第56話 豚の角煮(1)

 暑さ寒さも彼岸までという言葉が日本にはあるが、それはコア異世界でも同じ。

 暦では一月一日が日本の冬至にあたり、その前後一ヶ月半の間が冬である。

 今は九月も半ばを過ぎて、少しずつ秋が深まり、冬に向っていく。


 農村や牧場の朝は早く、エステラ異世界の太陽が昇る前に人々は動き出し、朝食を摂って畑や厩舎に向かう。

 アスカ領で唯一の専業牧場の主であるヤコブ・グーリンスも起きる時間は変わらない。

 血糖値を上げる程度の軽い食事を終えて執務室に入ろうとすると、馬が駆けてきた音が聞こえ、嘶きとともに地面を踏みしめて止まる音がする。

 ヤコブは慌てて玄関へと進むが、使用人が既に応対をはじめており、その声の内容からマルゲリットの領主であるエドガルドからの手紙が届いたことを知ると執務室に戻った。


「旦那様、領主様から急ぎのお手紙が届きました」


 封蝋に押された印璽を確認した使用人が執務室に届けにきた。


「エドガルド様から?」


 確認するようなヤコブの声に、使用人は「そのとおりです」と頭を下げ、部屋を出ていく。

 ヤコブは机上に置かれた手紙を見つめると、封蝋をナイフで切り、くるくると巻かれた羊皮紙を開く。

 左右にヤコブの目線が動いて文字を追い終えると、暫時静寂が訪れる。


「相談したいことがあるので、急ぎ王城に来てほしい……か……」


 ヤコブは誰もいない部屋で確認するように独り呟く。

 クリスが幼い頃は家族で遊びに来た気さくな領主であるが、急ぎの呼び出しとなれば、それは命令同然であり、余程の理由がなければ断るわけにもいかない。

 一方、収穫祭を控えて肉の需要が増えるということに加え、冬の準備でたくさんの干し肉や腸詰、燻製肉などをつくるためにも肉の需要が増える時期が近づいてきている。そして、その需要を予測しておくというのはヤコブにとって重要な仕事でもあり、今はマルゲリット周辺の各村や町の情報を集める大切な時期でもある。

 ヤコブは右肘をつき、顎を上にのせて少し考える。


「収穫祭の準備もあることだし、ついでと思えばいいか……」


 読みかけの資料を手元に並べ直し、ヤコブは席を立った。







 手紙が届いてから一時間と少々、ヤコブは馬を駆ってマルゲリットの街に到着していた。牧場とは違い旧王城内に入るため、貴族男性が着るような装いに変わっている。

 時刻はマルゲリットの城門前で朝二つの鐘が鳴っていたので、既に領主は旧王城で執務についている時間帯だ。ヤコブはゆっくりと馬を進め、旧王城に向かう。


「領主エドガルド様から急ぎの手紙をいただいた。お取次ぎいただきたい」


 ヤコブはグランパラガス偉大なる傘の先に進み、衛兵に対し今朝の手紙を見せる。

 衛兵もヤコブの顔は知っているが、提示された手紙が本物であるこをと確認するため、剥がされた封蝋の印璽を確認する。


「今朝一番に出て行った『馬』で届けた書簡に、もう応じるとは素早いですね」


 印璽を確認した衛兵はくるくると手紙を丸め、ヤコブに話しかける。


「ただ、エドガルド様は急用とのことで、街に出ておられます。昼三つの鐘が鳴る頃にはお戻りになる予定です」

「そうですか、それではその時間くらいにこちらに参ります。『馬』をお預けしてもよろしいでしょうか?」


 少し時間ができたといえ、マルゲリットの街を馬で移動するとなると不便だ。交流街や居住区に入るのなら、大門を入った場所にある厩に預けるのが一般的なのだが、直接旧王城に用がある場合は旧王城内の厩舎に預けることになる。


「ああ、問題ない。これが預かり票だ」

「ありがとうございます」


 旧王城を出る際に預けた馬の首にかけた木の札にある番号が書かれた板を受け取り、ヤコブは旧王城を後にする。


「そろそろ食事の時間だな……朝めし屋に行ってみるか」


 前回はマルコが少し暴走したが、すき焼きを食べることができた。

 グーリンス牧場の肉では実現できない肉の柔らかさと、脂の甘み。その肉を焼き上げた後にかけた砂糖と醤油という黒い液体が焦げるときに出る芳醇な香りが、とろりと溶いた生卵の柔らかい香りのあとに口の中に広がる。

