幻想書架

NEON🐟

1冊目『ゴーレムと花』

 その花は今にも枯れそうであった。

 茎は髪の毛のように細く、花弁は向こう側が透けて見えそうなほどに薄かった。一迅の風で折れてしまいそうな薄水色の花は、水蒸気にゆらゆらと身を泳がせている。

 その水蒸気は、武骨な金属の集合体から発されていた。彼はその花を愛した、一人のゴーレムだった。仲間は皆どこかへ行ってしまい、たった一人で彷徨っていたところで、花である彼女と出会ったのだった。

「私、もう死ぬわ」

 7日目の夜。花はゴーレムに静かな声でそう告げた。悲愴のない、とても静かな声である。月の光や星の光でさえ、彼女の声を遮ってしまいそうだった。

「…急に、どうしたの」

 ゴーレムの元から錆びついていた喉が、ざらざらとした機械音交じりに音を発する。

「分かるの。きっと私、今夜にも死ぬわ。だからあなたに、先にお別れを言っておこうと思ったの」

 ゴーレムには「死」がよく分からない。けれど彼女の声があまりに静かで美しいものだから、きっと真剣に聞かなきゃいけない話なのだろうと思った。ゴーレムは花のことをじっと見つめて、それから首を傾げる。

「お別れって、君はどこかへ行くのかい」

「帰るのよ。私が元々いた場所に、帰る。あなたとはもう会えなくなってしまうわ」

「…「帰る」。そうか、君にも家があったんだね。次に会えるのは、いつ?」

 青白い月が冷やした真新しい夜風が、ぴゅうっと音を立てて二人の間を通り抜けた。それはまるで一筋の川のようであった。風はころころと砂を転がしながら、どこか見えない場所へと向かって行く。

 ここはとても寂しい場所だった。周りに木々はほとんどなく、ただセピア色の砂や石が転がるだけの、なだらかな場所でもある。まさしく世界の“果て”なのだ。奈落の門へと向かうような風が、また二人の間を通り抜ける。

「もう、会えないわ。死ぬということは、あなたたちで言うところの、“壊れる”と同じことなの。違うのは、私たちの「死」は直せないということ。もうこうして話すこともできなくなるし、姿だってなくなってしまう」

「…そんな。それは…嫌だよ。こんな場所に、一人は寂しい。君とずっと一緒にいたいよ」

 ゴーレムはピカピカ光る瞳を頼りなさげに点滅させて、花に自分の気持ちを訴えた。けれど花は静かに首を振って、もう決められたことなの、とゆっくり下を向く。

「誰がそんなことを決めたんだい。僕は、そいつを説得してくるよ」

「分からないけど、初めから決まっていたのよ。命は、終わりがあって初めて命と成立するんだもの。名残惜しいけれど、私はもう、今日で精一杯」

「なら…なら、命を捨てればいい。命があるから死んでしまうのなら、命を捨てれば君は死なない。僕が君を…今、考えるから。僕が君を死なない身体にしてあげる。だから、ねえ…死ぬなんて、言わないで」

 花はゴーレムを見て悲しげに微笑んだ。風はさらさらと二人の足元を通り過ぎる。優しく抱きしめるような、ゆらりと絡みつくような、そんな風であった。

「死を、否定しないで。私たちはみんな、死に向かって生きているの。死があるから、私たちは限りある命を懸命に燃やして、誰かの道を照らすのよ。照らし合って、一緒に歩んで。そうして最後は、みんな同じ場所に眠る」

「じゃあ…死なない僕は、どうやって明かりを灯せばいいの?誰と一緒に、眠ればいいの?」

「あなたにも、死はきちんと用意されてるわ。それが他のものより少し長いだけ。あなたも私も、みんな最後は同じ場所で眠るの」

 ゴーレムは困惑して、小さなまんまるの瞳をピカピカさせた。シュー…と小さな音で、肩からベールのような水蒸気を吐き出す。月の光をきらきら反射させ、花はそれを見て少し微笑んだようだった。

「私の死で“命”を知ってね。そして、生きていく“希望”を知ってくれたら嬉しい。私はここからいなくなるけど、あなたの中の私は、明日もきっとそこにいるもの」

「嫌だよ、君がいなくなるのに、どうして…。何だか、怖い。怖いんだ。君のいない明日を、僕はどうやって生きればいいのか分からない。分からなくて怖いんだ。僕も君と一緒に、眠りたいよ…」

 ゴーレムは大きな体を縮めて、花へ必死に訴えた。けれど花は、空から彼らを見下ろす色彩のない月のように、黙ってゴーレムを見つめ返すだけだった。

 ぴゅうっとまた風が吹いて、夜の湿った匂いを連れてくる。気温が下がっているのだ。まるでゴーレムの代わりに涙を流したような風だった。ゴーレムはたまらず俯いた。まるでどんどん自分の世界が縮まっていくような感覚がした。

「それは、大丈夫。あなたの中の私が、きっと明日にも答えを返してくれるわ」

 花のしめやかな声がして、ハッとゴーレムは顔を上げた。その時にはもう、花はぱたりとその花弁を散らしていた。

 それからゴーレムは、朝が来ても夜が来ても、ずっとオイルを零して泣いた。砂や岩を濡らした黒いオイルは、まるであの日の夜のようである。暗くて、心細くて。そしてゴーレムの身体を流れるオイルがわずかになったとき、ゴーレムはふと、音声収集器の内側で花の声を聞いた。

 それは花が開くような静かな声であった。彼女と初めて出会った時、彼女が初めて笑ってくれた時、彼女が少しだけ怒ったとき。彼女と過ごした日々と同じ声で、ゴーレムの心の中の彼女は語りかけてきた。それはゴーレムの記憶領域に保存された、いつかの彼女の言葉であった。思い出、だった。

 彼女はきちんとゴーレムの心の中にいた。そしてその声を聞くたびに、ゴーレムの流すオイルの量が、少しだけ減っていく。彼女の声を聞くたびに、ゴーレムは彼女との思い出を、ずっと忘れたくないと思うようになった。

 ゴーレムの身体がオイル不足で悲鳴を上げた時、ゴーレムは、ずるずると油田へと這っていった。この場所には、どろどろと真っ黒で得体のしれない、油田の川があったのだ。

 このまま放っておけば、きっと彼女と同じ場所で眠れるのだと、思考回路の片隅でゴーレムはそう思っていた。けれど彼女の声を思い出せば思い出すほど、眠ったときに、この声を二度と聞くことができなくなるんじゃないのかと不安になった。だからゴーレムは、自ら“生きる”ことを選択したのだ。だから這ってでも、油田へと向かったのである。

 花は、正しくゴーレムの生きる“希望”となった。もう会えない彼女の思い出を知る、最後のゴーレムとして。ゴーレムは自分の身体が風化して動かなくなるまで———正しく死を迎えるまで、まだもう少し、生きながらえることにしたのだった。

 月はそんなゴーレムを祝福するように、頭上で静かに砂を照らしていた。もしかしたら月こそが、ゴーレムの道を照らす花なのかも知れなかった。ゴーレムはただ一人でそんな妄想して、くすりと静かに微笑んだのだった。




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