月下香

七海けい

第1話


 これは、一時の熱情に身を任せ、月から“飛び下りた”一人の姫の物語である。



 彼女の呼び名はかぐや姫といった。

 なよ竹から生まれ出で、僅か半年余りで気品と分別を得て、都の女御や内宮にも引けを取らない、あらまほしき大人の女性となった彼女は、たちまち宮中に呼び立てられ、育ての親と共に、上京する次第となった。


「──婆さんや。近いうちに、愛しの我が子が貴族様になるかもしれないぞ?」

「──そうですねぇ。愛しの我が子が、殿上人になるかもしれませんねぇ」


「……」


 上京の途中、大勢の衛士と飾り車に守られた牛車の中で、かぐや姫はこのような会話を散々聞かされた。姫はなるべくその手の話題を聞き流しながら、晩夏を彩る法師蝉の鳴き声に耳を傾けていた。


「……しかし、もし、本当にどこかの高貴な御方が姫を見初めてしまったら、儂らと姫は、離ればなれになってしまうのか……?」

「そうですねぇ……。親戚づきあいくらい、あるかもしれませんねぇ」


「婆さんや。儂らは、つい最近まで土をいじくって生きてきたのだぞ? 今更、どうやして貴族様の真似事ができようか」

「そうですねぇ。……まぁ何とかなりますよ。だって、わたし達が特に何かをした訳でもなく、姫はあんなにも立派な娘に育ったではありませんか」


「……」


 かぐや姫は、育ての両親である老夫婦に深く感謝していた。いっそのこと、このまま三人で天寿を全うするのも悪くないのではないか……そんなことも、ぼんやり思いかけていた。


 しかし、かぐや姫にもまた、都にどうしても行かねばならない事情があった。


 姫はその事情のために、わざわざ、月界から地上界に降り立ったのであった。



「──“若竹”の御成ぃ~っ!!」


 喝采と歓呼に迎えられ、鈴や太鼓の音色に包まれて、無数の奇異の視線に囲まれながら、かぐや姫の御一行を戴いた仰々しい牛車の行列が、羅城門と朱雀門の間を過ぎていった。


 ──噂の姫君が、遂に都に来たらしいぞ

 ──京の好色家連中が色めき立っている


 風聞はあっという間に千里を飛び、畿内の方々を駆け巡った。そして、「我こそは」という年頃の貴人や美男子達が、各地から、かぐや姫が泊する大内裏の一郭に押し寄せた。


「余は学問に覚えがある。唐国の事情にも精通しているから、渡来の品にも明るいぞ」

 と、石作皇子なる貴人は言った。


「私は良き人脈と権力を持っている。京の都は薄暗い噂も多いが、私といれば安全だ」

 と、阿部御主人なる公卿は言った。


「それがしは富に恵まれております。これまでの不如意な暮らしとは、おさらばです」

 と、車持皇子なる貴人は言った


「拙者は武勇に秀でております。姫に万一のことがあれば、拙者がお守りいたします」

と、大伴御行なる公卿は言った。


「わたくしの取り柄はただ一つ、面白い話をすることです。決して退屈はさせません」

 と、石上麻呂足なる公卿は言った。


 彼らは七日七晩、かぐや姫の元へと通い続けていた。姫の方はと言うと、御簾の向こうで隠れるように佇むばかりで、時折、気のない返し文を出すだけであった。


 五人の応接は、お爺さんとお婆さんが受け持った。将を射んと欲すればまず馬を射よ、のつもりなのか、五人の求婚者達は、こぞって二人に貢ぎ物をした。


「……かぐや姫や。儂は、石作皇子様が良いと思う。あの御方は帝の一族に連なる御方でもあるし、とても見識に富んだ御方じゃ。近い将来、さぞや出世なさるに違いない。それに、非常に好奇心の旺盛な御方で、お前にも並々ならぬ興味を抱いておる」

「……わたしは、車持皇子様が良いと思うねえ。あの御方は、お金の貯め方だけじゃなくて、使い方も良く分かっていらっしゃる。わたしや爺さんも、随分と親切にしてもらったよ」


