第7話 カレイの煮つけ(2)
「あがったよ!」
その声に、全員が厨房に顔を向ける。
クリスはカウンターの中に入ると、丸いお盆の上に乗せた料理を二つ持つ。シュウも二つ持ってマルコ達のもとへと配膳する。
四人掛けのテーブル席の奥には最も大きな、少年のような声を持つ体格のいい男、その隣にはマルコが座っている。手前側の奥にデヴィットが座っており、通路側にはアランが座るという並び方だ。体格的に大きな者が奥に座るという暗黙のルールでもあるのかもしれない。
クリスは、丸盆の上にのせた食事を一番奥に座る体格のいい男に渡し、マルコの前に二つめを置く。次にシュウからお盆を受け取り、デヴィット、アランの順に料理を渡していく。
食事を目前にした体格のいい男は、まず茶碗に盛られたごはんを見て、目を丸くする。
確かに短粒種の米ではあるのだが、実際に調理されたものを見たのは初めてである。また、いつも食している長粒種の米とは調理法が異なるので、見た目も大きく異なるのだ。このマルゲリットで米を使う場合は、表面を洗わずにバターやオリーブの実などからつくる植物性の油、獣脂からとった動物性の脂を使って炒めてから煮てリゾットやパエリアにするか、水から茹でたものをサラダに入れる程度である。
だが、目の前にある「ごはん」と呼ばれている米は、仄かに焦げた穀物の香りと
「おお、この匂いだ! うまそうだ!」
マルコはとても嬉しそうな声を出し、アランとデヴィットは初めて見る炊き立てごはんを興味深そうに見ている。
体格のいい男は、我慢ができないといった感じでフォークを取ってごはんを掬う。目の前で観察すると、炊き上げることで水を含ませているのだが、表面に残った糠もきれいに落とされており、そのせいで糠臭さがあまりしないことに気が付く。
「ウォーレス、どうした?食わんのか?」
ごはんを観察して動かないウォーレスに対し、マルコが少し心配そうに声をかける。
「もちろんたべるよ」
見た目に似合わない少年のような声でウォーレスは返事をすると、フォークに乗せたごはんを口の中に入れて咀嚼する。
粘りのある米の表面にまだ張りがあるところを見ると、表皮一枚で形を保っていたのだろう。噛むとムッチリとした食感に加え、どこかその表皮がはじけるような感触が歯を伝ってくる。これ以上、水が多いと皮もはじけて米が形を保てなくなる。これ以上、水が少ないと米が硬く、ねばりの無い炊きあがりになる。絶妙な水加減で炊きあげられた米はここまで美味いものなのかとウォーレスを感心させる。
マルゲリットの街で食べられている米を研いでから水だけで炊くと、ここまでの水分を含むことがなく、パサパサとしてしまう。
この味の違いは、長粒種と短粒種の違いからきているのかと思いながら噛み続けていると、ふうわりと甘みが広がってくる。
「うまいなあ」
まだごはんしか食べていないウォーレスだが、心からごはんを楽しんでいるようだ。
「ああ、『味噌汁』というスープを少し飲んでみたらどうだ。これも美味いぞ」
マルコは味噌汁を指し、ウォーレスに勧める。
木を削って作った椀には、小さめの賽の目切りになった豆腐と、茶色いキノコが入っている。そのキノコは煮込まれることで特有のぬめりを出しており、見た目に食欲をそそるようなものではない。だが、この木椀から伝わってくる香りは素晴らしい。
ウォーレスは少し躊躇うのだが、スープなしで食事を続けるのも辛い。それに、ごはんとスープ、おかずを交互に食べると更に美味しさを感じることができるとマルコが言っていたのを思い出し、まずは具を避けて汁だけを木匙で掬う。
口に入れると鼻に抜けるのは魚の香りだ。そこに少し発酵した穀物の香りが広がる。一方、舌には小魚からとったアミノ酸に、キノコと発酵した穀物が出すアミノ酸が加わって旨味の相乗効果を生んでおり、舌に優しく染み込んでくる。
「この、スープに溶けているのはなに?」
「それは『味噌」ですねー」
ウォーレスの質問に対し、軽く答えるクリスを横目に苦笑いするシュウがこたえる。
「『大豆』と『米』、塩で作った調味料です」
「なんだってぇ?!」
ウォーレスはこのマルゲリットの街で穀物を扱う、穀物店を経営している。
