小さな恋の短編集
西川笑里
エピソード1 オンユアマーク
高校一年の夏休み前、私に初めての彼氏ができた。
彼は他のクラスの男の子で、ほとんどしゃべったことがなかったけど、彼と同じクラスにいる私の中学からの友達にすすめられて、思い切ってつきあってみることにしたのだ。
そして私たちは夏休みをむかえた。
私は高校に入って部活には入らなかった。だから彼にプールに誘われたとき断る理由をすぐに考えつかなくて、しかたなく「行く」と言ってしまった。
とりあえず、プールサイドで遊ぶにしても水着がないと様にならないので、高校生になったし、初めてのビキニを買ってプールに行った。
「おいでよ」
プールサイドで足を水につけて遊ぶ私に、彼はさかんに一緒に泳ごうと言う。
夏真っ盛りのプールは人でごった返していた。
「実は泳げないの。だからごめん」
私は事情があって、一生懸命に断った。だけど、彼が水の中から右手を伸ばして私の手を取る。しかたなく私は恐る恐る水に入った。
「僕がついているから大丈夫」
彼には言わなかったが、実は私は泳げないフリをしていた。
「僕が両手をつかんでいるから、バタ足で泳いでみたらいいよ」
そう言って彼に両手をつかまれた私は、顔を水につけないようにしながらバタ足で泳げないふりをする。
「顔をつけてごらん」
次に彼にそう言われたけど、今度は実は本当にそれができない。
「大丈夫。絶対手は離さないから」
ついに観念するしかなかった。そして私は思い切って水に顔をつけた。
恐怖が蘇った。私が一生懸命に泳ごうとしても、どんどん岸から離されていく。
「お盆を過ぎたら、海で泳いじゃいけないよ」
パパからそう言われたことがあった。
--大丈夫。私を誰だと思ってるの。
記憶が頭を巡る。
--私は中学記録保持者だよ。
中学3年の夏、私は自由形の中学記録を作った。オリンピックが現実のものとなっていく。海外遠征にも参加するほど期待されていた。
--その私が海ごとき泳げないくてどうすんの。
そう。私は海をなめていた。泳いでも泳いでも岸から離されてゆく。
離岸流につかまった私はなすすべもなく、岸がどんどん遠ざかっていった。
気がついたときには、私は地元の漁師さんの船に助け上げられていたのだ。
そして、私は水が怖くなった。泳げなくなったのだ。
「もう一度、泳いでくれないか」
私の両手を持った彼が突然言った。
「あの日、君が記録を作った日、僕も選手としてあの場所にいた。そして僕は君の泳ぎを見たんだ」
真剣な顔をして彼は続けた。
「君が泳げなくなったのは君の友だちから聞いたよ。彼女も心配してた。そして僕も、君がもう一度泳ぐところをみたいんだ」
「でも私……」
「僕はあの日からずっと君のファンだった。高校に入ったとき君がいるのを知ってどんなにうれしかったか君は知らないだろう。それほど君の泳ぎはすてきだった。お願いだ。もう1度君の泳ぎを僕に見せてくれないか」
「でも、中学三年の夏から私は一度も泳がなかったのよ。今日、本当に久しぶりに水に入った。もうあの頃のような泳ぎは」
「でも水には入れた。大丈夫だよ。そのビキニの君も可愛いけど、競泳用の水着が君には一番似合うと思うんだよ」
返事ができずに、黙って彼の手をほどいてプールから上がる私の背中に、彼の声が響いた。
「オンユアマーク!」
私が振り向くと、彼が水の中から笑顔で私を見つめ、その右手を高く空に差し出している。持っているのはピストルのつもりだろう。
--いまどきピストルなんか世界じゃ使わないよ
そして涙の私は、彼に向かって一歩足を踏み出した。
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