 やがて老夫婦は、かぐや姫に節介を焼くようになった。


「……私は、どなたにも興味がありません」


 かぐや姫は、冷めきった声で答えた。


「そう言わずに、誰か一人くらい、会ってみないかい?」

「今晩が嫌なら、別の日でも良いよ。都で一番偉い星読みの人に、日和を決めてもらおうか?」


「ぃえ……。日和も相手も……縁が無ければ意味がありませんから」


「……ならば、お前はどのような方が良いのだ?」

「言ってくれたら、わたし達が探してあげますよ」


 老夫婦の問いに、かぐや姫は目を逸らした。

 いくらか思案した後、伝わるはずのない本心を告げることにした。


「……あの五人よりも控えめで、物憂げで、それでいて情熱的で、容姿は玉のように美しい……そんな方を待ち望んでいます」


 ことのほか高い要求を突き付けられた老夫婦は、しばらく黙り込んでしまった。


 かぐや姫は小さく、薄く、気付かれない程度に、御簾の陰で溜息をついた。姫は堅苦しい装束の中で身じろぐと、脇息に寝そべって、退屈そうに、檜扇を弄んだ。


『──ね。言った通りでしょう?』

「……」


 都に来てからと言うもの、毎日のように、物ノ怪の声……否。“月の声”が、かぐや姫の耳を悩ませていた。


『貴女は何度も聞いたはずよ。貴女のお爺さまとお婆さまが、その浅ましい我欲を吐露した瞬間を。貴女は何度も感じ取ったはずよ。地上の男達が、こぞって貴女を手込めにしようと企んでいることを』

「……」


 月の声は舐めるように、絡め取るように、かぐや姫の耳をくすぐった。


『貴女が探した“それ”は、地上にも、月の世界にもありはしないのよ?』

「……っ」


 かぐや姫は、パチンと扇を閉じた。姫の意図を組んだのか、月の声は止んだ。とは言え、これは一時の気休めに過ぎなかった。しばらくすれば、また語りかけてくる。それが、月の声だった。


「……」


 御簾の向こうから、松虫の音が聞こえてきた。直にトンボが舞い始め、百舌鳥が鳴き、鮭が跳ねる秋が訪れる、そんな季節だった。それはつまり、十五夜の到来を告げる無形の文であり、姫からすれば、ある種の“門限”を示す言づてだった。



 かぐや姫は一計を案じて、五人の貴公子達を一蹴することにした。


 姫は五人の貴公子達を呼び出した。そして、婚前の条件などと称し、それぞれに無理難題を突き付けたのだった。

 石作皇子には御石の鉢を、阿部御主人には火鼠の毛皮を、車持皇子には蓬莱の玉ノ枝を、大伴御行には龍首の玉を、石上麻呂足には燕の子安貝を、それぞれ、次に会うまでに持ってくるよう、姫は彼らに要求した。


