思い出 第一部

 綾さんに助けてもらったあの事故からしばらくの月日が流れ、梅雨の時期となっていた。 

 暦も五月から六月へと変わっており、俺は雨降る中、傘をさして綾さんの病院を目指し、病院の中に入るときにビニール傘を適当に差し込み、いつもの順路で寄り道など一切せず、綾さんのいる病室へと向かう。


「失礼します」


 慣れた手つきで綾さんの病室のドアを三度ノックして、いつものように扉を開ける。


「今日はまだいないのか」


 綾さんの病室には寝息すら聞こえない綾さん以外誰もおらず、静けさだけが滞在していた。

 綾さんの眠っているベッドのすぐそば、窓側の方へと歩いていき、そのすぐそばにある椅子に腰掛け、床にカバンを置く。

 あれからはや一ヶ月が経ち、ここへ通った回数も片手では数えられないほど通っていることとなる。

 高ノ宮高校を訪れたあと、友継さんたちから綾の通っていた高校はどうだったか聞きたいということで呼ばれた際、緑川君さえ良ければこうして綾のことを見にきてくれないか?と言われた。

 それを機に俺はこうして、時間のある時なんかは綾さんの病室を訪れている。

 その理由は一つ目に彼女の様子を確認するため。寝たきりとはいえ、いつその命の灯火が消えてもおかしくない。はたまた、再びつむったままの瞳が光を見るかもしれない。

 その瞬間に居合わせたいというわけではなく、もしも、その瞬間が来たら一番初めに彼女にあの日の、あの言葉について尋ねたかったのだ。

 そして、次に友継さんたちと綾さんのことについて話すためだった


 何はともあれ、今日までで一番深く、長く付き合っている関係である友継さんたちが一番綾さんのことを知っていることはいうまでもない。

 だから、俺はこうして足を運んで、二人の綾さんの自慢話のような、彼女の過去について少しずつ知っていくのだった。

 とはいえ、最近では友継さんたちもあまり時間がないのか、俺が来る時間と合わないのか、長く話すことはない。だから、話す内容のほとんどが俺の近況ばかりになっていた。


 最近、学校では何をやっているのか。


 勉強は大丈夫か。


 子供を持つ親ならではの会話を最近は友継さんたちと交わしていた。そんな会話の一つ一つがどこか柔らかく、温もりをもっていた。

 しかし、その光景は同時に、たった一人の娘をなくしてしまった親の哀れさも垣間見せていた。

 かつてその言葉を語りかけていたのは、俺に話しかけながら見つめる綾さんであったのだから。

 俺はあの時話しかけながら綾さんのことを見ていた二人と同じ場所から、眠ったままの綾さんを見ていたが、その変わらない様子に一度息を吐いて、曇天の雨空に視線を移す。


「いつまで続くんだろうな」


 止みそうにない雨空を見ながら、訪れたのはいいものの、俺はいつ帰るか思案していた。


“コンッ、コンッ”


 突然、ドアをノックする音が聞こえ、びくりと驚くが、外に向けていた視線を病室の出入り口であるドアの方を向けて、「はい」と返事をする。

 おそらく、友継さんか真子さんが来たのだろうと思い、座っていた椅子から立って、二人が入って来るのを待つ。

 俺の返事を聞いて、ドアが開かれ挨拶しようとした俺の口が半開きになって、目の前の光景で静止する。

 なぜなら、そこに立っていたのは友継さんでもなく、真子さんでもない。さらに、病院の人でもなんでもない、俺と同じ訪問者らしき人だったからだ。


「えっと、ここって園田綾さんの病室であっていますよね……?」


 恐る恐る俺に対して病室の確認を取って来た女性は、俺よりも年上に見えるかわいいよりも綺麗が似合うような女性で、その服装は俺と同じ学生服を纏っていた。

 同じ学生服といっても、同じ学校というわけではなく、俺自身彼女が学生であるということ以外に、その制服からはどこの学校の人かというのはわからなかった。


「あ、はい。合ってますよ」

「あの、入っても大丈夫ですか?」

「え、大丈夫だと思いますよ?」

「じゃ、じゃあ……」


 扉のところに立っていたその女性は扉から手を離し、綾さんの眠るベッドの元へと近づいて来て、綾さんのことを改めて確認すると、少しばかり悲しげな表情をする。

 そして、眠る綾さんを確認した後、また俺の方を向く。


「あの、初めまして。私、坂波春と言います」


 肩の下あたりまで伸びた髪が下げた頭にならい、前へと垂れ下がる。


「初めまして、緑川健と言います」

「えっと、その……。緑川君は、その綾ちゃんの彼氏さんとかですか?」


 自己紹介を行なった後にする質問にしてはいささか急とも言える質問を飛ばしてくるが、彼女からすると、もしもそうであれば、自分がこの空間に入ってくることに引け目を感じるのだろう。だから、確認せざるを得なかったというところであろうか。


「違いますよ。説明すると長いですが、僕に取って綾さんは命の恩人なんです」

「そ、そうなんですね。すみません……。綾ちゃんは一人っ子って聞いていたから、こんな年の近そうな男の人ってなったら、そうなのかなっと……」


 確かに、自分の来た病室に知らない誰かがいて、しかもそれが自分の訪れた相手と近そうな年で、それに異性となれば、考えられる選択肢は恋人か兄弟、あとは従兄弟くらいだろう。


「なるほど、それで坂波さんは?」

「私は、綾ちゃんの小学校時代の同級生だったんです。最近、綾ちゃんが事故にあったって言う話を聞いて、それで……」


 自分と綾さんの関係を語りながら、その時のことを思い出しながら、目の前の現実を見てしまっているせいか、坂波さんの目元にはうっすらと涙を浮かばせていた。


「立って話すのもあれですから、座りませんか?」

「そ、そうですね!」


 坂波さんは自分のそばにあった椅子を自分に近づけて座る。

 俺も、ついさっきまで座っていた椅子に座り、眠っている綾さんを挟むような形になって俺と坂波さんは椅子に座り、向き合うこととなる。

 俺の視界からは後ろの雨の様子を見ることはできないが、窓にあたる雨音が先ほどよりも少し大きくなったことで、帰る時刻が遅くなることを確信する。

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