第18話 お粥(2)
コポコポと土鍋が音を立てる。
蓋をずらしてあるといっても、米を煮るときの泡はなかなか力強く、気が付くと鍋の振動で蓋が閉まっていることがある。
当然、シュウのレベルの料理人であればそんな失敗は数少ないはずなのだが、シャルロットが現れ、そこにエドガルドまでがいるとなると、料理に対する集中力も削がれてしまう。
それでも吹きこぼれることがなく、なんとか粥はできあがったようだ。
問題は、シャルロットのために作った食事だというのに、涎を垂れてそれを見ているクリスとエドガルドがいること。そして、当のシャルロットはとても可愛らしい顔をしてそこで眠っているということだ。
「さて、できあがったのはいいんだが……どうしたものかな……」
シュウが厨房から店内を見渡すと、わたしが食べますという顔をしている
「なあクリス、もう朝二つの鐘って鳴ってるんじゃないかな?」
「え?」
時計を確認すると、既に日本時間で六時三十分。
あと三十分くらいで、朝三つの鐘がなる時間になっていた。
恐らく、シュウが日本で経口補水液を買っている間に鐘が鳴ったこともあるだろうし、シュウがカギを開けて出て行ったので客が入ってこれなかったというのも考えられる。
ただ、あのまま放っておけば、シャルロットは確実に死んでいたであろうし、現代日本の経口補水液という飲み物がなければ今こうして可愛い顔をして寝息を立てているなんてことはなかっただろう。
「いや、シャルロットが目覚めるまで店は営業できそうにないから別にいいんだけどさ」
シュウはそういいながら、シャルロットの頭を優しく撫でる。
自分でさえもそこまで優しく撫でられたことはないと思ったりするクリスが拗ねた顔をする。明らかに口を尖らせ、シュウのことをジロリと睨みつけると、プイッと横を向いてしまう。
「あああ!いたいいたいいたいっ!!」
突然、シャルロットが目を覚まし、声を張り上げた。
足が攣ったようだ。
シュウは、慌ててシャルロットが手で抑える足を取ると、丸まろうとする足の指先を甲側に引っ張って抑える。
「だいじょうぶかい?」
「う……うん……」
身体から大量の汗をかいて走り続けたシャルロットは水分を補給したとはいえ、塩分も多くを失っているため、痙攣を起こしやすくなっているのだ。
「シャルロット、ここにいる人はこのマルゲリットの街の領主、エドガルド・R・アスカ侯爵だ。
何があったか話をしてほしいところだが、まずはごはんを食べよう。
そうしないと、また足が攣って痛い思いをすることになるよ?」
「うん……おなかすいたの……」
シャルロットは周囲にいる大人たちは知らない人たちばかりだし、領主もそこにいるので緊張しているのもあり、あまり大きな声が出てこない。
「クリス、シャルロットをたのむ」
シュウはクリスにシャルロットの世話を任せて厨房へと向かうと、茶碗によそった五分がゆを丸盆に載せて戻ってくる。
お手塩皿(おてしょざら)には塩と赤紫蘇だけで漬けた梅干しと、自家製の塩昆布が載っていて、その手前には木匙が一つ置かれている。梅干しは京都で買ったものだ。
「急にしっかりと食べようとすると、身体がびっくりするからね。
お粥と言って、身体にやさしいごはんだよ。
さあ、おあがり」
シュウが掛けるやさしい言葉に、コクリと頷くと、シャルロットは木匙を持つ。
「わたしが食べさせてあげるね」
十歳であれば、ひとりで食事くらいはできるのが当然だが、一晩中走り続けた身体は疲れ、弱っているはずだ。
クリスはシャルロットの持つ木匙を優しく取り上げ、まだ熱いお粥を掬いあげる。
フーッフーッフーッ
表面は空気に接しているから少し冷えてはいるものの、木匙で掬った内側はまだまだ熱い。
特に自分で食べるのであれば熱かろうが自己責任だが、このお粥を食べるのはクリスではなくシャルロットだ。だから、念のためにしっかりと冷ましておくのだろう。
ちょうどいいくらいの温度に下がったお粥をシャルロットの口元に持っていく。
「はい、あーんして」
シャルロットが少し恥ずかしそうに口を開くと、クリスはそっとお粥をその中に流し込む。
お粥には塩は入っているが、五分がゆなのでとても水分が多く、あまり塩気を感じない。
ただ、とても柔らかく、優しい甘さのある米粒が舌の先で潰れ、スルスルと胃袋に落ちていく。
「これは梅干しといって、とても塩辛くて酸っぱいけど、今のシャルロットには必要なものだから少し食べるといいよ」
知らない間に、シュウは厨房に戻って梅干しを小さく刻んだものを用意し、先ほど丸盆の上に置いたお手塩皿の横にすっと差し出す。木匙では少しずつ千切って食べるのは難しいことに気が付き、用意したのだ。
「すっぱいみたいだけど、たべてみる?」
