第88話 鰹のタタキ(1)

 収穫祭が終わり、屋台や街のあちこちに広げられていた傘はほとんどが姿を消していて、少しずつ平穏な街の雰囲気を取り戻していた。

 マルゲリットの街はこれから秋が深まり冬へと向かう。収穫祭を終えたといえど、それは冬小麦の話であって、豆を植えた畑や蕎麦などはまだこれから収穫を迎える。だから、収穫祭が終わったいまも、朝一つの鐘が鳴れば農民たちは畑へと繰り出していく。

 そして、収穫祭を終えてマルゲリットで商品を仕入れた商人たちも、違う街で開かれる収穫祭に向けて朝早くから出発する。


「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」


 天馬亭の主人、ウーゴがそのような商人の出発を見送り、頭を下げる。

 馬車がガラガラと音を立てて大門に向かって走り出すと、ウーゴはそれを見送って溜息を吐いた。


 馬車の姿が大門の中に入るのを確認すると、ウーゴは宿の中で宿泊者名簿を調べる。

 既に収穫祭を目的に天馬亭を使っていたほとんどの商人達が街を出ていて、残りは三組程度になっていた。

 彼らは自分たちの本拠地となる街から多くの商材を買い集め、収穫祭を迎えたマルゲリットで商品を売りさばく。そして収穫祭が終わるとマルゲリットの商材を仕入れて帰り、本拠地で商品を売る。

 中にはいくつかの街を転々としながら商材を売り歩く行商人もいるが、そのような本拠地の無い商人はあまり裕福でもないので高級宿である天馬亭に泊まることは少ない。


「そろそろいいだろう……」


 ウーゴは連泊の宿泊客が減ってきたのでひと段落ついたと判断したようだ。


 考えてみると、ウーゴは二週間近く朝めし屋を訪れていない。それは、二週間近く肉料理ばかり食べてきたということで、そろそろ海の魚を食べたいと思ってしまう時期であることを表している。早速でかけようと厨房を覗いてみると、連泊中の客はまだ寝ているので注文などは入っておらず、とても静かだった。

 だが、そこでぼんやりと考え事をしているように佇むセリオの姿がウーゴの目に入る。

 二週間ほど前にウーゴと朝めし屋に行ってからというもの、セリオはたまに時間ができるとこのようにぼんやりとしていることが多い。

 そして、その原因は朝めし屋のシャルという少女への恋心にあることもウーゴは気づいていた。


「ふむ……」


 ウーゴは小さく呟くと、腕を組んでセリオの姿を温かい視線で見つめる。

 恋というのは誰もが一度は経験する。そういう気持ちになることが恋だと知り、思い悩み、葛藤する。そしてそれは本人が解決しなければどうにもならないものである。

 忙しい時はシャルのことなど考える暇もなく、セリオもしっかりと働いてくれているのでウーゴが文句を言うことはない。ただ、父として陰ながら応援するのみだ。そして、今日はセリオの休みでもないので、ウーゴが連れ出す理由もない。


