第三話 the world is hers④ ~試合開始~

 クリスの腹時計が鳴ったのは、座敷牢には似つかわしくない芳醇な香りが鼻についたせいだった。嫌味なほどに漂うコーヒーの匂いは否が応でも彼女に空腹を思い出させた。


「お待たせしましたクリス様、最高級スペシャルデラックススーパーウマウマ豆を使用した最高級コーヒーです」


 銀のトレーに乗せられた一杯のコーヒー。湯気を漂わせる白磁のティーカップはこの場に似つかわしくないものだった。


「頭悪そうな名前」

「最高級なのは豆だけではありません。この豆のために作られた専用のロースターで浅煎りにし、微粉の残らない手入れの行き届いたミルで中細挽きにさせて頂きました。ドリッパーは最新式のゴールドメッシュフィルターにて抽出。また水はノーザンピークの雪解け水を使用しております」


 鉄格子にあつらえられた小さな扉を開けて、メイドはトレーごとクリスに差し出す。カップをつかみ匂いを嗅げば、また腹の虫が鳴りそうになる。


「毒は?」

「今更ですか?」

「そう、じゃあ頂くわ」


 クリスはそれを一口すする。メイドの口角が思わず上がる。そう、この一杯には自信があった。


「どうですか一流の味は。雑味は無く澄んだ清流の如き至高のコーヒー。豆本来の旨味を最大限引き出し、苦味と酸味の調和はまさしくオーケスト」


 自分でも最高の一杯が出来たとメイドは自負していた。ありとあらゆる知識と経験を総動員し抽出した最高の一杯。おそらくアスカですら味わったことのない人生最高の一杯。


 クリスが唇からカップを離す。その顔はまるで天国にいるかのように恍惚とし、まさしく至福のひと時を味わって――。




「苦っ」



 などいなかった。


「え」


 思わず固まるメイド。そのあまりにも単純な一言が、一流の自信を完膚なきまでに叩きのめす。


「これ砂糖入ってないじゃないの。私こんなの苦くて飲めないわよ」

「こんなの? 苦い、えっ、こんなの?」




 ――何を言っているのだこの女は。




 至高の、究極の、最高の一杯を前にして、出てきた言葉は苦いの二文字。


「だからあんたは三流なのよ。私がお茶に砂糖入れるなんて昨日わかってた事でしょ? あーあ本当に気が利かない」


 だがクリスは悪びれもしない。コーヒー、苦い、砂糖がいる。彼女の中ではそれだけの話。


「そんな、最高のコーヒーなのに、こんなの……」

「教えてあげるわ三流メイド。超一流ってのはね」


 クリスは思う。


 思い返せば生まれて初めて飲んだコーヒーにも彼女が砂糖を入れてくれていた事に。年齢も変わらない彼女は、自分の好みをあんな小さな頃から把握していてくれたのだと。


 悪いことをしてしまった。辛くあたってしまった事に後悔する。今度会ったら謝ろう。


 都合のいい事にその機会は。


「主人の事を……自分以上に知っているのよ」

「ちぇすとおおおおおーーーーーーーーーーーーーーっ!」


 向こうから、ドロップキックでやってきた。


 メリルの両足がメイドの後頭部を捉えた。そのまま崩れ落ちるメイド、しゅたっと三点着地するメリル。そのままメイドのポケットに探りをいれて鍵を探せば、手際よく扉を開けて。