優しくクリスが問いかけると、シャルロットはまたコクリと頷いて、口を開けて待つ。
クリスは刻まれた梅干しの欠片を木匙に載せてシャルロットの口にそっと入れる。
「しょっぱくてすっぱいけど……おいしいのっ!」
よほど美味しいのか、とても大きな声だ。
シャルロットは十歳の少女である。
村で暮らしていたとはいえ、そんなに塩辛いものや酸っぱいものを食べる機会はないし、苦いものや酸っぱいものというのは味覚がそこまで発達していない子どもにとって、一般的に苦手な食べ物でもある。だが、一晩中走って疲れ切ったシャルロットの体内は酸性に傾いている状態だ。その身体を弱アルカリ性に引き戻すには、梅干しのクエン酸が有効なのだ。
いま、シャルロットの中では、梅干しに含まれる大量のクエン酸を舌が感じ、そのクエン酸を身体が必要としていることを「おいしい」「もっと食べたい」となるよう脳が変換した状態である。
「もっと、梅干しちょーだい!」
更に、酸っぱさが唾液の分泌を促進し、食欲を増進する効果もあり、余計に食べたくなる。
「はいはい、あーん」
クリスは嬉しそうに刻んだ梅干しとお粥を木匙に載せ、シャルロットに食べさせる。
「んんーっ! しょっぱいのが、お粥を美味しくさせてるのっ!」
シャルロットの身体は、クエン酸を求めているだけではない。汗と共に流出した塩分も必要なのだ。
その塩分も、昔ながらの梅干しは二十パーセントを超える濃度を持っており、シャルロットの身体を喜ばせる。
「じゃ、こっちの昆布も食べるといいよ。
梅干しばかりだと飽きるからね」
シュウがそう説明すると、クリスが塩昆布を匙に載せ、シャルロットの口に運ぶ。
口の中には醤油の香りと、昆布の香り。
だし殻となった昆布でも旨味成分は残っていて、それに醤油と塩、みりん、砂糖を加えて煮るだけのものなのだが、その旨味がお粥に溶け出し、じんわりと舌から身体に染み込んでいく。
シャルロットは目を閉じて、その味が口の中から消えていくのを待つ。
「逃げられて……生きててよかったの……」
ようやく、シャルロットの目から一筋の涙が流れて落ちた。
結局、シャルロットは梅干し二個分と、お粥を三杯食べると、村で起こったことをエドガルドに説明した。
その後は、ようやく安心したのか、テーブル席に並べた椅子の上で眠っている。
クエン酸の効果は、お粥で摂取している炭水化物からアデノシン三リン酸を大量に作り出すことができるというのもある。疲労回復にも非常に役に立つので、目覚めればかなり元気になっていることだろう。
「シャルロットが眠って安心したらお腹がすいてきたわ」
クリスが腹を空かせるのも無理はない。
いつもなら異世界営業とまかないを終えて、日本で営業している時間である。
「お粥でよければまだ残ってるよ?」
「ではそれをいただこう」
クリスやシュウと同じようにシャルロットを見守っていた領主エドガルドも食事を希望する。
今の時間になってもまだ居城に戻らないのは、まだ偵察隊が戻ってくるまでには時間がかかると判断してのことだろう。
それに、クリスが空間魔法で連れてきた以上、馬車や護衛がいないので、送り届けなければいけないのもある。
こうなることを予想して多めにお粥を作ってあるが、果たしてそれでよかったのだろうかとシュウは頭を掻きながら厨房に戻り、おかずを作りはじめる。
「ねぇ、アプリーラ村が全滅しているなら、シャルロットはどうなるの?」
クリスは心配していたことを父エドガルドに尋ねる。
エドガルドもそのことを考えていたようで、少し言葉を選んで話をはじめる。
「まず、シャルロットの父親を捜すことだろうが、恐らく望みは薄い。五年以上の間、村に戻っていないということは何かあったと考えるのが自然だろう。
となると、誰かの養子になる前提で施設に預けることになるのだが、クリスも知っているだろう?街では十歳になると働き始めるのが普通で、養子先が決まっていないなら施設からも出ていく年齢だ。
だが、シャルロットは見てのとおり痩せすぎで、健康状態も良くない。働き先を見つけるのは難しいかもしれんな」
「う……」
クリスは言葉に詰まってしまう。
アプリーラ村では大人の男性はすべて殺害されており、他の子どもたちや大人の女性はどうなったかわからない。
恐らく、偵察隊の人たちが到着した頃には無人の村になっているだろうし、シャルロットが帰る場所は無いと考えるのが正しいだろう。
だが、エドガルドの話ではこの街にも居場所はない。
もし、この街で暮らすのであれば、孤児となって、貧民街で屋根のない場所で暮らすという道しか残されていない。だが、シャルロットの体力ではそれも長くは続かない……。
「おとうさま、シャルロットはうちで預かります!」
「なんだと?!