「出発予定があったお客さんは予定どおり出発したし、食堂も落ち着いているようだから、少し用事を済ませてくる」

「なるべく早く帰ってくるんだよ」


 ウーゴは厨房にいる料理人やセリオ、受付をしている妻のロラに声を掛ける。

 少し不機嫌な顔をしたロラの声を背に、ウーゴは朝めし屋へと向かった。








 天馬亭のある中央通りから裏道を抜けてしばらく歩き進むと、東通りへと出る。

 そこから少し居住区に向かって歩いたところの丁字路を曲がれば朝めし屋だ。


 だが、ウーゴは今回は早く来すぎたのであろう。いつも店の前を掃除するシャルの姿はまだ見えない。

 逆に、収穫祭が終わったといえ、まだ酒が足りない者が多いのかいろんなもので店の前が汚されてしまっている。


「こりゃ酷いな……」


 当然、匂いもすごい。

 ウーゴは鼻を摘むと、店の前から離れた路地に戻る。

 この路地は朝からパン屋などが営業を始めていて、清掃もされているので朝めし屋の前のように汚れてはいない。


 ウーゴは通りに並ぶ店の中を覗いたりしながら時間を潰すと、もうすぐ朝二つの鐘がなるだろうという頃合いになって朝めし屋の前に戻った。

 すると、店の前の路地はどこよりも綺麗になっている。店の壁についていた立ち小便の跡もなくなり、匂いさえも消え失せていた。

 そして、店には既に数名の客が並んでいて、クリスが店を開くのを待ち構えている。


「いかんいかん……」


 ウーゴは急いで列の最後尾に並ぶ。カウンター席は八席だが、ウーゴはその八人目に並ぶことができた。


 ウーゴは首を捻りながら店の周りを再確認し、どうすればこんな短時間で店の前を綺麗に清掃することができるのだろうと考える。

 水で洗い流しても、流す場所がない。焼いたら熱気も残るだろうし、地面や壁が焦げ、燃えカスが残るはずだ。結局、ウーゴにはその答えが考えつかなかった。


「クォーンカーン……クォーンカーン……」


 うんうんとウーゴが考えているうちに、朝二つの鐘が街に鳴り響く。


「ガララッ」


 朝めし屋の引き戸が開き、クリスがいつものように暖簾を掛け、一人ずつ客を案内する。


「あら、ウーゴさんおひさしぶりです。今日はお一人ですよね?」

「そうだな、二週間ぶりくらいか……収穫祭が終わって宿もだいぶ落ち着いたからね」


 そんな会話をしながら店の中に案内されると、ウーゴは一番端にある席に座った。初めてきた時に座った場所である。

 シャルが奥に座った客から順におしぼりを手渡し始めると、外で待つ客と話をしたクリスが戻ってくる。

 ウーゴが座った席の横がカウンターや厨房に続く通路になっているので、声をかけやすいし、かけられやすい。


 クリスはカウンター越しにお茶を出していくと、いつものように料理メニューの説明を始める。


「本日はお越しくださいましてありがとうございます。当店では白いごはんと汁物に、主菜を一品選んでいただくことになっています。今日の『牛朝食』は『牛肉のニンニク醤油焼き』、『豚朝食』は『生姜焼き』、『鶏朝食』は『モモ肉のニンニク焼き』、『魚朝食』は『鰹のタタキ』です。

『卵朝食』は『しらす入り卵焼き』、『野菜朝食』は『巾着納豆』です」


 残念ながら、クリス特製のパン朝食は中止になったようだ。

 そのかわり、銀莵亭にふわりと柔らかいパンのレシピを提供している。


「ウーゴさん……は『魚朝食』よね?」

「もちろんだ。ところで『鰹のタタキ』というのはどんな料理なんだ?」


 ウーゴが海辺の街――ダズール出身であることを知っているクリスは、注文を聞くまでも無く魚朝食だろうと思っているのだが念の為に確認した。

 余程のことがない限り、開店前から並んでいる客は魚朝食を選ぶ。魚朝食は数量限定だから仕方がない。


「カウンター席、全員魚でお願いしまーす」

「あいよっ」


 クリスがいつものように注文を通し、シュウが返事する。

 この掛け合いはいつもと変わらない。


「そうね……説明は難しいわ。生の『鰹』の表面を炙って、薄く削いだ身に薬味をつけて食べる料理って感じね。炙っただけだから、中は生のままなの」

「生かぁ……」


 日本の場合、鰹は春から黒潮に乗って親潮にあたるまで北上し、秋になって南下するという季節的回遊魚である。そして、ウーゴが生まれ育ったダズールの街は北にあり、軍港と沿岸漁業が中心なので鰹は見たことがない魚であった。

 その見たことがない魚が生で出てくるとなると、ウーゴも少し気になってくる。

 両肘をカウンターにつき、両手で包むように顎をのせた姿勢でウーゴはどんな料理なのだろうかと想像する。

 ダズールにある「跳ねる銀鯱亭」で下積みをした頃、ウーゴは魚料理も経験している。だが、生の魚をそのまま使うのは魚と野菜を小さく切ってドレッシングで和える、地球で言うサルビコンに似たサラダぐらいである。他は焼く、煮る、揚げるという形で火が入るか、酢やオリーブオイルでマリネにしたものになっていた。


 そこで、ウーゴはこの店に来て食べた料理から想像できるよう、思い出してみる。

 ウーゴがこれまでに食べたのは「鯵のなめろう」と「秋刀魚の塩焼き」、「イワシの梅煮」だ。「鯵のなめろう」は生だが、叩いて薬味も混ぜ込まれていたので原型を止めていなかった。


