落書き帳(言語に関する覚書)
中原恵一
冠詞について
冠詞とは何か 1.定冠詞
面白いもので、ヨーロッパの言語の大本になったラテン語には冠詞がなかったのに、歴史的に比較的後になってから発生した冠詞はヨーロッパ言語の代表的な特徴の一つになった。
そのせいもあるのか、冠詞は名詞を修飾する形容詞や限定詞(myとかyourみたいなもの)のようなものだと思っている人も多い気がする。ここに我々日本人のような冠詞を持たない言語を母語とする人の誤解がある、と私は思う。
冠詞のある言語では、名詞と冠詞は不可分な場合も多い。例をあげよう。
私はその車を買った。
この二つの文において「車」という名詞から「その」を取り去っても文は成立する。
私は車を買った。
少し意味は変わってしまうが、少なくとも文法的に正しいしこうした文は普通に使われている。
しかし英語で同じことをしてしまうと非文になる。
I bought that car.
*I bought car.
つまり下の文はそもそも文として成立しておらず、基本的に普通の会話で使われることはないのである(まあ筆者の知らない特殊な状況で言うことはあるかもしれないが)。そしてこれは、
I bought a car.
という感じで不定冠詞のaを足すと初めて正しい文になる。こうしてみると、ある意味aは名詞の一部のようだ。無理やり日本語で例えるなら、「私は車が好きだ」と言うのを「私は『るま』が好きだ」とか言ったら変だというような感じである。もちろんI bought car.と言ったところで通じはするだろうが、おかしく聞こえることは間違いない。
英語では可算名詞の場合は大体冠詞がついており、避けては通れない習得要素だ。なにせ、冠詞を使いこなすことができないと「昨日は本を読んだ」みたいなとても簡単な文ですら正しく作れないことになってしまう。不定冠詞のaを使えないがために、名詞が入っている文を軒並み全て言い間違ってしまうのだ。
英語には定冠詞(the)と不定冠詞(a)の二種類があるが、言語によっては片方だけだったり、もっと種類が多かったりする。
まず定冠詞、不定冠詞とは何かという話からしていこう。
●定冠詞
theは言及済みの事物・一つしかないもの・決まったことがらなどに対して使われることが多い。
例えば、I bought a car.という文の後ろに文が続いたとして、もしその車について話を続けるならThe car I bought was...のような感じになる。このtheは、その車が以前の発話で既に言及されたことであるためについている。
他にも、the sunとかthe moonのような基本的にそれしかないというものにもtheはつく。つまりthe sunというのは地球の太陽なのでtheがついているのであって、a sunにするとどこの星系の太陽か分からなくなってしまうわけだ。the moonもa moonならどこかの惑星の周囲をぐるぐる回っている「一つの衛星」である。I'm on the train.というのも同じ理屈かもしれない。自分の住んでいる町の電車を指しているわけだ。
英語以外の言語でも(微妙に差異はあるものの)定冠詞は基本的に上記のような使われ方をしていることが多い。
例えば、アラビア語では定冠詞はalというのだが、これは後ろに来る名詞の頭子音がsなどだと促音になり「shams(un) 太陽」にalをつけると「as-shams(u)」になる。ちなみにアラビア語の定冠詞しかなく、そしてこのalは女性名詞・男性名詞によって性屈折することもなければ複数形になることもない。
しかしヨーロッパの多くの言語では、名詞の性や格、数によって冠詞が変化することも多い。名詞の性や数などについてはまた違う機会に説明する。
スペイン語の定冠詞は男女・単複によってel/la/los/lasの四つになる。amigo(友達・男性名詞 = 男の友達)はel amigo、複数形でlos amigosになり、amiga(友達・女性名詞 = 女の友達)であればla amiga、複数形でlas amigasという感じで使い分けなければならない。Los Angelesの前の部分は実は複数冠詞で、The Angelsという意味なわけだ。
さらに面倒なのはドイツ語で男性・中性・女性の三種類の性に加え、主格・属格・与格・対格という四種類の格にあわせて定冠詞も格変化する。複数形の格変化も合わせると、計算上は12個に変化する(格変化した形の発音がバッティングするものもあるので、全てが違う発音になるわけではない)。
der(男性・単数・主格) → der(主) des(属) dem(与) den(対)
die(女性・単数・主格) → die(主) der(属) der(与) die(対)
das(中性・単数・主格) → das(主) des(属) dem(与) das(対)
die(全ての性・複数・主格) → die(主) der(属) den(与) die(対)
der(男性)die(女性)das(中性)というのを聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれないが、これらは全部主格なので、Der Mann ist das Problem. (The man is the problem.)のような文ではOKなのだがder Mannが目的語になった場合は冠詞をdenに変えてden Mannにしないといけなくなる。格とは何ぞや、という方もいらっしゃると思うので、日本人にとって分かりやすく説明すると、日本語では目的語の名詞に「を」をつけるのと同じような感じで、ドイツ語では冠詞が対格(=目的格)に変わるのである。der Mannは「その男が」、den Mannは「その男を」という感じである。ざっくりいうと主格は「が」、属格は「の」、与格は「に」、対格は「を」である。(補足 ドイツ語では冠詞や形容詞は格変化するが名詞自体は格変化によって発音が変わらないことが多い。例えば男性弱変化名詞の場合、主格以外は全て後ろに-nがつくとか、強変化名詞なら属格だけに-sがつくぐらいな感じである)
