チキンナゲット

蒔田龍人

チキン

 その少女がアメリカから帰国をして早々に駅前でスカウトされたのは、奇跡としか言いようがなかった。

「私はスカウト担当ではないのだけれど、あなたはこんな私の目から見てしても、とてもじゃないけど普通の女の子ではありえない特別なオーラを放っているわぁ」

 なぜなら少女は、まだ転校したばかりの高校に向かうはずだった下り電車駅を誤って乗り過ごしてしまい、慌てて次の駅で降りた後、階段を上り下りして向かい側のホームに全力疾走で辿り着き、そうして登り電車の到着を待っていたそのタイミングで、偶然に同じくその電車をたまたま待っていた芸能プロダクションの女性スタッフの目に留まり、突然そう声をかけられたのだから。

 え……。

「もし今が忙しいのなら、ぜひ連絡先を教えてくれない? えぇっと……ハイ、これ私の名刺」

 そんな女性からの勢いに気圧けおされたのか、それから少女は目を丸くしながら、まだ手に入れたばかりだった携帯電話の番号を、恐る恐る彼女の耳元で小さくささやくのだった。


「それが、あんたがあの子に関わるすべてのきっかけだったってわけか……」

 静まり返った室内で、トントンとひと指し指で机を打つ音だけがやたらと響く。

「はい」

 

 

 そんな出会いがきっかけとなって現在その少女のマネージャーとなっている竹内たけうち君代きみよは、放送作家を夢見て高校卒業後に長野から上京し芸術大学放送学科に通っていたが、やがて尊敬する北海道在住の脚本家が個人的に開講していた塾生として鼻高々に富良野へと移住するも、周りの塾生と比べてあまりにも貧困すぎる己の才能に嫌気がさし、移住わずかにして夜逃げのように退散。そうしてその後は休学していた大学をも中退し、当時の挫折感を心に引きずったまま中堅芸能プロダクションに広報宣伝部員として入社したものの、作家としての無能さを痛感させられたあの忸怩じくじたる思いは、多忙で不規則な毎日を送っている彼女の心から、いまだに葬り去ることができないままでいるのだった。

 

 ―― 世界中のどの国へ行ってもその名は通じるから、ミドルネームに私の名前を付けたのよ。

 私がまだ幼かった頃に母親からそう聞かされてはいたけれど、と待機している楽屋で自分の背後に立つヘアスタイリストから投げかけられた、ただ単にその場をつくろおうとしただけであろう他愛のない問いかけに、少女は小さくそう答える。

「出番でーす! お願いしまーす」

 そんな中、まだ学生の匂いを存分に漂わせているアシスタントディレクターの男性が、ドアをノックすると同時に開けた隙間から顔だけ出してそう声を掛けると、条件反射かのように「はい」と小さく返事をして振り向いたその少女が、スポットライトに照らされた煌びやかなステージへと足早に向かった。


 一年前。

「長旅で疲れたろう。いままで本当にすまなかったな」

 古川ふるかわのぼるが優しく労わるような口調でそう語りかけながらハンドルを握る、その国産セダンの後部座席で、ゆっくりと流れていく成田の森に目をやるでもなく、

「…………」

 少女はうつむきながら、薄く小さな唇を噛みしめている。

 そんな愛娘の姿をルームミラー越しに見つめた昇は、どうしようもないやるせなさを感じ、胸が締め付けられて呼吸すらも辛くなった。

 父の昇は、日本の自動車メーカーにどの業者よりもいち早くカーラジオを普及させた大手電装会社の技術者として神戸市の本社工場に勤めていたが、その後アメリカでのカーナビゲーション市場拡大に伴い、ロサンゼルス郊外のアメリカ本社へ駐在員として渡米。彼が抜擢されたその理由は、たぐいまれな発想と技術力もることながら、それ以上に、アイルランド人の妻をもつが故の堪能な英語力と、海外でも即座に順応できるこれまでの生活習慣が高く評価されたからなのだった。

 昇の妻マーガレットは、日本との交換留学生だった頃にウエイトレスをしていた北野町のアイリッシュパブでの出会いがきっかけとなって交際開始間もなく昇と籍を入れ、配偶者ビザを取得したのと時をほぼ同じくして、まるで計算でもしていたかのように彼女は新たな生命を身篭った。実は、マーガレットの滞在ビザは元々一年間だけしかなく、そのまま日本に残るためには日本人と結婚し出産するしか他に道がなかったのだ。彼女は母国のアイルランドも、そして自分の両親をも嫌悪していた。

 そうして二人の間に生まれた少女は地元神戸で産声を上げたが、マーガレットには昇と知り合う以前から芦屋のパブで知り合った男がいた。しかし相手は既婚者だったがために、彼女は後に知り合った昇との結婚に踏み切ったのだった。