 その結果、五人の貴公子達は悉く恋破れ、すごすごと退散したのであった。


 数日後。


「──かぐや姫や! よくやったぞ!」

「──さすが、愛しの我が子ですねぇ」


「……? お二人は、いったい何を喜んでいらっしゃるのですか?」


 御簾越しに、かぐや姫は首を傾げた。


「五人の貴公子達を追い払ったことが、都じゅうで話題になっておる」

「その御陰で、お前に対する求婚が、さらに激しくなっているんだよ」


「あの五人でも歯が立たなかった姫君を、是非とも私に引き合わせて欲しい……そう仰る方々が、以前にも増して熱心に訪れてくるのだ」

「何でも、噂は帝の耳にも届いているらしいよ」


「……」


 かぐや姫は、ぐったりとした動きで天井を仰いだ。


『──ぁら、良かったじゃない。いっそ、地上に根を張ったらどうなの?』


 月の声は、からかうように言った。


「……」


 かぐや姫は力なく、部屋の隅の方を見やった。香炉の横に、小ぶりな桐の薬用箱が置いてあった。それは、姫の内職でもあった。


『……そう言えば。その“不治の薬”は、いったい誰に使うつもりなの?』

「貴女には関係ありません……」


 かぐや姫はシッシッと言う風に、扇を振った。


『ひょっとして、“あの方”への贈り物かしら?』

「……陰陽寮から人を呼びますよ」


 かぐや姫は口を尖らせて言った。その頬は、少し赤らんでいた。


『冷たい子。……ぁあ、そうそう。次の満月の晩。迎えが来るから準備しておきなさい』


 冷たい調子で、月の声は言った。



 十三夜。

 かぐや姫は、自分が月の住民であること、そして、明後日の晩、月界へ帰らねばならないことを老夫婦に伝えた。

 老夫婦は仰天して、すぐさま、このことを帝の耳に知らせた。

 それを聞いた帝はたいそう仰天し、すぐさま、衛門府から千人余りの兵士を駆りだした。彼らはかぐや姫の周りに配置され、日夜を問わず、姫の護衛するよう申しつけられた。


『無駄なことを……』


 月の声は嘲笑った。


 二日が経って、満月の晩。

 遂に、迎えの時が訪れた。


『それでは、かぐや姫……否、“嫦娥”殿。西王母様がお待ちです。至急、月界に』

「もう少し、待てませんか……?」


『いいえ。できないわ。──』

「──っ!」


 青白い風が、御簾を吹き飛ばした。外を見て、かぐや姫は悟った。

 千人の衛士達は誰も彼もが力尽き、情けない様子で地面に這いつくばっていた。老夫婦も、様子を見に来ていた帝の使者も、同じような有様だった。


『……嫦娥殿。早く御車へ』


 月の声は、遂にその姿を現した。彼女は透き通るような、淡い五色を帯びた天女の羽衣を纏っていた。他に、三十人の天女達が、七宝に彩られた唐車と共に現れた。


「……」


 かぐや姫は薬用箱を携えて、廂に出た。

 月光に照らし出された姫の顔は、曇りきった諦観の情と、薄暗い無念の気持ちに染まっていた。


 かぐや姫は、月界の“侍女”が用意した足掛けを踏み、唐車に乗り込んだ。


「──失礼」

「──!?」


 その“侍女”は何食わぬ顔のまま、かぐや姫の背を押すようにして、唐車に乗り込んだ。

 かぐや姫は動揺し、動転し、そのまま、唐車の奥の方へと、転がるように押し込まれた。


『何事か!』


 天女達は一斉に矛を構え、その鋒を唐車に向けた。


 その様子を、物見格子の隙間から見たかぐや姫は、狭苦しい唐車の中でどぎまぎした。


「──若竹の姫君とは、貴女様のことですか?」

「……は、はぃ……?」


 天女の姿をした“彼女”は、羽衣を捨て去った。


「お初にお目にかかります。わたしは、宮中では“光の君”と呼ばれているものです」

「ぁ、貴方が……」


 かぐや姫は、半ば絶句気味に驚いた。姫は薬用箱を小脇に置き、取り乱した様子で、衣の細々としたところや、髪の乱れたところをせっせと整えた。


『……そこの人間! いつから、どうやって天女の中に紛れ込んでいたのか!?』


 唐車の外から、無粋な怒声が浴びせられた。


「いつからか。それは今し方でございます。どうやって? はてさて、おかしなことを仰る天女様ですね。……見紛う方に瑕疵がある。ただ、それだけのことでございます」


 光の君は慇懃無礼なまでに、月の者達を口先であしらった。


『人間の分際で月の者らにこの仕打ち……百万が一にも許される行いではないぞ』

「ご安心を。間違っても、このまま車輪を軋ませるような真似は致しませぬ。……それより、どうかそちらの矛も収めていただきたい」


『……貴様っ、どこまで月界を愚弄すれば気が済むのか!』


 その言葉とは裏腹に、唐車を包囲する鋒は一歩後退した。


「やれやれ……。彼女は、葵の上よりも気が強いのですね」


 光の君は、肩をすくめた。

 薄く差し込んだ月光に、光の君の笑みが照らされた。女にも見紛う容貌と、切れ長の目が際立った。


「……光の君は、本当に人間なのですか……?」


 かぐや姫は恐る恐る、目の前の貴人に問うた。


「はい。……そのことは、貴女が一番に御存知の筈ですよ。……ずっと、御覧になっていたのでしょう? わたしの浅ましい……夜の行いの数々を」


「……」


 光の君は微笑した。

 図星を突かれたかぐや姫は、恥じて目を逸らした。


「いつ頃から、貴女はわたしのことを見守っていらしたのですか?」


 光の君は、吸い込むような瞳をかぐや姫に向けた。

 かぐや姫は恥じらいながら扇を開き、顔の下から半分ほどを隠した。


「始めから……です。ただ、気を払うようになったのは、光の君が、須磨に流される直前の辺りからです……」


「3年前……ぁあ……、わたしが、朧月夜に手を出した頃ですね。……あの時は、わたしもどうかしていたのでしょう。政敵の妹君であることまでは知っていても、まさか、彼女が帝のお気に入りだったとは……。一生の不覚です」


「……嘘を仰いませ。流された先でちゃっかり新しい女子おなごをものにしている辺り、存外、須磨での暮らしも悪くなかったと思っているのではありませんか?」


 かぐや姫の挑発的な問いに、光の君は小さく笑った。


「新しい女子おなご……明石の上のことですね。ぃや、本当に貴女はわたしのことをよく見ていらっしゃる」


 参りましたね。という風に、光の君は微笑んだ。


「……しかし、若竹の姫君。いったい何を好き好んで、世に虫の数ほどいる男子の中から、よりにもよって、わたしを選んだのですか?」


「それは……」


 光の君の自嘲気味な問いに、かぐや姫は口籠もった。


「わたしのような、ただ母の生き写しを求め、探し続ける抜け殻など、……滑稽であっても愉快なものではないでしょう」


「そんなこと、ありません!」


 かぐや姫は、強い声で訴えた。

 愛に渇き、慈しみに飢え、耐え難い心の隙間をどうにか満たすために、ただひたすらに情を追い求めている光の君が、ふとした瞬間に、その栄華と艶事の裏側で、どこか虚しさを覚える様は、少なくともかぐや姫にとっては、滑稽の一言で片付けられるような、陳腐なものではなかった。