「お待たせしましたクリス様! さぁ第一試合に行きますよ」


 頼もしい台詞を放つ。なぜか後ろにハリーとユースがいることが気になったクリスだが、今はそれどころではない。


「ありがとうメリル、でも今は」


 彼女はもう一度コーヒーをすする。やはり苦い。だから今すぐ。




「これ砂糖入れてもらえる?」



 とびっきり甘いやつが、二つほど欲しかった。





 何とか試合会場に到着したクリス達。試合会場にも少し変化があることにクリスは気づいた。


 豪華になった。


 装飾は過度に施され、横断幕なども刺繍入りの華やかなものに変えられていた。


 その分、文明の水準が下げられた。スピーカーらしきものは姿形も泣くなり、代わりにラッパのような真鍮製の筒が会場中に設置されていた。


 変わらない物があるとすれば、初めからあった石のステージ。闘技場らしく、四角く簡素な石のそれは、相変わらず鎮座している。


「クリス様、頑張ってくださいね!」


 ステージに続く階段を一歩上れば、メリルが声援を飛ばしてくれる。振り返らずにクリスは答える。


「ねぇメリル……その、ごめんなさい。強くあたりすぎたわ」


 その表情を見せたくないのは元主人の強がりだと、メリルはわかっていた。


「まったくですよ……あ、それとパリッピーさんとユースさんも協力してくれたんですから、あとでお礼言って下さいね」

「ええ、後でね」


 メリルは思わず拳を握った。後で。その言葉のハードルの高さを彼女は痛いほど理解していた。


「じゃあ、そのためにはこれに勝たないといけませんね」

「ええ、そうね」


 クリスはわかっていた、メイドの指摘はもっともだったと。


 ありとあらゆる面で自分が、アスカ・P・ヒューマンに劣っているという事実に。勝ち目なんてどこにもない事ぐらい理解している。


 だから。


「勝ってくるわ」


 精一杯の強がりを口にして、その階段を一歩登った。





『それでは、悪役令嬢バトルロイヤル第一試合! 元祖悪役令嬢クリスティア・R・ダイヤモンド対完璧悪役令嬢アスカ・P・ヒューマンの対決をっ!』


 能天気なハリーの声に、思わず片耳を塞ぐクリス。


『始めるぜええええええええええっ!』


 会場が一気に沸く。まるでこれが初めてでもあるかのように、鼻息を荒くしながら。


「やぁクリスティア、どうやらうちのメイドが失礼な事をしたらしいね。ま、彼女なりの歓迎だと思って水に流してくれないかな」


 ステージに上っていたアスカが挨拶をする。悪びれもしない所を見るに、指示はしなかったが知っていたのだろう。


 何故? 完璧だから。


 けれどクリスは言葉にしない。


「ええどうも、苦いコーヒーご馳走様」

『それでは、対戦を決めるのは……ガチャだあああああああああああああああっ!』

「で、あんたはいくら使うわけ? ショーコが一億だったからそれ以上は出すんでしょうけど」


 大金を積まれた時点でクリスの負けは明らかだった。また運よく自称精霊が助けてくれるとは思えない。


 それを理解していたアスカは。




「いいや?」




 妖しく笑った。そんな気などさらさら無かった。


「ハリー、私もそんな玩具は使わない。試合方法は君らが勝手に決めてくれ」

『……いいんですか?』

「もちろんだ。どうせ私が勝つからね」


 完膚なきまでに、クリスティア・R・ダイヤモンドを叩きのめす。それが、それこそがアスカの唯一の望みだった。


「そう、じゃあパリッピーよろしく」


 面食らったハリーだったが、その巨大なガチャを回してカプセルの中身を改める。


 いやガチャは残っているのかよと口に出そうになるクリスだったが、ここは堪える。


『では、えーっと……『素手喧嘩』って出ましたね』


 ステゴロ。その響きに思わずクリスは絶句する。言葉の意味を理解しているだけに、思わず頭が痛くなる。


「つまり……殴り合えって?」

『まぁそうっすね』


 気の無いハリーの声とは裏腹に、会場がさらに沸いた。どうやらここの観客はそういうものがお好みらしい。


「んじゃよろしく」

「そうだね」


 形式ばった握手を交わす。ため息をついたクリスに、肩をすくめるアスカ。


『それでは第一試合……開始ッ!』


 そしてゴングが、鳴った。




 ――瞬間、クリスの顔面を鋭い正拳尽きが襲った。対処、出来るはずもない。いくら悪役だと担がれようが、素手で殴りあった経験などないのだ。


 だから、吹き飛ぶ。あっけなく鼻血を垂らしながら。


「どうしたんだい、こっちはやっと」


 アスカは違った、彼女は完璧だった。


 古今東西ありとあらゆる格闘技を習得していた。並みの軍人どころか手馴れの将校ですら彼女に敵いはしないだろう。


 アスカは嗤う。心臓の鼓動が早くなり、その心が歓喜で震える。


 ――ああ、これでやっと。


「君を殴れて、喜んでるっていうのにさ……!」


 この女に復讐が出来る、と。

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