 やがて昇の海外転勤をきっかけに、マーガレットと少女はアメリカのカリフォルニア州はロサンゼルス郡でも南端に当たる、パロスバーデスという比較的日本人の多い高級住宅地での生活を開始することとなった。少女が九歳の頃だった。


『出産予定日はゴルフの予約が入っているから』というあまりにも身勝手で理不尽な担当医師の理由から陣痛促進剤によって早期出産をさせられ、そうして二千二百八十グラムという低出生体重児で産まれた少女は体が弱く、両親が彼女の体調を心配しない日はなかった。入院中は院内感染を恐れ、退院後も風邪ひとつひかせぬよう部屋に潜むバクテリアに日々神経を尖らせなければならなかった。そんな育児の日々が続いていたマーガレットは、次第に我が子に対してのフラストレーションを溜めるようになっていく。しかしその甲斐があってか、相変わらずひ弱ながらもこれといった大病もせずに九歳までを神戸で過ごした少女は、父親とは日本語で、そして母親とは英語と日本語とをその時々で使い分けて話す毎日を送っていた。

 母親のマーガレットは、アイルランド人らしく行儀作法にうるかったが、時にはそれまでのさを晴らすかのようにヒステリックに少女を叱りつけるほど過剰な振る舞いを次第に見せるようになっていった。そういった場面では、常に英語で罵声を浴びせてくる。

 一方の少女は、幼少時代から日本人にはありえない、その透き通るような肌と、彫りの深い容姿のせいで、クラスメイトたちから執拗に外人扱いされ、細く高い鼻柱も、青みがかった瞳を覆う長いまつげも、栗色でウェーブがかった綺麗な長い髪ですら、嫉妬を見え隠れさせた女子生徒から「気持ちが悪い」「宇宙人」と理不尽な苛めの対象となっていた。その顔で日本語を喋るのも薄気味悪いと仲間外れにされ、否が応にも彼女は寡黙な性格へとならざるを得なかった。

 家ではヒステリックに自分を叱りつけるだけの母親、そして、外では友達という存在がひとりもいないままで自分にコンプレックスを抱いていた少女は、やがて部屋にひとり閉じこもっては自分と同じような容姿を持つバービー人形たちを相手に、自分が複数の親友に囲まれて輪の中心にいつもいるといった妄想の世界にどっぷりと浸かる毎日を送るようになっていく。

 だが、そんな少女の残酷な現状を救ったのは、アメリカへの転勤が昇に下ったことだった。アメリカには、バービー人形のように自分と同じような容姿の女の子がごく普通にいる。よって、これでもう外見で苛められる心配はない。しかも、パロスバーデスという地域の学校区は教育レベルも全米ではトップレベルで、生徒たちの品も良いと聞く。

 それを知った少女は大いに安堵していた。

 一家で渡米した当時の少女は九歳。日本では小学三年生にあたるのだが、アメリカでは六歳から既にもうエレメンタリースクール(小学校)に入学するため、彼女は一学年を飛び越えて、四年生として新たにスタートを切ることとなった。

 クラスの人種はその約三割がアジア人でも日本人は少なく、韓国と中国系の二世がその三割の大半を占めていたが、特にこれといった人種差別もなく、日本の小学校よりも遥かに伸び伸びと自由な校風が海風のように流れているのを感じた少女は、これからの毎日に大きな希望を湧かせて小さく心を躍らせていたのだった。

 ところが、そんな少女にひとつの問題がもちあがる。彼女の発音がイギリス訛りなのだ。同じ英語でも、イギリス英語とアメリカ英語では単語の発音が違ってくる。幸いだったのは、母親のマーガレットが嫌っていた母国であるアイルランド語ではなく、イギリス英語で彼女をここまで育ててきたことだった。なぜなら、たとえばアメリカ英語やイギリス英語では『私』を『アイ』と発音するが、アイルランドでは『オイ』になってしまう。アイルランド英語はそれだけに留まらないほど多くの違いをもっていた。とはいえイギリス英語にしても、クラスメイトからその発音をからかわれはしまいかと、少女は怯えた。

 しかし、流石さすがに多国籍の人種が混在する学校環境からなのか、地元の生徒たちが素朴に育ってきたお陰なのか、特にこれといって陰湿な苛めをうける訳でもなく、最初こそ恐怖におののいていた少女の心を、次第に安堵させていくのだった。

 

