現実 第四部

 それからしばらくの間俺たちの空間には会話がなくなり、それぞれが一生懸命目的地へと足を歩ませることとなった。

 俺はというと、別に大したことではないが、こと綾さんにとっては話す余裕すらないほどに大変なことであった。

 人間は何日もの間横になっていると運動能力がどんどん低下していくと言われているが、綾さんの場合三ヶ月ほどの寝たきり状態で、目が覚めてからまだ一ヶ月ほどしか経過していない。

 日が経つにつれ体力や運動神経なども復活しているとはいえ、それまでに失ったものも非常に大きい。

 一ヶ月程度で俺たちのように人並みの運動ができないのも当然のことである。

 ずっと歩いていた綾さんの足が立ち止まり、一度息を整える。

 俺の袖をつかみ始めた時もその力と、俺にかかっている重さの割合は大きくなっており、先ほどから絶え間なく呼吸する綾さんの声が聞こえる。


「はぁ、はぁ……。ごめんね……」


 申し訳なさそうにつぶやく綾さんの声にはつい数分前の元気の良さは消え失せていた。


「大丈夫ですよ。それに、ずっと寝ていた人間にこれはいささか酷だと思いますよ」


 友継さんたちの車がある駐車場から俺たちの目指す場所までは直線距離にして約三百メートルと言ったところか。

 ただ、その中には丘を上るために階段を使わないといけない。そのため直線距離だけでなく、軽い登山をしないといけないのだ。

 登山といってもたかがしれている。登山というのもおこがましいほどの位置に俺たちの目的地はあるが階段を使って上ることは変わりない。

 幼稚園児のような子にとって数十段と続く階段が大変なように、体力などが低下した綾さんにとってこの階段は苦行に違いない。


「それに、あと半分。むしろよくここまで止まらずに来たと思いますよ」


 なんだかんだ階段の途中で俺たちは休憩しているため、綾さんはここまで少しの会話をしながら一回も止まることなく来ているのだ。むしろ、よく来れたと言うべきかもしれない。

 もしかしたら、俺と話さずにまっすぐ向かっていたら一度の休憩もなくたどり着いていたかもしれない。


「ふぅ……。健くんが抱えてくれたら。それこそ、お姫様抱っこなんてしてくれたら、すぐに着くけどね」


 綾さんはくの字に折れていた膝を伸ばし、こちらを向きながら微笑んでくる。


「そこまで言えたら大丈夫ですね」

「もう、少しくらいは真剣に聞いてくれてもいいのに……」


 綾さんのスピードに合わせるように、俺たちはゆっくりと歩きを再開させる。

 階段を再び上り始めてからは俺たちの間に会話はなくなる。

 先ほどの綾さんの申し出はいつもの冗談だろうが、冗談とは言え理には叶っている。

 お姫様抱っこのような抱え方ではなく、普通に背中に綾さんを俺が抱えれば今以上のスピードで進むことは十分可能であった。

 それに俺が綾さんを抱えて歩けば、その間綾さんは休むことができる。

 それらの考えを含めて綾さんに伝えようと隣を見た時、綾さんは必死に前を見て歩いていた。

 一歩、一歩、一生懸命に歩くその姿は決して俺には止めることなどできなかった。

 もしかしたら、これは綾さんにとってリハビリの一つかもしれない。ならば、俺はそれに付き合うだけだ。

 そう勝手に解釈して、俺はただ綾さんのスピードに合わせ、自分の体を貸すだけにした。

 俺たちが友継さんたちの車を出てから、十分と少し。

 ついに、丘の上にある休憩所へと到着したのだった。


「お疲れ様です」

「うん……、少し、待ってね。少し呼吸を整えるから……」


 休憩所へと着くと、綾さんは休憩所のベンチに腰掛ける。

 座るほど疲れてはいなかったが、俺だけ立っていると綾さんを急かしているようにも思ったので、俺もベンチに腰掛ける。


 隣で呼吸を整える綾さんを待つこと約五分。ついに綾さんの口から言葉が漏れる。

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