 思い出すだけでヤコブの口内は涎が溜まり、気が付けばくちゃくちゃと顎が動き出す。


「これじゃ、ウォーレスのことを馬鹿にできんな」


 そう呟くと、ヤコブの足は交流街にある朝めし屋へと向かっていた。







 棒に突き刺した布を避け、ヤコブは店の中に入る。

 マルコとこの店に来た時は扉を閉めた状態になっていて、客が扉を開くことになっていたのだが、最近になって扉を開けておくことにしたようだ。


 高身長のヤコブがのっそりと店の奥に歩を進めると、カウンター近くにいたクリスが気が付き声をかける。


「ヤコブさんいらっしゃい」

「クリスティーヌお嬢様、おはようございます」


 ヤコブは扉を開けたままの状態になっていたことに不審そうな顔をしたあと、店内を見回すと、クリスに挨拶すると、カウンターの一番奥の席に案内される。


「いらっしゃいなの」


 ヤコブがカウンター席に座ると、シャルがにこりと笑みを浮かべ、お茶とおしぼりを差し出す。そのおしぼりを受け取る手は他の誰よりもごつごつとしていて、牧場での力仕事で鍛えられていることを伝えている。


「ヤコブさんが独りで来るのは初めてよね。何にします?」

「すき焼きか肉豆腐はありますか?」


 クリスがヤコブに尋ねると、ヤコブは前回かなり喰いつくように肉豆腐を頼もうとしたことを思い出したのか、冷静さを装い注文しようとする。


「ごめんなさい、今日の『牛朝食』は薄切り肉を『タマネギ』と『ニンジン』、『ピーマン』と一緒に炒めて、『ニンニク』が入ったタレで味付けしたものなの。『焼肉定食』って感じかしら」


 クリスはとても残念そうに今日の牛朝食を説明するが、途中からその味を思い出したかのように笑顔に変わり、バツ悪そうに俯いてしまう。

 ヤコブは微笑ましいものを見るような目でクリスを見つめると、辺りを見回す。周囲で食事をしている客が食べているのは多くが魚を焼いた料理のようだ。


「この店は、魚料理が人気なんですか?」

「ええ、マルゲリットは内陸の街だから海の魚が珍しいでしょ? 海辺からマルゲリットに移り住んでいる方たちがよく来てくれます」


 ヤコブの質問に対し、クリスはにこりと笑顔で答える。


「そうですね、ヤコブさんには『豚』の料理とかどうでしょう? あばらの部分の肉を柔らかく煮込んで味付けした料理です」


 続けてクリスはヤコブに今日のおすすめ料理を説明する。ヤコブがグーリンス牧場を経営していて、牛だけでなく、豚や鶏の飼育も行っていることをクリスは知っている。

 だから、ヤコブには真剣な眼差しで料理を説明する。


「シュウさんの『豚』料理も味わってみて欲しいんです」

「ああ、わかりました。では『豚』の朝食にしましょう」


 ヤコブはクリスの気持ちを察したのか、とても素直にクリスの勧めに応じた。

 店内に注文を通すクリスの声と、それに応じるシュウの声が響くと、ヤコブはまだ熱い湯のみを持って、ずずと茶を啜る。

 緑茶の僅かな渋みや柔らかい甘みを感じながらヤコブがしばらく目を瞑っていると、目の前でことりと小さな音がする。


「今日は、『柴漬け』と『蕪』、『野沢菜』なの」


 ヤコブの前に置かれたのは、朝めし屋の名物でもある漬物の盛り合わせだ。

 明るく軽快な声でシャルが説明し、その場からすぐに立ち去るのだが、サラサラとした金灰色の髪から花のような香りがふわりと広がり、音もたてずに消えていく。

 すると、今度は厨房から甘い香りがゆらゆらと漂ってくる。その香りには獣肉らしい濃厚な匂いも含まれていて、食欲をそそる。

 ヤコブはその香りに鼻をヒクヒクさせ、その料理が自分が注文した料理の臭いだと確信すると、その料理の見た目と味を想像するようにうっとりとした表情になり、そっと目を閉じてまた鼻をヒクヒクと動かす。


