月下香
七海けい
第1話
これは、一時の熱情に身を任せ、月から“飛び下りた”一人の姫の物語である。
*
彼女の呼び名はかぐや姫といった。
なよ竹から生まれ出で、僅か半年余りで気品と分別を得て、都の女御や内宮にも引けを取らない、あらまほしき大人の女性となった彼女は、たちまち宮中に呼び立てられ、育ての親と共に、上京する次第となった。
「──婆さんや。近いうちに、愛しの我が子が貴族様になるかもしれないぞ?」
「──そうですねぇ。愛しの我が子が、殿上人になるかもしれませんねぇ」
「……」
上京の途中、大勢の衛士と飾り車に守られた牛車の中で、かぐや姫はこのような会話を散々聞かされた。姫はなるべくその手の話題を聞き流しながら、晩夏を彩る法師蝉の鳴き声に耳を傾けていた。
「……しかし、もし、本当にどこかの高貴な御方が姫を見初めてしまったら、儂らと姫は、離ればなれになってしまうのか……?」
「そうですねぇ……。親戚づきあいくらい、あるかもしれませんねぇ」
「婆さんや。儂らは、つい最近まで土をいじくって生きてきたのだぞ? 今更、どうやして貴族様の真似事ができようか」
「そうですねぇ。……まぁ何とかなりますよ。だって、わたし達が特に何かをした訳でもなく、姫はあんなにも立派な娘に育ったではありませんか」
「……」
かぐや姫は、育ての両親である老夫婦に深く感謝していた。いっそのこと、このまま三人で天寿を全うするのも悪くないのではないか……そんなことも、ぼんやり思いかけていた。
しかし、かぐや姫にもまた、都にどうしても行かねばならない事情があった。
姫はその事情のために、わざわざ、月界から地上界に降り立ったのであった。
*
「──“若竹”の御成ぃ~っ!!」
喝采と歓呼に迎えられ、鈴や太鼓の音色に包まれて、無数の奇異の視線に囲まれながら、かぐや姫の御一行を戴いた仰々しい牛車の行列が、羅城門と朱雀門の間を過ぎていった。
──噂の姫君が、遂に都に来たらしいぞ
──京の好色家連中が色めき立っている
風聞はあっという間に千里を飛び、畿内の方々を駆け巡った。そして、「我こそは」という年頃の貴人や美男子達が、各地から、かぐや姫が泊する大内裏の一郭に押し寄せた。
「余は学問に覚えがある。唐国の事情にも精通しているから、渡来の品にも明るいぞ」
と、石作皇子なる貴人は言った。
「私は良き人脈と権力を持っている。京の都は薄暗い噂も多いが、私といれば安全だ」
と、阿部御主人なる公卿は言った。
「それがしは富に恵まれております。これまでの不如意な暮らしとは、おさらばです」
と、車持皇子なる貴人は言った
「拙者は武勇に秀でております。姫に万一のことがあれば、拙者がお守りいたします」
と、大伴御行なる公卿は言った。
「わたくしの取り柄はただ一つ、面白い話をすることです。決して退屈はさせません」
と、石上麻呂足なる公卿は言った。
彼らは七日七晩、かぐや姫の元へと通い続けていた。姫の方はと言うと、御簾の向こうで隠れるように佇むばかりで、時折、気のない返し文を出すだけであった。
五人の応接は、お爺さんとお婆さんが受け持った。将を射んと欲すればまず馬を射よ、のつもりなのか、五人の求婚者達は、こぞって二人に貢ぎ物をした。
「……かぐや姫や。儂は、石作皇子様が良いと思う。あの御方は帝の一族に連なる御方でもあるし、とても見識に富んだ御方じゃ。近い将来、さぞや出世なさるに違いない。それに、非常に好奇心の旺盛な御方で、お前にも並々ならぬ興味を抱いておる」
「……わたしは、車持皇子様が良いと思うねえ。あの御方は、お金の貯め方だけじゃなくて、使い方も良く分かっていらっしゃる。わたしや爺さんも、随分と親切にしてもらったよ」
やがて老夫婦は、かぐや姫に節介を焼くようになった。
「……私は、どなたにも興味がありません」
かぐや姫は、冷めきった声で答えた。
「そう言わずに、誰か一人くらい、会ってみないかい?」
「今晩が嫌なら、別の日でも良いよ。都で一番偉い星読みの人に、日和を決めてもらおうか?」
「ぃえ……。日和も相手も……縁が無ければ意味がありませんから」
「……ならば、お前はどのような方が良いのだ?」
「言ってくれたら、わたし達が探してあげますよ」
