第5話 始まる逃亡

「おう、酒買ってこいや」


 娘が帰宅して第一声がそれか。

 そういや、おかえりって言われた事あったっけ。

虚しさを通り越してアホらしくなる。


「未成年だから売ってもらえないよ」


「口答えすんな!なんでもいいから酒買って来いって言ってんだよ!」


「だから法律上、売ってもらえないんだって……」


「っだとコラァ!」


 こめかみのあたりを殴られた。

激痛が骨を伝い全身に響く。

足が痙攣して立っていられず、亀の様にうずくまった。


「誰が!てめぇの!学費を!払ってっと!思ってんだオラァ!」


 腕に、腹に、足に、重い蹴りが入る。

 その痛みは、泣きたくも無いのに勝手に涙を流させる。

 振り込まれた二十万円を渡せば許してくれるだろうか。

金輪際、殴らないと誓ってくれるだろうか。


「毎月毎月、払いたくもねぇ金払わされて腹立つんだよクソガキが!」


「痛いっ……やめて……」


「るっせぇ!酒持ってこいや!」


 もう駄目だ。

 十四年、長い間耐えた。

耐えた先に待ってたのは、死にたいという感情だった。

 家でも学校でも罵倒され、殴られる。

なんの身に覚えも無い事で。

 生きる事の意味が分からない。


 無我夢中で父の蹴りから脱出し、自室に入って鍵を掛ける。

 恐怖か自棄か、何かの作用で痛みは思ったほど無かった。

ドアを叩かれる度にビクッとしながら布団に入り、フォースブックを開いた。

 震える手で罰天バッテンマンにダイレクトメールを送る。


『死にたい。助けて』


 会った事も無い人に助けを求めていた。

傍にいる訳でも無い、来てくれる訳でも無いのに。

 それでもいい。

神でも悪魔でもいい。

誰でもいいから助けて欲しかった。


 すぐに通知が来た。


『何があったかは分からないが、すぐそこを出るんだ。東京の江戸川区にある葛西という駅で待ってる』


 もう相手がどんな人でも、どんな目的でもいい。

一刻も早くこの家を出たい。

 準備に時間は掛からなかった。

必要な物や大切な物はこの家に無い。

 ただ、一冊の本をバッグに入れ、制服のまま家を飛び出した。



 _________________________




 気が付くと私は電車に揺られていた。

 乗客がちらちらと私を見ている。

 時間は午後七時。

中学生が電車に乗っていても珍しくない時間帯なのに。

 と思ったが、電車の窓に映る顔を見て理由が分かった。

スカーフが解けかけ、口の端から血が出ていた。

髪もぼさぼさで、まるで暴漢に襲われた後の様になっている。

 身だしなみを整え、ポケットティッシュで口元を拭った。


 落ち着くと急に身体が痛みだした。


「コブになってる……」


 こめかみのあたりが腫れていた。

 太ももが内出血してるあたり、他の箇所も酷い事になってそうだ。

 今は冷やせる物が何も無い。

次の乗り換えで冷たい飲み物でも買っておこう。



 東京というからにはさぞ都会だろうと思っていたが、葛西という街はそれほどゴミゴミしていない。

駅を降りると大きな道路が目の前にあった。

 そういえば詳しい待ち合わせ場所とか相談してなかったような気がする。


『着きました。どこに行けばいいですか?』


 やはり返事はすぐに来る。


『大きな陸橋が見えるかな?そこの上にいるよ』


 大きな道路を横切るその陸橋はすぐに見つかった。

なんせ私の真上にあったのだから。


 やっぱり止めようかな。

緊張で手汗が酷い。

 いや、今更引き返す訳にもいかない。

神でも悪魔でもいいって思ったじゃないか。


 階段を上ると、そこはとても陸橋とは思えない場所だった。

花壇があり、ベンチがある。

 そのベンチに座る、一人の人影を見つけた。


「あの、待ち合わせの方ですか……?」


「初めまして。確認するけど、君のユーザー名は?」


罪鬼つみきです。罰天マンさんですか?」


「そうだよ。よかった。家を出れたんだね」


 暗くて顔が見えない。

シルエットすら朧気だ。

 その男は立ち上がり、自分のお尻のあたりをぱたぱたと叩いた。

どうやらそのベンチは、あまり綺麗ではなかったらしい。


「向こうに車を止めてある。来るかい?」


 信用できるかどうかなんて分からない。

けど今はこの人に頼るしかないんだ。


「行きます……連れてってください」


「よし、とりあえず家に行こう。制服で外を連れ回すのも危ないからね」


「家ってどこなんですか?」


「それがちょっと遠くてね。まぁ寝てる間に着くさ」


 やはり限りなく不安だ。

 このまま某国に売り飛ばされたらどうしよう。

 なんせ見た目はどうあれ、日本人の女子中学生だ。

それなりの値段にはなるだろう。

そして私は兵隊達の慰み者として半生を外国で過ごすのだ。


 そんな事を考えてる間にコインパーキングに着いた。

 車は普通の軽だ。

黒塗りの高級車とか妙に車内が広いバンじゃない。

少し安心した。


「好きな所に乗ってくれ。寝やすい後部座席の方がいいかな?」


「はい。ありがとうございます」


 車はコインパーキングを出て、さっきの大きい道路に入っていった。

 夜のドライブは初めてだ。

 私の家には車が無い。

母には不倫相手の車があるし、父は常時酔っているから車に乗れない。

 なので車に乗ったのは、遠足のバス以来だ。


「あ、お腹空いてる?」


 そういえばサンドウィッチを食べて以来、何も口にしていない。


「空いてる……かもです」


「じゃ何か食べよう。今日はドライブスルーにしとこうか」


 男はハンバーガー店のドライブスルーに入り、メニューを見ている。

ファストフードなんて自分で買って食べた事が無いから何を頼んでいいか分からない。


「何がいい?」


「何か、オススメがあればそれをお願いします」


「オススメね、了解」


 商品を受け取り、車はまた大きい道路へ。


「これと、これね。あとポテトと……お茶とコーラどっちがいい?」


「ありがとうございます。コーラでお願いします」


「なんか固いなー。無理かもしれないけどリラックスしてくれよ」


 男は笑いながらドリンクを飲んだ。

 リラックスできる状況ではないのだが、ハンバーガーの匂いで空腹感が増し、お腹が鳴る。

どこに連れて行かれてもいいように、お腹だけはいっぱいにしておこう。


「すみません、こういうの慣れてなくて」


「こういうのって男とドライブ?」


「はい。男友達もいなかったので男の人と喋るのも緊張します」


「そっか。まぁ徐々に慣れてくれればいいよ。話したい事もあるし」


「話したい事?」


「これからの事さ。家出をした君はこれから何をしたいのか、とかね」


 私は家出をして何がしたかったのだろう。

 ただ単にあの家に居たくなくて、学校に通いたくなくて逃げ出した。

あの街から逃げて良かったのだろうか。


 窓の外には見慣れない夜の街があり、外国にいるような感覚に襲われた。

 ハンバーガーを食べ終わると、眠気がどっと押し寄せる。

見知らぬ男の車の中で、私はぐっすりと眠ってしまった。

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