 結局、ウーゴは想像することができないと悟り、カウンターから肘を上げて姿勢を正す。

 そこに、シャルが漬物を持ってやってきた。


「おまたせしましたなの。今日のお漬物は、べったら漬けと『白菜』の浅漬け、『胡瓜』のぬか漬けなのっ」

「おお、ありがとう」

「ごゆっくりどうぞなのっ」


 にこりと笑顔を見せてシャルは厨房の中へ戻っていく。


 その後姿を見たウーゴの目にはシャルの幼さが目立つ。そして、痩身でまだ一〇歳くらいのこの少女には、恋という感情は理解できないだろうと思う。

 大人の視線で見ると、シャルのような少女が持つ「好き」という感情が持つ意味は「好きな食べ物」や「好きな色」といった複数の選択肢から選ぶための理由付けに近い。しかし、恋は「自分のものにしたい」と思う強い意思が潜在する。

 ウーゴはシャルの口調や見た目から、まだそこまでの強い感情を持つほど精神的に成長していないだろうと推測した。


「シャルをじっと見つめて……どうしたの?」


 突然、ウーゴの背後からクリスが声をかけた。

 ウーゴはビクリと背筋を小さく震わせると、斜め後方にいるクリスを見上げる。


「いや、なんでもない」

「そう? だったらいいんだけど……」


 クリスは怪訝な顔でじとりとウーゴを見つめる。明らかに何かを疑うかのような冷たい視線だ。

 そして、ウーゴはその視線に含まれる不穏な気配を感じ、その意味を悟る。


「いや、オレには娘もいるしそんな趣味はないぞ?」

「ふーん」


 クリスが更にじとりとウーゴを見つめると、ウーゴも観念したのか諦めたように項垂れる。


「ちょっと耳、貸してくれるか?」


 クリスはその小さく形のいい左耳をウーゴが話しやすい位置になるよう小さく屈む。


「ちゃんと返してくださいね」


 クリスはボケたつもりで小さく呟くのだが、ウーゴは困ったように眉を八の字にしている。

 お笑いの聖地であれば通じるネタではあるが、マルゲリットではこのような返事は理解されるほど笑いの文化が発達していない。

 ちなみにこの場合、「利息に耳くそ入れとくわ」とボケ返すという高等テクニックが存在する。


「それで、どうしたの?」


 あまりに動きがないのでクリスも少し焦れる。中腰は疲れるのだ。

 そのクリスの言葉にウーゴは慌てて手を口元に翳すと、クリスの耳元で囁くように事情を説明する。


「いや、先日連れてきた息子がシャルちゃんに惚れたみたいなんだよ。どうしたものかと思ってな」


 話を聞いたクリスの瞳孔が一瞬大きく開くと、その瞼がすっと落ち、半眼に変わる。


「シャルにはまだ早いわ……」


 人間の脳の成長過程では一〇歳の壁というのがあると言われている。

 見る、触る、聞く、嗅ぐ、味わうといった五感で判るものは理解できるが、この壁を越えなければ抽象的なものや概念的なもの――距離感や時間などが理解できないというものだ。


