第4話 豚しゃぶの和え物(2)

 

「ごゆっくりどうぞぉ」


 艶々と輝くピンクの唇が男の目の前で動き、そう音を発する。

 また、クリスの髪の匂いとグロスで輝く唇に見惚れていた男はその声をただボーッと聞いていたが、クリスが離れていくと、ハッと気が付いたように動き始める。


 丸盆の上には、土を焼いて作った飯茶碗が左側にあり、炊きあげられたばかりの白い穀物の粒が艶々と光っている。

 その右隣にあるのは木を削って作った椀。そこに茶色い味噌汁が入っている。味噌汁には豆腐とワカメ、青ネギが浮かんでいる。

 そして奥にあるのは土を焼いて作った茶色く丸い器。中には、ミョウガ、白ネギ、生姜を刻んだもの、大葉を刻んだものと、茹で上げられた極薄切りの豚のロース肉が混ぜ込まれている。


 男は、目の前に輝く白い穀物……そういえば店の前にいた商人が言っていた「ごはん」というものだろう。

 なんでも、他の行商人が今朝ここで食べたあと、これほど美味い穀物はないから是非とも食べにいくようにと言いまわっていたそうだ。

 そこまで美味しいものだというのなら、楽しんでやろうじゃないかと男は箸をつかって器のごはんを掬う。

 だが、茶碗は丸いトレイの上に置いたままなので、ポロポロと落ちてしまう。器を左手に持って食べるということを知らないのだ。粘りがある日本の米を使っているので、そんなにひどいわけではないが、それでも食べにくそうだ。


「ああ、木匙がありますので使ってくださいね」


 少女がトレイの上にある木匙を指す。


「この箸というのは難しいものだな」

「左手で器を持って食べると、箸でも簡単ですよ」


 料理人のシュウがジェスチャーを加えて説明してくれる。

 だが、男は器を持って食べるということに慣れていないので、とても違和感を感じる。


 男は漬物なら箸を使って取るのもいいが、ごはんとスープはまだ湯気を立てているのだから、熱いうちに食べたいと考えたのだろう。潔く箸を使うのはあきらめ、木匙をとって食べはじめた。


 炊き立ての白いごはんは、まだ艶々と輝き、少し穀物の焦げたような匂いを漂わせているが、木匙で少し掬って口の中に入れて咀嚼をすると、少しずつ甘みがでてくる。


 次に味噌汁を木匙で掬い、口へ運ぶ。

 はじめて食べる白く四角いものは芯まで熱が通っていて、舌の上で潰すとけっこう熱い。


「んごっ……」


 そういうと、つい飲み込んでしまったようだ。

 胃袋に届くまで、熱いたべものが通っていくのを感じながら、男は軽く苦悶する。


 ふぅと一息つくと、クリスと話す機会を作るため、男は顔をあげて尋ねる。


「この白いものはなんだい?」


 だが、残念なことに返事をするのは料理人の方だ。

 少し嬉しそうに笑顔を見せ、丁寧に説明をはじめる。


「白いのは豆腐というものです。えっと……なんだっけクリス?」

「『大豆』ね」


 客の男は料理人が少女の名を呼んだところは聞き逃さず、しっかりと脳内の側頭連合野へと書き込んでいく。


「ああ、その『大豆』を水に漬け込んでからすり潰し、煮込んで濾した汁にニガリというものを入れて固めたものです。緑色のヒラヒラとしたのは、海で採れる草……『ワカメ』という海草ですよ」

「ほう……」


 男は納得したように返事をすると、次は奥の丸い器へと目を向ける。

 様々な薬味が混ぜ込まれた豚の薄切り肉を木匙で食べるのは難しい。

 手元に置いた箸に持ち替え、一切れを箸先でつまむと、そのまま口の中へと入れる。


 いろんな薬味が入っているが、一番最初に感じるのは薬味と混ぜる際に入れた汁の味だ。

 特に強く感じるのは柑橘類の酸味と香りである。そこに漬物にもつけた醤油と海藻の出汁の味が加わっているのだが。あとはニンニクの香りが少しするという程度で、他に加えられているモノまで、この男にはわからない。