それはアスカ家としてか?それとも生田家としてか?」
クリスはいい方法が他に見つからないまま、預かると宣言してしまったようだ。
「じゃぁ、おとうさま……他の方法があるというの?
「無いな……」
ふたりがどうすればいいか悩んでいるが、シュウが調理を終えて食事を運んでくる。
エドガルドとクリスの前に置かれたのは、いつもの丸盆だ。
五分粥が入った茶碗と箸が並び、中央にはお手塩皿に塩昆布、しば漬け、養老漬けが乗っている。
一番奥には、牛の薄切り肉を生姜や醤油、砂糖、日本酒、味醂で煮詰めたもの……牛肉のしぐれ煮だ。
「お待たせしました。まあ、まずは食べましょう」
「うん、いただきますっ」
クリスは茶碗を左手に持ち、右手の箸で塩昆布を取ると、お粥の上に乗せる。塩昆布の醤油や砂糖、塩などの調味液がゆるゆるとお粥に溶けだしてゆくのを見ると、茶碗に口をつけて茶色く染まったお粥と共に、塩昆布を口に招き入れる。
炊きあがってから結構な時間が経ってしまったお粥は、少し蕩けてしまっているが、それでも米粒の形状を保っているものもある。ただ、口の中に入れても噛む必要がないほど柔らかく、塩昆布を噛むだけで共に咀嚼されて甘みを口内に広げる。その甘みと共に、塩昆布が纏った旨味が舌に染み込んでくる。
「じわじわと口の中全体に味が染み込んでいくようで、美味しいね」
「ああ、これは少女が生きていることに感謝するのもわかる……美味い……」
少しでも早く情報が入ってきて、村の者たちの安否がわかるのであればそれに越したことがない。
だが、その後のシャルロットのことを考えると、ただ美味いものを美味いと口に出しづらいのか、ふたりとも少しおとなしい。
次にエドガルドはできたての牛肉のしぐれ煮に手を伸ばす。見るからに柔らかそうで、まだホカホカと湯気を出している。
エドガルドはまだ箸を使えないので、木匙を使い、茶碗のお粥に牛肉のしぐれ煮を乗せる。
塩昆布と同じように、ゆるゆると煮汁がお粥に染み出し、少しずつ黒く染める。
その染み出した汁と共に、牛肉のしぐれ煮を口に入れると、生姜の辛みがピリリと舌を刺激するのだが、牛肉のもつイノシン酸と脂の旨味が口内にドッと広がる。
「うまいっ」
「うん、昆布とは違う美味しさがあるね!」
そんな感じでしば漬けや養老漬けも楽しむと、エドガルドが思い出したように漏らす。
「梅干しは食えんのかな……」
エドガルドはシャルロットが梅干しを美味しいと言っていたので、とても気になっていたようだ。
だが、健康体であれば体内は弱アルカリ性に保たれており、そこまで身体はクエン酸を求めていない。酸味も塩味も強く感じることは間違いないのだが、念のためにシュウは尋ねる。
「たぶん、肉体的に疲れていなければそこまで美味しくはないですよ?」
「ああ、でも試してみたい」
数秒後、昔懐かしの梅干しばあさんのような口元になったエドガルドの姿がそこにあった。
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