老夫婦の問いに、かぐや姫は目を逸らした。
いくらか思案した後、伝わるはずのない本心を告げることにした。
「……あの五人よりも控えめで、物憂げで、それでいて情熱的で、容姿は玉のように美しい……そんな方を待ち望んでいます」
ことのほか高い要求を突き付けられた老夫婦は、しばらく黙り込んでしまった。
かぐや姫は小さく、薄く、気付かれない程度に、御簾の陰で溜息をついた。姫は堅苦しい装束の中で身じろぐと、脇息に寝そべって、退屈そうに、檜扇を弄んだ。
『──ね。言った通りでしょう?』
「……」
都に来てからと言うもの、毎日のように、物ノ怪の声……否。“月の声”が、かぐや姫の耳を悩ませていた。
『貴女は何度も聞いたはずよ。貴女のお爺さまとお婆さまが、その浅ましい我欲を吐露した瞬間を。貴女は何度も感じ取ったはずよ。地上の男達が、こぞって貴女を手込めにしようと企んでいることを』
「……」
月の声は舐めるように、絡め取るように、かぐや姫の耳をくすぐった。
『貴女が探した“それ”は、地上にも、月の世界にもありはしないのよ?』
「……っ」
かぐや姫は、パチンと扇を閉じた。姫の意図を組んだのか、月の声は止んだ。とは言え、これは一時の気休めに過ぎなかった。しばらくすれば、また語りかけてくる。それが、月の声だった。
「……」
御簾の向こうから、松虫の音が聞こえてきた。直にトンボが舞い始め、百舌鳥が鳴き、鮭が跳ねる秋が訪れる、そんな季節だった。それはつまり、十五夜の到来を告げる無形の文であり、姫からすれば、ある種の“門限”を示す言づてだった。
*
かぐや姫は一計を案じて、五人の貴公子達を一蹴することにした。
姫は五人の貴公子達を呼び出した。そして、婚前の条件などと称し、それぞれに無理難題を突き付けたのだった。
石作皇子には御石の鉢を、阿部御主人には火鼠の毛皮を、車持皇子には蓬莱の玉ノ枝を、大伴御行には龍首の玉を、石上麻呂足には燕の子安貝を、それぞれ、次に会うまでに持ってくるよう、姫は彼らに要求した。
その結果、五人の貴公子達は悉く恋破れ、すごすごと退散したのであった。
数日後。
「──かぐや姫や! よくやったぞ!」
「──さすが、愛しの我が子ですねぇ」
「……? お二人は、いったい何を喜んでいらっしゃるのですか?」
御簾越しに、かぐや姫は首を傾げた。
「五人の貴公子達を追い払ったことが、都じゅうで話題になっておる」
「その御陰で、お前に対する求婚が、さらに激しくなっているんだよ」
「あの五人でも歯が立たなかった姫君を、是非とも私に引き合わせて欲しい……そう仰る方々が、以前にも増して熱心に訪れてくるのだ」
「何でも、噂は帝の耳にも届いているらしいよ」
「……」
かぐや姫は、ぐったりとした動きで天井を仰いだ。
『──ぁら、良かったじゃない。いっそ、地上に根を張ったらどうなの?』
月の声は、からかうように言った。
「……」
かぐや姫は力なく、部屋の隅の方を見やった。香炉の横に、小ぶりな桐の薬用箱が置いてあった。それは、姫の内職でもあった。
『……そう言えば。その“不治の薬”は、いったい誰に使うつもりなの?』
「貴女には関係ありません……」
かぐや姫はシッシッと言う風に、扇を振った。
『ひょっとして、“あの方”への贈り物かしら?』
「……陰陽寮から人を呼びますよ」
かぐや姫は口を尖らせて言った。その頬は、少し赤らんでいた。
『冷たい子。……ぁあ、そうそう。次の満月の晩。迎えが来るから準備しておきなさい』
冷たい調子で、月の声は言った。
*
十三夜。
かぐや姫は、自分が月の住民であること、そして、明後日の晩、月界へ帰らねばならないことを老夫婦に伝えた。
老夫婦は仰天して、すぐさま、このことを帝の耳に知らせた。
それを聞いた帝はたいそう仰天し、すぐさま、衛門府から千人余りの兵士を駆りだした。彼らはかぐや姫の周りに配置され、日夜を問わず、姫の護衛するよう申しつけられた。
『無駄なことを……』
月の声は嘲笑った。
二日が経って、満月の晩。
遂に、迎えの時が訪れた。
『それでは、かぐや姫……否、“嫦娥”殿。西王母様がお待ちです。至急、月界に』
「もう少し、待てませんか……?」
『いいえ。できないわ。──』