 とにかく、咀嚼していると肉の味がしっかり伝わってくるが、非常にサッパリと食べられる。

 脂の旨味もしっかりあるが、この混ぜ汁の酸味がそれを軽く感じさせてくれているのだ。


「これはうまいっ!」


 男は、口の中に少し豚肉が残った状態で、ごはんを口の中へと運ぶ。


 すると、ごはんが口の中に残った豚肉の余韻を蘇らせ、咀嚼と共にぼんやりと消えて甘さに変わっていく。


 おかずの余韻を楽しませ、そして次に食べるものへ、舌の準備をさせてくれる。

 それが「ごはん」だということに気が付いた。


 スープに匙を入れ、口へ運ぶ。


 今度は汁だけなのだが、その優しい味が舌や歯茎、上顎などの粘膜からじんわりと旨味を伝えてくる。とても優しい味だ。

 さっきは豆腐の熱さで気がつかなかったが、このスープは身体に染み込んでくるようだ。


「このスープもしみじみと美味いな……」


 男はそう呟くと、また味噌汁を掬って口へ運び、ごはんを口に入れる。


 いりこ出汁とワカメの旨味、味噌の味がごはんに混ざり、咀嚼と共にやさしく消えてゆくのだが、男には出汁の材料は魚だろうということしかわからない。

 ただ、どこを見ても魚はないのが不思議で、何度か木椀の中を浚って探すのだが、やはり見つからない。


「なぁ、これは何で魚の味がするんだ?」

「『いりこ』という魚と、『昆布』という海藻で出汁をひいたからですよ」

「中には魚がはいってないぞ?」


 客の男は至極まじめに問い返してくるのだが、いりこや鰹節を知らない国の人たちなのだから、この反応は当然かとシュウは思い、今度は簡単に説明する。


「魚でスープを取ると、その魚は取り出して別の料理に使うんです」


 骨のようにスープを取ったら捨てるのではなく、他の料理に使うということに男は感心する。このマルゲリットでもスープをとる料理はあるのだが、「スープをとる」という。出汁を「ひく」という言葉に何かひっかかりを感じつつ、男は料理に意識を向けなおす。


 さあ、メインの肉を……と思った時、ごはんがなくなっていた。


 すると、クリスが小さな蓋つきの木桶を持ってきて、丸いトレイの横に置く。


「ごはんのおかわりは自由ですので、楽しんでくださいね」


 あのごはんが食べ放題とは、なんてお人好しな店主なのだろう……だが、それならそれで心ゆくまで楽しんでやろうと男は思ったのか、最初は訝し気な目をしていたが、すぐに生き生きとした目になり木桶の蓋を取る。


「よしっ」


 男は独りごちると、おかわりのご飯をよそい、また豚肉に手を伸ばす。

 今度は、いろいろな薬味を、広げた肉で巻いて食べる。


 豚肉は茹で上げられてまだ少し暖かく、薄いのでとても柔らかい。背中の肉を使っているようで、縁には白い脂身がついているが、その熱せられた脂身は甘い味を楽しませてくれる。

 といっても、茹でられているので必要以上の脂は抜けており、柑橘の酸味もあってサッパリしているくらいだ。

 薬味は、鮮烈な香りのするミョウガ、ミョウガとはまた違う鮮烈さを持つ大葉、白ネギと刻んだ生姜だ。

 混ぜ合わせることで、薬味と調味汁が混ざり合い、豚肉が持つ獣臭さを消すだけでない。生姜はガリガリとした歯触りを与え、白ネギはねっとりとした甘みとシャクシャクとした歯触りを加える。また、ミョウガは齧った瞬間に味付けの濃さを忘れてしまいそうになるほどの強烈な香りが口に広がり、食べている途中でも口の中がリセットされる。また、大葉はこの中でも風味全体に一本の芯を入れるかのような香りがあり、豚肉の獣臭さを消すための土台になっているの。