 不思議なもので、目を閉じれば視覚以外の感覚が少しずつ研ぎ澄まされていく。

 食器が接触する音……他人が咀嚼する音……会話する声……

 牧場という自然あふれた静かな場所で働くヤコブは特に研ぎ澄まされた感覚を持っているのか、ヤコブはその中に聞いたことがある声を見つける。

 その一つは少女の笑い声だ。周囲に配慮するかのようにその澄んだ鈴のような音を抑え笑っている。もう一つの声は男性のもので、かなり躍動的に身振り手振りで話をしているのか、少し息切れするほどの勢いで話し続けている。少し抑えているのはわかるが、太く力があり、威厳を感じさせる声だ。


 ヤコブは静かに瞼を開くと、少し首を傾げ、考え込むような仕草をすると目線を宙に浮かせて何かを思い出すように唸る。


「ううむ……」


 カウンター席の一番奥に座ると左側に土壁があり、更に奥にある四人掛けのテーブル席の様子は見ることができない。

 テーブル席の客を確認することはできないヤコブは、その奥にあるテーブル席で会話をしているであろう男を確かめようと、椅子を軽く後ろに倒すようにして覗き込もうとするが、残念なことに土壁を乗り越えて見るには至らない。


「どうかしましたか?」


 ヤコブがテーブル席を覗き込もうとしている様子はクリスの目に留まり、話しかけてくる。


「ああ、もしかするとエドガルド様がいらっしゃるのかと思ったのだが……」


 ヤコブは少し驚いたような表情を見せてから尋ねる。


「ええ、奥にいますよ」


 クリスはそれが何でもないことのように返す。


「ふむ……」


 暫く唖然とした表情でクリスを見つめていたヤコブだが、いつもの冷静さを取り戻したのか、自分を納得させるかのように息を吐く。

 ヤコブとしては領主自ら食事のために交流街へやってくることに驚いたのだが、それを尋ねた相手は領主の娘であり、そんなことで驚くこと自体が間違っていたと僅かな時間で納得したのだろう。


「ご挨拶しても?」

「訊いてきますね」


 ヤコブは上目遣いでクリスに尋ねると、クリスはテーブル席に向かった。







「おはようございます、ナルラ卿」


 ヤコブは右手を胸元に当て、頭を下げる。


「ああ、おはよう。そのような堅苦しい挨拶は無しだ。まずはそこに座れ」


 旧王城の中でもなく、お忍びで来ている娘の店ということもあるのか、エドガルドは砕けた雰囲気で話しかける。

 だが、ヤコブはすぐには座れない。クリスが幼い頃はエドガルドは家族と共に牧場を訪ねてくることもあったのだが、牧場に併設された直営レストランでアスカ家に給仕しても、同席して食事をするということは一度もなかった。また、テーブル席は非常に狭く、手を伸ばせば届きそうなほどの場所に領主が座ることになるのだから、いくら領主本人が座れと言っても座れる状況ではない。