 かぐや姫は、桐の薬用箱を膝に乗せた。


「それは……?」


 光の君は問うた。


「不治の妙薬です。……月の住人と人間が結ばれるには、超えなければならない定めがあります。その一つが、寿命です」


 かぐや姫は、張り詰めた声で答えた。

 それを見て、光の君はおかしそうに微笑んだ。


「やっと分かりました。……貴女は、わたしの真似事をするために、地上界へ降りてきたのですね」


「……っ」


 かぐや姫の箱を握る指が、僅かに力んだ。


「想い続けることに囚われて、ことの分別を忘れ去り、一時の熱は後悔の種と知りながら、刹那の情に我が身を任せてしまう……。わざわざ月の仙薬までこしらえてわたしを迎えに来た辺り、熱の籠もりようが窺えます」


 光の君は物見格子を覗いた。外には相変わらず、天女達が矛を構えて張り付いていた。


「光の君……──どうか私と共に、昇天していただけませんか?」


 かぐや姫は、意を決して、言の葉を紡いだ。

 光の君はかぐや姫の方を見据えると、しばしして、歌を詠んだ。


「“──月草の 藤の花すら 移ろふに 如何で我が身を 不死になすべし”」


「……、」


 かぐや姫は俯くと、力が抜け出ていくように、肩を落とした。

 藤の花は、藤壺の寓意に他ならなかった。


 藤壺は、光の君が須磨に追われる前に出家していた。彼女は、光の君の母の生き写しであり、彼女が寺に籠もって以来、光の君の遍歴は、よりいっそう洗練され、また、放埒さを増していったのだ。


「……玉兎の高みは、わたしには恐れ多い舞台です。京の紫の上や須磨の明石の上でさえ、わたしには勿体ない女子達なのです」


「そんなこと、ありません……っ」


 かぐや姫は、震えた声で言った。

 光の君はそろりと身を押して、かぐや姫を、車の奥に追い詰めた。


「……?」


「……貴女には、どうかわたしの命が尽き、絶えるまで、見守っていただきたく存じます。いずれは我が身も、煙となり果て、天に昇る命運にあります。不死の貴女であれば、決して長い時ではないはずです」


 頬と頬が触れ合うような、近くて、狭くて、薄くらい唐車の中で、光の君は、かぐや姫を包み込むように抱きながら、祈り、乞い願うような声音で囁いた。


「ですから……あと何十年かだけ、待ってもらえますか?」

「はぃ……」


 光の君は、かぐや姫の潤んだ笑顔を見届けてから、唐車を降りた。


 光の君が振り向いた時、そこに唐車はいなかった。天女達もいなかった。そこに転がっていたのは、月明かりに照らし出された、白目の兵士達だけであった。


「──惟光」

「はいっ!」


 光の君の声に応じて、茂みの中から、葛籠を担いだ家来の少年──惟光──が現れた。


 光の君は天女の衣を脱ぎ去り、手短に身支度を整えると、惟光を下げさせ、紫の上が待つ二条院へと向かった。


「──おや、これはこれは源氏殿……かような時分に会うとは奇遇ですな」


 光の君は寝殿と寝殿とを結ぶ渡殿で、悪友──頭中将──に出くわした。


「中将こそ。こんな夜更けに外を出歩くなんて……、さては夜這いかい?」

「まさか。君こそ誰かに愛想を尽かされた帰りですか? 全く。紫の上を悲しませるような行いは慎むべきですよ?」


「余計な御世話だ。……」


 光の君は目を逸らした。


「……で、本当のところは? “若竹”がらみですか?」


 「当たりでしょう?」という風に、頭中将は聞いた。


「……少しばかり、“月下香”を拝みに行っただけだよ」


 それだけ答えて、光の君は頭中将の横を過ぎていった。


「はて、聞き慣れない喩えですね。花の名前か何かですか?」


 首を傾げる頭中将を余所に、光の君は高欄に背中を預け、夜空を仰いだ。


「──目に見えずとも、月の下に立てば、自ずとその香りを知る。……貴女によく似合った呼び名だと思うのですが、気に入ってもらえるでしょうか……?」


 光の君は、虚空に問うた。


 青白くも、温かい。儚くも、爛々とした。

 そんな月の光りが、光の君に返ってきた。



~終~

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月下香 七海けい @kk-rabi

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