聖者の金杯 〜魔術師の慚愧、魔王の安息〜
津田享
プロローグ
「かみさま」
人間の死体と魔物の残骸。月明かりだけが頼りの、澄みきった夜には不釣り合いな光景だった。
その子どもは無造作に生えた木々の隙間に転がっていた。
泥水と血糊が染み込んだ、美しく輝いていたであろう金髪と、虚ろな青い瞳。土気色の表皮は冷え切っていて、柔らかく丸っこい子どもの頬は強張っていた。
人は息絶える瞬間、何を想うだろうか。
理不尽に命が奪われることに怒り狂うのか、この世の苦しみから逃げ出せることに安堵するのか、人生の後悔をひとつずつ並べるのか、死ぬ瞬間までは分からない。最期の瞬間にようやく分かるのだ。
子どもには怒りも安堵も後悔もなかった。ただ生きたい、死にたくない。生への執着が子どもの身体を動かしていた。
肉を漁ろうとカラスが降り立とうとした時、その子どもは小さく動いた。しかし這い蹲ってまでごく僅かに移動した途端、鼻と口から泡だった血が零れていった。両脚と片腕は千切れており、腹は破れている。ほとんど死にかけの子どもは、なおしぶとく生にしがみついていた。
あと数分歩けば辿り着く距離、そこに辿り着きさえすれば、小さな手のひらのたったひとすくいでも口に含めば。そう何度言い聞かせようとも身体はそれ以上動かない。
「かみさま」
血とともに絞り出した声は濁っていて、喉からは醜い水音がした。
生を渇望するほどに、身体は少しずつ動かなくなっていく。
痛みも皮膚感覚も失って、このまま目蓋を下ろして受け入れる死は、惨たらしい様に反して存外静かで穏やかに違いなかった。
それでも死への恐怖が捨てられず、その子どもはようやく子どもらしく声をあげた。
「たすけて、かみさま、たすけて、たすけて」
神でなくてもいい、誰か救ってくれ、救ってくれるのなら悪魔でも構わない。そんな思いで子どもは助けを乞い願った。
子どもの目からはもはや涙は出なかったが、それはまるで泣きじゃくるようだった。それが徐々に弱まり夜の森の静寂に溶け込もうとした時、唐突に子どもの視界は明るくなった。子どもが息絶えるのを待ち構えていた獣たちが、一切に散っていった。
目の前に光が集束し、何かを形作っている。目がないはずの光に見られている。
子どもは何が起こっているのかも分からなかったし、霞んだ視界の中では光が何を形作るのかも見えなかった。感覚のないはずの皮膚が温もりに包まれ、不思議と恐怖は消えていた。
子どもが次に目を開いたのは、柔らかな光が射す早朝だった。額を撫でる風は柔らかく、痛みも苦しみも何もない。
「天国ってこういうところか……」
そう呟いてから、子どもは勢い良く起き上がった。驚愕の表情で周りを見渡すが、そこはやはり無造作に生えた木々の狭い隙間だった。
固まった血が顔と髪にこびり付いたままだが、子どもはそれを気に留めはしなかった。
「生きてる……」
心臓は興奮で激しく脈打ち、冷え切っていた指先にも熱を巡らせる。存分に生を噛み締めて、そうしてふと意識を失う前のことを思い出した。
なくなったはずの腕と脚はくっ付いていて、自分の意思で自由に動かせる。しかも腹の傷も綺麗に塞がっている。
はたしてあの光は一体なんだったのだろうか。神が与えた奇跡だろうか。
子どもが周りを見渡しても、あるのはやはり1人の人間の生死など気にも留めない木々ばかりだった。
子どもはもう一度その場所へ向かうことにした。奇跡が起こるとすれば、這ってでも行こうとしたその場所がもたらした恩恵としか思えなかった。
そしてそこにたどり着いた時、子どもは膝をついた。
「神様、僕は助かりたかった。死にたくなかった……」
子どもは奇跡の抜け殻の前で誓った。必ず、与えられた命に報いてみせると。
1人の子どもが死から逃れたその日、人類は奇跡を失った。
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