そしてドイツ語にも複数定冠詞はあるのだが、性別を問わずすべてdieになる。die Männerは「その男たちが」になるわけだ。他のヨーロッパの言語でも定冠詞に複数形があることは多く、そう考えると英語はthe manでもthe menでもtheのままなのでちょっと珍しいのかもしれない。英語には形容詞の複数形もなく、the poorなどで「貧しい人たち」という意味になったりするのも本当はtheもpoorも複数形だったのが消失したために単数形のように見える形になってしまったからだ。
スウェーデン語やノルウェー語では男性・女性名詞の違いがなくなりつつあり、男性(共性などとも呼ばれる)・中性の二種類の性に合わせて二つの定冠詞があるのだが、名詞の後ろにつく。例えばhus(ノルウェー語・家・中性)ならhuset (the house)、bil(車・男性)ならbilen(the car)という感じで、-etと-enがつく。これだと前につかないので「冠」詞でもないが、実は名詞の前にもってくると不定冠詞になるという面白い代物である。
huset (the house) ⇔ et hus (a house)
bilen (the car) ⇔ en bil (a car)
そして、定冠詞の複数形もやはり名詞の末尾について示される。
husene (the houses) ⇔ hus (houses 単複同形)
bilene (the cars) ⇔ biler (cars)
ポルトガル語にはスペイン語と同じく四種類の定冠詞があるが、これらは前置詞と結合して縮合形というのを作る。
例えばo carro(the car)のoは男性・単数の定冠詞なのだが、de(英語でいうof、「~の」という意味)とくっついてdoになる。例えばBanco do Brasilというのは真ん中の部分はde oだったのが、doになったわけである。スペイン語でもde+elのdelと言う縮合形があるが、ポルトガル語の場合はem(英語でいうin)、a(to)、por(for)といった前置詞が四種類全ての定冠詞とくっついた縮合形をもっている。
a + o(男性・単数・定冠詞) → ao
em + a(女性・単数・定冠詞) → na
por + os(男性・複数・定冠詞) → pelos
ドイツ語にも前置詞のanと定冠詞demがくっついてamのような融合形になるが、似たようなものである。
定冠詞の使い方には言語によって微妙な差異がある。
例えば英語ではgo to schoolとか言うときにtheが使われないが、スペイン語の場合だとir a la escuelaという感じで定冠詞のlaが入る。しかし「家で」というときはスペイン語ではen casaと言い定冠詞は入らない。
そして、「私は猫が好きだ」は英語ではI love cats.だが、フランス語ではJ'aime les chats.になって複数定冠詞がつく。スペイン語でもMe gustan los gatos.になるのでcatsではなくthe catsである。全般的な事柄について話すときに、フランス語やスペイン語、イタリア語、ポルトガル語のような言語ではどうやら名詞に定冠詞をつけて表現するようである。
英語でも、図鑑の書き出しなんかはThe cat is...(ネコとは、)みたいな感じで定冠詞+単数形で書くことはある。しかし会話ではCats are...と言うのが一般的であろう。
そして、英語では限定詞(簡単に言うとmyとかyourなど)がつくとtheはつかないが、ノルウェー語やスウェーデン語、イタリア語、アラビア語などでは定冠詞と限定詞の両方を名詞につける場合もある。言語によってそういう形がデフォルトだったり、限定詞だけのパターンでも使えるという場合がある。
例えばノルウェー語では先ほどのbilen (the car)はbilen minという感じでmyにあたるものを後ろにつけることもできるし、min bil(my car)という英語とあまり変わらない形にすることもできる。
補足:さっき調べてみたが、アイルランド・ゲール語も定冠詞しかないようである。そして英語のaとanがより複雑になったような、後続する名詞の頭子音の種類によって変化するルールがあるようだ。それに加えて男・女二つの性、複数形、主格・与格・属格の三種類の格変化もある。うひー。
例えば、cat(猫・男性・主格)はthe catになるとan cat(英語じゃないよ、念のため)になり、òran(歌・男性・主格)のような母音で始まる名詞はan t-òranになって名詞の前にtがつく。
そしてcaileag(少女・女性・主格)はa' caileagという感じでanがa'にになり、abhainn(川・女性・主格)のように母音で始まる女性名詞にanがつく場合はそのままでan abhainnになるのだが、このa'というのはさっきのcatのような一部の男性名詞の与格・属格定冠詞と同じ形なのでa' catといったらan cat (the cat)の与格ないし属格になるのだ。活用形がバッティングしているので、a'を見ただけでは男性名詞なのか女性名詞なのか分からない。
ドイツ語のderも男性・単数・定冠詞の主格と女性・単数・定冠詞dieの属格・与格どちらも同じ発音になるので、我々非母語話者から見るとder Musik(die Musikの属格、与格形)などといった単語を見ると男性名詞なのか女性名詞なのか一見分かりづらい。
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