 そこに混ぜ汁がもつ柑橘類の香りと酸味、醤油や昆布、ニンニクの風味が豚肉の味を一気に高めてくれるのだから、まずいわけがない。


 また、不思議なことに、普段は酸味の効いたものは自分から選ぶことはないのだが、この豚肉料理は酸味が効いていて実に美味い。


 男は薬味を巻き付けた豚肉を半分齧り、何度か咀嚼して飲み込むと、次はごっそりとごはんを口に入れる。

 ごはんで豚肉の味を楽しんで飲み込むと、残りの豚肉を口に入れ、またごはんを口に入れる。


 男がそれを繰り返すと、最後に残ったのは、味噌汁と漬物だ。

 マルコと同じように、ごはんを味噌汁に入れて食べる方法、お茶漬けで食べる方法を教わり、男は結局5回もごはんをおかわりした。


「ふぅ……美味かった!」


 知らない間にクリスはカウンターに入っており、シュウと並んで立ち、目を細めてその様子を見続けていた。


「この肉にかかっていたタレはなんだい?」

「ポン酢という調味料で、『昆布』という海藻からとったスープに柑橘の汁、『大豆』と『小麦』を発酵させて作る醤油という調味料……あと、『米』からつくる酒と味醂というものを入れたものです」


 ニッコリと笑うクリスが答えてくれるのだが、何かがひっかかる……


「酒、あるんじゃねーか」

「あ……」


 ハッと驚いたような顔を見せるクリスが、ギギギッと音をたてるかのようにゆっくりとシュウを見上げるのだが、シュウは苦笑いしながら答える。


「あるにはありますが、料理用です」


 当然、普通に飲める純米酒なのだが、シュウはゴネられても出す気はない。


 さて、客の男にすれば初めて見る食材と、初めて聞いた調味料なので少しは興味があるのだが、それ以上に興味があるのはクリスのことだ。


「お嬢さん、クリスっていうのか?」

「はい、クリスって呼んでくださいね。

 こちらは料理人のシュウさんです」


 今度はフルネームで自己紹介するということはないようだ。

 一瞬、焦るような顔をしたシュウだが、紹介されて慌てて頭を下げる。


「オレはリック。このマルゲリットの門兵をしているんだ。

 こんな格好だから信じてもらえないかも知れないが、この大嵐で数日泊まり込みだったんだよ」

「ああ、それでそんなに汚れた格好をしているんですね……」


 クリスやシュウも先日の大嵐のことは知っている。

 日本でいえば、大型台風が直撃したようなものだ。

 だた、日本のように治水が進んだ都市てもない割に、この城塞都市マルゲリットは何事もなかったかのように平然としている。


「ああ、街の外はすごいことになっていたからな。

 嵐が去ったら街道の泥濘に土を盛って整備。昨日は一日中、街に入ってくる商人たちの身分確認だ。そしてクジで負けてさっきまで夜警の仕事だよ」

「それはお疲れさまです」


 クリスはそういうと、熱いお茶を淹れて差し出す。


「昨日はクジで負けて運の悪さを恨んだが、こうして美人のお嬢さんとお知り合いになれたんだから、悪くはなかったぜ」


 キラリと白い歯を見せるリックだが、数日は水浴びもできていない身体で、髪は皮脂でベットリとした不衛生ないでたちである。もちろん、爽やかさの欠片もない。



 その時である――朝三つの鐘が街に鳴り響いた。


 クリスは店の入り口に向かい、引き戸を開く。


 何かに驚いたようなポーズで固まるクリスは、なんとか声を絞りだす。


「こ……こんにちわ」


 リックが入ってきたときの三倍くらいに増えた商人たちが、店の前でジッと様子をみていたのだ。

 クリスが挨拶しても、また無言のままである。


 クリスは店の外に掛けた暖簾を店内に引き入れ、「準備中」と書いた木の板を店前に掛ける。


「また明日の朝二つの鐘から営業します。お待ちしています」


 そういうと、引き戸を閉めて鍵をかけた。


 まだリックは店内に残っているが、昼の仕事をするためだから仕方がない。


 こうして初日の営業時間は終了した。


 たった二人の客しか来なかったが、美味しそうに食べてくれたことが何よりもうれしいクリスであった。

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