「──っ!」
青白い風が、御簾を吹き飛ばした。外を見て、かぐや姫は悟った。
千人の衛士達は誰も彼もが力尽き、情けない様子で地面に這いつくばっていた。老夫婦も、様子を見に来ていた帝の使者も、同じような有様だった。
『……嫦娥殿。早く御車へ』
月の声は、遂にその姿を現した。彼女は透き通るような、淡い五色を帯びた天女の羽衣を纏っていた。他に、三十人の天女達が、七宝に彩られた唐車と共に現れた。
「……」
かぐや姫は薬用箱を携えて、廂に出た。
月光に照らし出された姫の顔は、曇りきった諦観の情と、薄暗い無念の気持ちに染まっていた。
かぐや姫は、月界の“侍女”が用意した足掛けを踏み、唐車に乗り込んだ。
「──失礼」
「──!?」
その“侍女”は何食わぬ顔のまま、かぐや姫の背を押すようにして、唐車に乗り込んだ。
かぐや姫は動揺し、動転し、そのまま、唐車の奥の方へと、転がるように押し込まれた。
『何事か!』
天女達は一斉に矛を構え、その鋒を唐車に向けた。
その様子を、物見格子の隙間から見たかぐや姫は、狭苦しい唐車の中でどぎまぎした。
「──若竹の姫君とは、貴女様のことですか?」
「……は、はぃ……?」
天女の姿をした“彼女”は、羽衣を捨て去った。
「お初にお目にかかります。わたしは、宮中では“光の君”と呼ばれているものです」
「ぁ、貴方が……」
かぐや姫は、半ば絶句気味に驚いた。姫は薬用箱を小脇に置き、取り乱した様子で、衣の細々としたところや、髪の乱れたところをせっせと整えた。
『……そこの人間! いつから、どうやって天女の中に紛れ込んでいたのか!?』
唐車の外から、無粋な怒声が浴びせられた。
「いつからか。それは今し方でございます。どうやって? はてさて、おかしなことを仰る天女様ですね。……見紛う方に瑕疵がある。ただ、それだけのことでございます」
光の君は慇懃無礼なまでに、月の者達を口先であしらった。
『人間の分際で月の者らにこの仕打ち……百万が一にも許される行いではないぞ』
「ご安心を。間違っても、このまま車輪を軋ませるような真似は致しませぬ。……それより、どうかそちらの矛も収めていただきたい」
『……貴様っ、どこまで月界を愚弄すれば気が済むのか!』
その言葉とは裏腹に、唐車を包囲する鋒は一歩後退した。
「やれやれ……。彼女は、葵の上よりも気が強いのですね」
光の君は、肩をすくめた。
薄く差し込んだ月光に、光の君の笑みが照らされた。女にも見紛う容貌と、切れ長の目が際立った。
「……光の君は、本当に人間なのですか……?」
かぐや姫は恐る恐る、目の前の貴人に問うた。
「はい。……そのことは、貴女が一番に御存知の筈ですよ。……ずっと、御覧になっていたのでしょう? わたしの浅ましい……夜の行いの数々を」
「……」
光の君は微笑した。
図星を突かれたかぐや姫は、恥じて目を逸らした。
「いつ頃から、貴女はわたしのことを見守っていらしたのですか?」
光の君は、吸い込むような瞳をかぐや姫に向けた。
かぐや姫は恥じらいながら扇を開き、顔の下から半分ほどを隠した。
「始めから……です。ただ、気を払うようになったのは、光の君が、須磨に流される直前の辺りからです……」
「3年前……ぁあ……、わたしが、朧月夜に手を出した頃ですね。……あの時は、わたしもどうかしていたのでしょう。政敵の妹君であることまでは知っていても、まさか、彼女が帝のお気に入りだったとは……。一生の不覚です」
「……嘘を仰いませ。流された先でちゃっかり新しい
かぐや姫の挑発的な問いに、光の君は小さく笑った。
「新しい
参りましたね。という風に、光の君は微笑んだ。
「……しかし、若竹の姫君。いったい何を好き好んで、世に虫の数ほどいる男子の中から、よりにもよって、わたしを選んだのですか?」
「それは……」
光の君の自嘲気味な問いに、かぐや姫は口籠もった。
「わたしのような、ただ母の生き写しを求め、探し続ける抜け殻など、……滑稽であっても愉快なものではないでしょう」
「そんなこと、ありません!」
かぐや姫は、強い声で訴えた。
