第5話 漬物のまぜごはん
「なにっ?もう閉店時間なのか?」
暖簾を片付けているクリスに向かってリックが尋ねる。
「ええ、昼と夜の仕事が別にあるので、二時間だけの営業にしているんですよ」
クリスに向かって尋ねたというのに、なぜかシュウが返事をしてくる。
リックはクリスと話をしたくて仕方がないのだろうが、片付け作業をしているクリスに声をかけても、手の空いてるシュウが返事をするのは自然なことだ。
「そうか……じゃ、オレも帰って寝ることにするぜ」
「ありがとうございます。お会計は五十ルダールです」
白いごはんを五杯、味噌汁一杯に漬物と豚肉の料理を食べて50ルダールは安い。
少し目を丸くして驚くリックだが、店の前にいた商人たちも50ルダールで腹いっぱい食べられると噂していたのだ。そこに嘘はなかったと納得した。
ポケットの巾着から大賤貨一枚を取り出すと、カウンターの上に置いてリックが立ち上がる。
「お見送りしますね」
そういうと、クリスが先頭に立って引き戸を開く。
先ほどまで大勢いた商人たちの姿はなく、いつものマルゲリットの雑踏がそこにある。
店を出たリックが振り返ると、そこには仲良く並んだシュウとクリスが立っている。
「「ありがとうございました」」
二人は息を合わせたように頭を下げる。
あまり頭を下げるという行為はこの大陸では見かけないが、悪い気がするものではない。
「こちらこそ、ご馳走になった。また来るぜ」
「はい、明日の朝二つの鐘から営業します。お待ちしております」
リックはまた明日も来ることを誓った。
腹いっぱい食べられるだけではない。クリスがいるからだ。
なんとしてもお近づきになりたいと思っているリックは、満腹感と夜勤明けの身体が訴える眠気に襲われ、話をするのもあきらめて家路へとつく。
そのまま、リックが見えなくなるまでシュウとクリスが見送っていることには気が付かなかったようだ。
クリスが店の引き戸を開いて中に入ると、さっきまでリックがいた店だ。
リックはかなり汚れた服装をしていたので、椅子のまわりに落ちた泥などを掃除しなければいけない。
その仕事はクリスが受け持ち、シュウは二人の朝食……賄い飯をつくることにする。
さっきまでいた世界、クリスの生まれ育った「コア」と呼ばれる場所は、日本と三時間の時差がある。
一日は共に二十四時間で、「コア」の方が三時間進んでいる。
この異世界の店を閉めるのが十時ちょうどだから、日本では七時。日本で八時に営業を始めるにはちょうどいい時間差だ。
そして、シュウとクリスがたった二人の客でも満足していたのは、異世界で売れなくても、日本で売れるからだ。日本の店は、クリスが来てからというもの、大繁盛しているので問題ない。
なにせ、純白の髪に透き通るような白い肌、瑠璃色の瞳はキラキラと輝き、ぷっくりとした柔らかそうなピンクの唇を持つクリスは、スタイルも抜群にいい。
店の近くにあるアイドル集団の劇場前をクリスが通ると、アイドルの追っかけをしている出待ちの男たちも、ついついクリスについてきてしまうほどである。
そして、そんなクリスがいる店を、近くの劇場に出演するお笑い芸人たちがテレビで紹介するや、連日行列ができる朝食店になってしまったのだ。
ただ、悲しいのは客の目当てがクリスであることだ。
そして、飽食の国であり、食い倒れの街である大阪で食事をする人たちは、例え美味しいものを食べてもそこまで感情に表すことがない。黙々と食べて、クリスと言葉を交わして写真を撮ると帰ってしまう。
それが少しずつシュウの不満となり、ストレスへと変わっていったのだ。
そんなシュウの気持ちを知ってか、ある日、クリスが提案したのが異世界支店の営業である。
初日は二人の客が来て、二人とも幸せそうに食べていた。
そんな二人を見て、シュウは料理人になってよかったと心から思うことができたのだ。