「どうした? ああ、おまえも食事を注文しているのなら、ここで一緒に食おう。だから座れ」


 エドガルドが秋刀魚の刺身を摘まんだ箸で前の椅子を指して話すと、クリスがヤコブの座っていたカウンターから漬物がのった皿と箸、湯呑などを運んでくる。

 目の前に自分の席を用意されてしまい、ヤコブも逃げ場がない。


「失礼します」


 ヤコブは天井を仰ぐと、覚悟したように椅子を引いて座る。

 すると、それを見ていたかのように厨房から声があがる。


「『豚朝食』、あがったよ」

「はーい」


 シュウの声に応じ、クリスが小走りでカウンター席の方に戻っていく。


「ほう、『豚朝食』か……オレはまだシュウ殿の『豚料理』は食べたことがないな……」


 その声を聴いていたエドガルドがぼつりと呟くと、ヤコブの前に運ばれてきた豚朝食が載る丸盆をしげしげと見つめる。

 ヤコブは目の前に座るエドガルドの顔が異常に近くに寄ってきたことに焦り、仰け反るような姿勢になる。ただ、後ろは壁が近く、こつんと後頭部をぶつけて我に返る。


「お待たせしました、今日の『豚朝食』……『豚』の角煮です」


 クリスが置いた丸盆の左手前には陶器の茶碗があり、そこにはキラキラと輝く炊き立てのごはんが湯気を立てている。右手前には味噌汁が入った木製の汁物椀が置かれている。味噌汁には豆腐と油揚げ、ぶなしめじが入っていて、九条ネギが刻んで散らされている。そして、丸盆の奥には陶器の深皿が置かれていて、中にはたっぷりの黒い煮汁とその煮汁で三層に色づいた皮付きの肉塊がごろごろと積み上げられている。その様子は池の上に積み上げられた切り石のようだ。


「おお、凄くいい香りがするではないか!」


 先ほど、厨房から漂ってきていた少し獣臭さの混ざった甘辛い香りが漂う。エドガルドはその香りをくんかくんかと嗅ぎまわると、自分が食べていた『魚』朝食と見比べながら、片眉を寄せて失敗したかという顔をする。

 一方のヤコブは、気が付くと前のめりになって豚の角煮を観察していた。


「こっ……これは皮付きの『豚』肉ですかっ? 皮をこうして食べるとは……」


 ナルラ地方では丸焼きにする時を除き、豚の皮は部位によって用途が異なる。革製品にできる部位と、食用となる部位である。

 革製品にする際、一般に皮は首から背中に向けては伸縮率が低く、腹側の皮は伸縮率が高いので、腹側の皮の方が柔らかくできる。よって、腹側の皮は手袋や鎧下の膝や肘の補強などに需要がある。そのため、腹側の皮は食用になることがない。皮付きの豚バラ肉というのは、ヤコブにとって非常に贅沢なものに見えた。

 なお、食用は油で揚げたり、焼いてパリパリにして食べることが多い。


「少し獣肉臭いと感じたら、こちらの『和がらし』を薬味にしてくださいね。鼻に抜ける辛さがあるので、たくさんつけないよーにね」


 そこまで話すとクリスはテーブル席を離れ、カウンター客の会計対応を始めた。


「果たしてどのような味がするのか……」


 ヤコブは目の前にいるエドガルドのことを忘れ、すぐにでも豚の角煮を食べようとナイフと三叉のフォークを探すのだが、丸盆にはエドガルドが使っていたのと同じ箸というものと、木匙しか見当たらない。ヤコブはキョロキョロと皿と皿の間などを探し始めるが、会計対応を終えたクリスが何かを思い出したように小走りで戻ってくる。


「お父さま、いくら興味があってもヤコブさんに一口食べさせろとか言わないでね。ヤコブさんは、領主のお願いとか断ることができないんだからねっ!」


 クリスがヤコブに気を遣いエドガルドに釘を刺すようにけん制すると、エドガルドは今にも口に出そうとしていたことを抑止され、口をパクパクとさせて動きを止める。

 その一方、クリスはヤコブの様子に気が付いたようで、優しい口調で説明する。


「ヤコブさん、『豚の角煮』は柔らかく煮上げてあるので、全部木匙で食べられますよ」

「ああ、そうなのか……では遠慮なく……」


 ヤコブはクリスの説明を聞いて、豚の肉がそこまで柔らかくなるものなのかと半信半疑になりつつ、木匙を角煮に突き立てる。弾力のある脂肪部分がぐにゅりと押しつぶされ、汁が断面からどばどばと流れ出すと、限界を迎えた赤身部分がほろりと解れる。木匙はそのまま皮の部分まで一気に切り裂き、軽い抵抗感を皮から受けた後、ぷつりと切断する。二つに切断された肉塊はぽろりと倒れ、そのまま煮汁の中に落ちて、更に煮汁を纏う。


「なんだこの感触は……脂身はねっとりとろりとした触感で、赤身も本当に柔らかい……」


 ヤコブは独り呟くと、木匙で切り取った角煮を掬う。木匙の上の肉は少し手を動かすとふるふると震える。

 赤身は濃い茶色に、白身部分は薄い茶色に染まっていて、その赤身と脂身が折り重なる三層構造はバラ肉の特徴を示している。


 ヤコブは肉の部位を確認するかのように見つめると、角煮が載った木匙を口に運んだ。

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