愛に渇き、慈しみに飢え、耐え難い心の隙間をどうにか満たすために、ただひたすらに情を追い求めている光の君が、ふとした瞬間に、その栄華と艶事の裏側で、どこか虚しさを覚える様は、少なくともかぐや姫にとっては、滑稽の一言で片付けられるような、陳腐なものではなかった。
かぐや姫は、桐の薬用箱を膝に乗せた。
「それは……?」
光の君は問うた。
「不治の妙薬です。……月の住人と人間が結ばれるには、超えなければならない定めがあります。その一つが、寿命です」
かぐや姫は、張り詰めた声で答えた。
それを見て、光の君はおかしそうに微笑んだ。
「やっと分かりました。……貴女は、わたしの真似事をするために、地上界へ降りてきたのですね」
「……っ」
かぐや姫の箱を握る指が、僅かに力んだ。
「想い続けることに囚われて、ことの分別を忘れ去り、一時の熱は後悔の種と知りながら、刹那の情に我が身を任せてしまう……。わざわざ月の仙薬までこしらえてわたしを迎えに来た辺り、熱の籠もりようが窺えます」
光の君は物見格子を覗いた。外には相変わらず、天女達が矛を構えて張り付いていた。
「光の君……──どうか私と共に、昇天していただけませんか?」
かぐや姫は、意を決して、言の葉を紡いだ。
光の君はかぐや姫の方を見据えると、しばしして、歌を詠んだ。
「“──月草の 藤の花すら 移ろふに 如何で我が身を 不死になすべし”」
「……、」
かぐや姫は俯くと、力が抜け出ていくように、肩を落とした。
藤の花は、藤壺の寓意に他ならなかった。
藤壺は、光の君が須磨に追われる前に出家していた。彼女は、光の君の母の生き写しであり、彼女が寺に籠もって以来、光の君の遍歴は、よりいっそう洗練され、また、放埒さを増していったのだ。
「……玉兎の高みは、わたしには恐れ多い舞台です。京の紫の上や須磨の明石の上でさえ、わたしには勿体ない女子達なのです」
「そんなこと、ありません……っ」
かぐや姫は、震えた声で言った。
光の君はそろりと身を押して、かぐや姫を、車の奥に追い詰めた。
「……?」
「……貴女には、どうかわたしの命が尽き、絶えるまで、見守っていただきたく存じます。いずれは我が身も、煙となり果て、天に昇る命運にあります。不死の貴女であれば、決して長い時ではないはずです」
頬と頬が触れ合うような、近くて、狭くて、薄くらい唐車の中で、光の君は、かぐや姫を包み込むように抱きながら、祈り、乞い願うような声音で囁いた。
「ですから……あと何十年かだけ、待ってもらえますか?」
「はぃ……」
光の君は、かぐや姫の潤んだ笑顔を見届けてから、唐車を降りた。
光の君が振り向いた時、そこに唐車はいなかった。天女達もいなかった。そこに転がっていたのは、月明かりに照らし出された、白目の兵士達だけであった。
「──惟光」
「はいっ!」
光の君の声に応じて、茂みの中から、葛籠を担いだ家来の少年──惟光──が現れた。
光の君は天女の衣を脱ぎ去り、手短に身支度を整えると、惟光を下げさせ、紫の上が待つ二条院へと向かった。
「──おや、これはこれは源氏殿……かような時分に会うとは奇遇ですな」
光の君は寝殿と寝殿とを結ぶ渡殿で、悪友──頭中将──に出くわした。
「中将こそ。こんな夜更けに外を出歩くなんて……、さては夜這いかい?」
「まさか。君こそ誰かに愛想を尽かされた帰りですか? 全く。紫の上を悲しませるような行いは慎むべきですよ?」
「余計な御世話だ。……」
光の君は目を逸らした。
「……で、本当のところは? “若竹”がらみですか?」
「当たりでしょう?」という風に、頭中将は聞いた。
「……少しばかり、“月下香”を拝みに行っただけだよ」
それだけ答えて、光の君は頭中将の横を過ぎていった。
「はて、聞き慣れない喩えですね。花の名前か何かですか?」
首を傾げる頭中将を余所に、光の君は高欄に背中を預け、夜空を仰いだ。
「──目に見えずとも、月の下に立てば、自ずとその香りを知る。……貴女によく似合った呼び名だと思うのですが、気に入ってもらえるでしょうか……?」
光の君は、虚空に問うた。
青白くも、温かい。儚くも、爛々とした。
そんな月の光りが、光の君に返ってきた。
~終~
月下香 七海けい @kk-rabi
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