シュウは、テキパキと掃除を済ませ、次の開店準備を始めるクリスを見る。
「ありがとう」
シュウの声を聞いて、クリスは顔をあげて見つめる。
開店前のこの時間がクリスは好きだった。
初めて日本に来てしまったときから、いつも一緒にいる。
自分にできることはないかと考えたとき、店の掃除をすることから始めたからだろうか。
じっとシュウを見つめるのではなく、掃除の合間にチラリとみるシュウの後ろ姿が好きだからだろうか。
言葉を交わさなくても、一緒にいることを感じる時間であることは間違いがないと思った時、それがクリスの中で理由になった。
「こちらこそ ありがとう」
クリスは嬉しそうな笑顔で言った……。
土鍋ごはんが炊けたようだ。
クリスがカウンターに座り、今か今かとシュウの料理を待っている。
丸いお盆には、二人だけが使うお揃いの茶碗。
二人専用の汁椀が用意されている。
業務用の上火ロースターで焼いた鰆の西京焼きを備前焼の角皿に乗せると、お盆の上に乗せる。
汁椀には里芋と油揚げの味噌汁が湯気を立てており、それをそのままクリスの前へと運んでくる。
「あれ?ごはんは?」
クリスが不思議そうに尋ねると、シュウは鍋敷きを置いて厨房に戻ると、土鍋に炊いたご飯をそのまま持ってやってくる。
目の前で土鍋の蓋が取られると一気に湯気が立ち上り、目の前は真っ白になるのだが、炊き立てのむせかえるような、微かに焦げた穀物の香りと甘い匂いが混ざり、クリスの鼻をくすぐる。
「ゴクッ」
クリスの口の中は既に洪水状態なのか、唾液を嚥下する音がはっきりと聞こえてくる。
だがシュウは茶碗にご飯をよそうことはなく、土鍋の上に、蕪の浅漬けと刻んだ生姜、塩を掛けると一気に混ぜ込んでいく。
白いごはんから熱が加わり、鮮やかに発色した蕪の葉の緑がとても美しい。
ようやく、茶碗にごはんがよそわれ、クリスの前にコトリと置かれる。
「おまたせ、蕪の混ぜご飯だよ」
そういうと、シュウは自分の茶碗にも混ぜご飯をよそい、席についた。
ふたりは、お揃いの箸を持ち、手を合わせる。
「「いただきますっ!」」
ふたりが最初に箸をつけるのは、味噌汁だ。
これは、食べる際の作法というもので、汁物で箸を湿らせることで、米粒などが箸につきにくくなるためだ。また、口や喉も湿らせることで、そのあとの食事もスムーズになるという利点もある。
だから、具には手をつけず、ひと口だけ、汁を飲むところから始まる。
口の中にふんわりと広がるいりこ出汁の香り。
そこに、麹をたっぷり使った白味噌と、じっくり寝かせた赤味噌の甘味と塩味が口の中に広がる。
もちろん、いりこのもつイノシン酸と、昆布、味噌が持つグルタミン酸の相乗効果で旨味をたっぷりと含んでいて、甘味と塩味よりも舌を喜ばせる。
今日の味噌汁の具は里芋と油揚げ。
里芋をしっかりと蒸しあげてから皮をむき、味噌汁の具に仕立ててあるのだが、里芋はお玉で潰されている。
こうして潰すことで味噌汁にねっとりとした里芋が溶けだし、軽くとろみがついて、口に入れると濃厚に感じるのだ。
「ほぅ……」
味噌汁を堪能すると、クリスの口から自然と吐息が漏れる。
異世界でひと仕事したあとの味噌汁は、じわりと口の粘膜や喉からも身体にしみこんできて、その感覚になぜか安堵するかのように漏れてしまう。
そして、左手の汁椀をごはんの入ったお茶碗へと替え、蕪の混ぜご飯を箸で掬って口元へ運ぶ。
グロスを塗ることで艶を増したぷっくりとした唇の前で箸を止めると、クリスは先ず香りを先に楽しむ。
炊き立てのご飯には、昆布と塩で漬け込まれた蕪の浅漬けと、千切りの生姜が混ぜ込まれており、少し鄙びた蕪の香りが湯気と共に広がってくる。
そして、艶々とした唇がそっと開くと、ふぅふぅと息を吹きかけ、熱を冷ます。
そうしてようやく、箸に乗った蕪の混ぜご飯が口に入る。