その穀物のスペシャリストであるウォーレスでも、米と大豆を使った調味料というのは聞いたこともない。
「これが『大豆』と『米』から作ったものなのかい?」
「発酵すると、元の素材がわからなくなりますよね……。
でも、その白い食べ物……豆腐も『大豆』を使って作ったものだし、その煮つけの黒い汁も、『米』と『大豆』で作った醤油という調味料を使っています。あと、料理酒も『米』から作ったものを使っていますね」
シュウが指差して説明すると、またウォーレスの目が丸くなる。
「まあ、まず食べてみようよ」
「ああ……うん……」
またマルコに勧められ、ウォーレスはカレイの煮つけに目を向ける。
全体には平たい魚ではあるが、じゅうぶんに身が付いていて厚みもある切り身はとても薄くて黒い皮を身に纏っている。その皮から骨に向かい、黒い煮汁が白い身を染め上げており、美しいグラデーションをみせている。また、身の中央には黒い皮の上に置かれた千切りの生姜と木の芽が散らされていて、とても美しい。
煮汁には、スライスされた生姜が沈んでいるが、これで匂いを消しているのだろう。そして、カレイの皮目についていた脂が溶けだして浮かび、表面にいくつもの透明な円を描いている。
ウォーレスは、カレイの身をフォークで解すと、煮汁をたっぷり付け直して口に運ぶ。
まず、広がる風味は、魚の身がもつ仄かな生臭い香りなのだが、それを生姜と、煮汁に含まれた酒が打ち消してくれる。煮汁には上質な砂糖と、塩味を和らげる味醂も入っており、それが煮汁の味に丸みをつけると共に、煮汁に艶々とした照りを加えている。
砂糖や味醂が入り、醤油も入っているので、煮汁は甘塩っぱいのだが、そこにカレイの皮や骨、身からでた旨味が溶けだしており、煮汁だけでも十分なご馳走だ。そして、解した身を噛みしめると、煮汁の味と、カレイが本来もっている旨味がじんわりと舌に伝わってきて、魚を味わっている、食べていると心から感じるようになる。
「ああ……これも美味いな」
「うん、そうだな……」
などとマルコやアラン、デヴィットが嬉しそうにカレイを食べている。
ウォーレスも単純に楽しんでくれるとありがたいのだが、マルゲリットの街で一番の穀物のスペシャリストとしてプライドが許さないのか、ひとり真剣な顔で食べ続けており、それを見たアランが少し呆れたような表情をするのであった。
さて、魚の骨は脊椎から尾側に向かって生えるように伸びているため、単純に包丁で切ると、どうしても背骨につながっていない部分ができる。また、カレイの場合はエンガワと言われる背ビレと腹ビレ部分が濃厚で美味いのだが、小骨が多い。その骨を取るにはフォークは少し使いにくいということもあり、クリスが箸を使って身を解す手伝いをする。リックに箸の持ち方を教えたときのように、クリスが近づくと、彼らもクリスの髪のすばらしい香りに心を奪われる。当然、ウォーレスのところにもやってきて、クリスが肩越しから箸で骨を取り除きはじめると、一瞬戸惑いながらも目を瞑り、クリスの髪の香りにうっとりとした表情を見せる。マルゲリットの男たちは、若い女性のシャンプーの匂いというものに抗体を持っていないのだからしかたがない。ただ、これではいつまで経ってもクリスが骨取りをやらないといけないことになりそうだ。
骨取りを済ませ、クリスがフイッと離れると、その香りも共に離れていく。少し寂しそうな表情を見せる男たちだが、料理はまだ残っている。甘塩っぱい煮汁は少しずつ冷えてきて、カレイの皮や骨から出たコラーゲンによって少しずつ姿を変えていくのだが、この段階では見た目に変わりはない。
ここまで食事が進むと、四人の男たちがやっていることは決まっている。ごはんを食べて味噌汁を飲む。次にまたごはんを食べると漬物に手を出し、ごはんを食べてカレイの煮つけを食べる……ルーティンとしてマルコが見つけた食べ方であり、マルコ以外の三人も完全にその食べ方の虜である。用意されたお櫃からごはんをよそい、無言で同じことを繰り返している。
それぞれにお茶碗で三~四杯のおかわりを食べ、茄子や胡瓜、白菜の漬物と、カレイの煮つけも食べつくされてしまっているが、料理を提供する側としては、ここまで食べてもらえると幸せになる。
