてきたのか。いや、こんな顔は仕事中に見た事はない。


 ちよ子は自分を誘う理由がもっと知りたくて、足を一歩前へ進めた。

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