 そして、シャルはこの壁をまだ越えていないとクリスは感じていたのである。

 恋愛感情というのも目に見えないものであるし、異性というものを意識したこともないだろう。

 セリオの年齢ならそろそろ初恋をしてもおかしくはないが、シャルにはまだ早いとクリスは思ったのだ。


「だよな……まあ、見守るしかないわな」


 ウーゴはぽつりと呟くと、シャルが置いていったべったら漬けを指で摘んで口に入れた。

 大根と麹の香りが口の中に広がり、パリポリと音を立てて噛むと昆布の旨味と砂糖や味醂の甘みが広がる。


「そうね、まだ幼いもの……」


 厨房の中で味噌汁を装っているシャルを見てクリスも呟く。

 クリス自身もまだ一七歳であり、恋愛経験も豊かではない。だが、それを自認しているクリスから見ても、シャルはまだまだ幼い。


「あがったよ」


 厨房からシュウの声が上がる。事前にある程度準備していても、八人前を一気に作るとなると時間がかかってしまっていた。


「はーい」


 クリスは慌ててカウンターと厨房の間に並べられる料理を持って、奥の席から順に出していく。

 この作業はシャルにはまだ危なっかしくて頼めないようで、手前の四席はシュウがな順に出していく。完全に並んだ順に出そうとするとクリスと動線が重なるから仕方がない。


「お待たせしました。『魚朝食』です」


 シュウがことりと小さな音を立て、ウーゴの前に今日の魚朝食を差し出す。


 いつものように、左手前には炊きたてで艶々と輝き、湯気を立てる白いごはん。右手前には味噌汁椀があって、褐色の味噌汁の上にたっぷりのニラと表面が白く固まった卵が浮かんでいる。そして、その奥には半月型の皿に刻んだ九条葱が山のように積み上げられていて、その横に千切りのニンニクと生姜、ミョウガが盛り付けられている。


「ん、魚はどこにあるんだ?」


 隙間からチラリと鰹の身らしきものが見えるのだが、ウーゴは思わず口に漏らしてしまう。

 周囲にたっぷりと掛け回されたポン酢に少し浸っているので見えにくいのかも知れない。


「えっと、その『葱』の下にあります。お好みで『生姜』と『ニンニク』、『ミョウガ』と共に食べるといいですよ」

「ああ、そうか。ありがとう」


 鰹のタタキの食べ方を教えると、シュウは厨房に戻っていった。

 ウーゴもシュウに簡単に礼を言うと、料理に正対する。


 二週間も経てば食べる順番など半分近く忘れてしまうのか、ウーゴは一瞬戸惑うのだが、「最初は味噌汁をひと口、次にごはんをひと口……」と逸る心を落ち着けながら思い出す。

 右手に箸を持ち、左手で味噌汁椀を持つと軽く箸で中を混ぜ、口縁からズズと小さな音を立てて味噌汁を啜る。


 いりこ出汁の香りとニラの食欲を唆る香りが口から鼻へと抜け、昆布といりこ、適度に塩気を含む味噌の旨味が舌を包み込む。


「ほぅ……」


 コクリと音を立てて飲み込むと、久しく飲んでいなかった優しい味に、ウーゴの口からは溜息に似た声が出る。

 そして、そっと味噌汁椀を置くと、飯茶碗に持ちかえる。

 箸で掬ったその白いごはんは、先日よりも艶があり、粘りも強く溢れ落ちる心配がない。

 ウーゴはぱくりと口の中にごはんを入れて、確かめるように白いごはんを味わう。

 先日よりも焦げたような香りが強く、柔らかく炊きあがっていて、甘みも強い。


「これは……」

「そうそう、今日から『新米』になってます。今年、収穫したばかりの『米』なんですよ」


 ウーゴの反応を見たクリスが米が変わったことを説明する。

 天馬亭の主人であり、料理人であるウーゴだから米の違いに気がついたのかも知れないが、クリスはそのことをわざと他の客に知られないようにした。

 マルゲリットで一番と言われる宿の料理人でもあるウーゴが通う店となると、ウーゴがシュウの腕を認めて通っているようなことになってしまう。だが、ウーゴは純粋に海の幸を味わいたくて通っていて、そこまで考えてのことではない。

 つまり、ウーゴが料理の腕前で負けているとか、味を盗みに通っているなどと変な噂が立たないようにしただけである。


「へぇ、『新米』はこんなにも甘くて美味いんだね」

「ええ、香りも甘くて美味しいでしょう?」


 三番目に並んでいた巨漢ともいえる大男が少年のような高い声で感心の声をあげる。

 マルゲリット周辺では小麦や大麦、ライ麦などが生産されているが、食べる段階になると多くはパンなどに加工されてしまうのでわかりにくい。

 その点、米はそのままの形に近い状態で提供されるのではっきりと違いが判るのだろう。

 なお、大麦は煮て食べられているが、粥やスープの具に近い形で食べられているので、これまた違いがわかりにくい。


 そして、ウーゴはようやく鰹のタタキへと箸を伸ばす。

 小さく軽く箸を左右に動かして、小山のようになった葱を避けると、皮の焦げた鰹の身が現れる。


「ん?」


 薄く切り目が入ったところに箸を入れて摘んでみると、その切れ目は表面から少しだけ包丁を入れただけのものだとわかる。


「なんだ、どういうことだ?」


 ウーゴが箸先で鰹のタタキを突いて呟く。だが、近くにクリスやシュウはいない。

 判然としないまま、ウーゴは一切れ摘んで口の中へと運んだ。

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