「ご馳走になった。お会計をたのむ」
食事を終えたらしく、マルコが席を立とうとする。
「はい、かしこまりました。あ、マルコさん、残った煮汁はどうしました?」
クリスは会計をするまえに、マルコに大切なことを教えるのを忘れていたことを思い出す。
「ああ、皿でぷるぷると固まってるよ」
「煮汁に骨と皮から旨味が溶け出し、冷えると固まるのです。それを暖かい『ごはん』に乗せるとじんわりと溶けて美味しいんですよ?」
「「「なにっ!!」」」
会計はもう少し後でと言うのも忘れて大急ぎでお櫃からごはんをよそい始める四人を見ると、クリスは俯いて声を出さずにクククッと肩で笑う。あまりに思った通りの反応を示してくる大人の男たちを見ていると、子どものようで、楽しくてしかたがない。クリスは普段から、美味しい料理の前には、大人も子どももないのかも知れないと思っているのだが、この四人の姿は特に滑稽で、微笑ましいとさえ思った。
かなりお腹が膨れていたが、茶碗にお代わりをよそったマルコは、煮つけの皿でぷるぷるの塊に変わった煮汁を木匙で掬い、ごはんの上に乗せる。ごはんも既に炊き立てではないのだが、じんわりと煮つけの汁が溶け始める。だが、煮汁がすべて溶けるのを待つのではなく、五割程度まで溶けたところでごはんと共に木匙に掬い、口に入れる。単に待ちきれなかっただけなのだが、これがまた絶妙なタイミングだ。すべて溶けてしまえば、煮汁をそのままかけて食べるのと変わらない。半分くらい溶けかけていることで、溶けた部分はごはんへと染み込んでくれるし、溶けていない部分は口の中で溶け、濃厚な魚の旨味と煮汁の味が口に広がる。結果的に、カレイは既に骨だけになっているが、そこに身が無くても、カレイの味を味わうことができる。
「こっ……これはうまいっ!」
「ああ、美味い!」
「最高だ……」
「この固まった煮汁だけでもいい!」
マルコ、アラン、デヴィット、ウォーレスはそれぞれに煮汁を楽しみ、食べつくして、悦に入っている。
ただ、食べ終えてしまうと、全員が満腹で少し動くのも辛い状況のようだ。
「だめだ、今は動けない」
「そうだな、少し休ませてもらおう」
マルコのひとことに、デヴィットが同意すると、残りの二名も黙って頷く。
一升分のごはんがお櫃に入っていたのだが、もう空になっており、ひとりあたり茶碗で五杯、二合半くらいは食べたことになる。見た感じでは、ウォーレスがかなり貢献しているようにも見えるのだが、それでも七杯くらいだろう。
動けなくなるのも理解できる。
「満足していただけたようで、うれしいですっ」
クリスはそう言うと、熱いお茶を淹れ、四人に配っていく。
「わたしはここの店員でクリスといいます。厨房をしているのは、シュウさん……料理人でわたしの夫です」
まだ正式に結婚はしていないが、顔を赤くしてクリスは自己紹介をする。
実は、さきほどから数名の客が入ってきており、シュウは少し手を離せない状況であった。
「ああ、わたしはアラン・マーシャル。マーシャル洋装店……主に男性用の服を扱う店を営んでいる」
「わたしはデヴィット・フォールディング。主に野菜を扱う店を営んでいる。マルコに珍しい野菜があると聞いて来たのだが、『白菜』には驚いたよ」
なるほど、それで白菜の味を褒めるのが珍しいと言われたのだろう。商売人であれば、自分の目利きに自信を持っているだろうし、自分が扱っている野菜が一番美味しいと思っているものだ。
「白菜は煮ても美味しいんですよ。野菜料理の朝食もお試しくださいね」
日本での商売で慣れているせいか、クリスも客の相手をするのが上手になってきたようだ。デヴィットもクリスの言葉に頷きを返す。
「ボクはウォーレス・ホプキンス。穀物を扱う店をやっているんだ。
ボクもマルコに『ごはん』というのがあると聞いて、どんなものか見に来たんだけどね……虜になりそうだよ」
ウォーレスは、その肉付きのよい顔を真ん丸にして笑顔を見せた。
「ガララッ」
そのとき、店の引き戸が開くと、一人の男が入ってきた。
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