口の中に入るまでは感じることがなかった、蕪の葉の爽やかな香りが広がり、球根部分はジャクジャクと音を立てる。すると、今度は球根部分から土のような、鄙びた香りが広がってくる。
舌には、蕪の浅漬けが吸った、昆布の旨味と、海水から作った自然塩のやさしい塩味。あとは、たまに生姜の辛さがやってくる。そして、噛み続けると米粒がじんわりと甘さを広げてくる。
「んーーーっ」
お行儀が悪いが、クリスは足をじたばたさせて気持ちを表現する。
口の中に残った蕪の混ぜごはんを飲み込むと、下からシュウを見上げるように覗き込む。
「おいしっ!」
そのひと言のためだけに、自分の目を見つめようとしてくるクリスを見て、シュウは頷くと、ニッコリと笑う。
クリスは、味噌汁の具である里芋を箸で切ると、油揚げと共に口に入れる。
油揚げからジュワッと味噌汁が広がると、やさしい味噌の香りと、いりこ出汁の香りが混ざり合って広がっていく。歯で噛みしめた里芋はねっとりと舌や上顎、歯茎に絡みつくように広がり、吸い込んだいりこ出汁と味噌の旨味、甘味、塩味をじんわりと染み出していく。
「んんんーーっ!」
またクリスは足をじたばたさせ、軽くのけぞるように天を仰ぐと、しっかりと咀嚼して、嚥下する。
「里芋と味噌汁ってあうんだね!」
クリスは目をまるくしてシュウを見て言う。
「ああ、少しとろみがつくし、豆腐のようにワカメやネギともあうぞ」
「そうなんだね!」
ふたりで食べる賄いは、客には出さない味噌汁がいろいろと出てくる。
その中でも、里芋を使った味噌汁は特に美味しい方だとクリスは思うのだが、客に出さない理由がよくわからない。
「お店ではださないの?」
「手間がかかるから、他の料理に手がまわらなくなるんだよ……」
たしかに、豆腐を使ったものと比べると、里芋は手間がかかりすぎる。
クリスがテレビに出てしまってから、客足は閉店まで絶えない日が続いているので、日本で出すには少々厳しい。
仕込みでたくさん用意しておくこともできるのだが、それでは異世界の店の営業時間も厳しくなるし、原価も豆腐よりはかかってしまう。
「
そういうと、シュウはまたニッコリと笑顔になる。
その笑顔をみて、クリスもまた嬉しそうな笑顔を見せる。
クリスはようやく鰆の西京焼きに箸を伸ばす。
箸の使い方にも慣れてきたようで、箸で上手に身を解し、目の前に運ぶ。
シュウは少し心配そうにそんなクリスを見つめている。
西京漬けは、シュウが修業した京都の街の代表的な料理の一つだというのもあるが、焦げやすく火加減がとても難しいので、たまに焼かないと腕が落ちる気がするのだ。そこで、今日の賄いに出してみたのだが、クリスの口には合うか心配しているようだ。
そんな心配をよそに、クリスは箸の先につまんだ鰆の身を観察する。
ほとんど焦げ目はないが、均一に火が入った鰆の身はホクホクと白い湯気を上げている。日本酒と味醂で伸ばした白味噌に漬け込んだことで甘い香りと酒の香りがその湯気にのって漂ってくる。
口に入れると、その香りは更に強く鼻腔へと抜けていく。表面は焦げてはいないがほどよく水分を失っていて、漬け込んだ西京味噌や味醂の甘み、酒の味が舌に伝わってくる。だが、咀嚼をすると、柔らかい鰆の身がホロリと崩れ、じんわりと身の味が舌の上に広がる。
「ふしぎな香りのする魚だけど、甘くて旨味もあって美味しいわ」
そういうと、またクリスはニッコリと笑顔を見せ、その笑顔を見たシュウが笑顔になる。
そして、クリスが蕪の混ぜご飯を口に入れると、西京焼きの甘さが広がっていた口の中は、塩と昆布の味へと塗り替えられる。次に飲む里芋と油揚げの味噌汁は、旨味の詰まった味を口の中に広げていく。
甘めの料理、塩気のあるごはん、とろみがついて旨味が濃いお味噌汁。
そんな組み合わせを楽しんで、ふたりの幸せな時間が過ぎていった。
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