「さて、ここまでは君のお父さんが証言してくれた内容だったんだけれども、君の母親は、アメリカくんだりまで行ってまでしても、不倫を繰り返していたってわけなんだね?」

「…………」

 小窓のほかには中央に机しかない八畳ほどの灰色の部屋。その小さな机に対座している恰幅かっぷくの良い初老男性が、後退した額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら、掛けていた老眼鏡をいったん外し、落ち着いた優しい口調でそう確認すると、薄い水色のプレーンシャツとオフホワイトのコットンスカート、足元は素足にスモークグレーのミュールといった、極めてシンプルな装いで正面に座る少女が、机の下で揃えた膝に両手を置き、緊張しているのか、背筋を正して黙したまま小さく頷く。

 

 母親のマーガレットがマンハッタンビーチに暮らすIT企業家の白人男性との浮気を繰り返していた事実を夫の昇が知ったのは、俗に『駐ママ』と日系社会で呼ばれている駐在員の婦人コミュニティーから流れてきた噂が元だった。ロサンゼルスに暮らす多くの日系駐在員の中でも、日本人以外の妻がいる家庭はほんの僅かしか存在せず、よって、マーガレットの存在は、本人の意思とは関係なしに駐ママたちの世界で特に目立っていた。

 そんなマーガレットが、よりによってパロスバーデス地区からすぐの場所に位置するレドンドビーチ市の地中海レストランで、白人男性からテーブル越しに手を握られながら、潤った瞳で熱い視線を送っているその現場を、たまたま同店へ訪れていた駐ママたちに目撃されてしまっていたのだ。アメリカ人ばかりのレストランで日本人女性が三人もテーブルに着いていれば気がつきそうなものだが、それほどまでにマーガレットは目の前に座る男性に夢中で、彼女の視線は終始釘付けとなっていた。

 駐在員の配偶者として滞在ビザを取得している駐ママたちは、収入を得る労働を禁じられている。そうなると必然的に、亭主や子供を送り出した平日の午後になる都度、日本人が主催するサークルやアフタヌーンティーなどの集まりに参加しては、英語社会から隔離された日本人だけの小さくまとまったコミュニティーで毎日を過ごしながら、ただひたすら夫の任期満了が訪れるそのときを待つというだけの、まったく生産性に欠ける不毛な時間を消化し続けていなければならなくなる。刺激のないそんな生活環境の中、どんなに些細な話題でも常にアンテナを張り巡らしている暇をもてあました彼女たちからしてみれば、これは一気に噂が広がる格好の大スクープであろうことは、火を見るよりも明らかであった。写真週刊誌並みなゴシック情報の広がりは、まさしく駐ママたちの井戸端会議そのものがきっかけの大半といって良い。

 そうして案の定、瞬く間にゴシップの標的となってしまったマーガレットは、日系のスーパーマーケットなどへ出向くたびに、当然のごとく駐ママたちからの冷たい視線を浴びるようになっていった。

 しかし風の噂を耳にした夫の昇は寛容だった。日本人ではないが故に駐ママたちのコミュニティーに馴染んでいけず、かといって日中は娘の送り迎えだけが唯一のスケジュールであるマーガレットにとって、おそらくこの現状は抜け殻のような気分であろうに違いない。そう感じていた昇には、妻の行動が逆に自己を嫌悪させていた。神戸に暮らしていた頃のマーガレットは常に華があった。映画女優のような彼女と一緒にいるだけで、誰からも憧れの熱い視線を浴びていたのに、それが今では彼女にここまで地味でまっ平らな生活を無理やり送らせてしまっている。だから昇は、多少の暴走も愛妻には目をつぶってやり過ごしていたのだった。

 だが当のマーガレットは本気だった。相手の男性は自宅のPCでビジネスを展開できる。よって昇が出社中の平日は、彼女が学校に娘を迎えに行くぎりぎりの時間まで、男性の自宅で時間を共にしていた。

 アメリカの一般社会では残業というものが存在しないと世間でいわれているが、日系の会社ではそうはいかない。日本との時差が生じるために、本社との連絡や打ち合わせはどうしても午後六時以降から始めなければならないのだ。よって、出社時間こそ日本の時代よりは緩いが、帰宅時間が遅くなってしまうのは仕方がなかった。

 そんな夫婦の裏事情を知りもしない一方の少女は、日本での過去の自分を絶ち切るかのように、学校では演劇に没頭する生活を送っていた。役を演じている間は臆病な自分の性格に蓋をすることができる。そうしているうちにやっと夢見ていた友達が次々とできたせいもあるのか、少女が家でじっとしている日は一日たりともなくなっていた。日本で暮らしていた陰惨な日々がまるで虚像、遠い過去に見た悪夢であったかのように。


 やがてロサンゼルスでの毎日はあっという間に過ぎ、昇は五年の駐在満期を終えて日本へ帰国することとなった。

 だが、妻のマーガレットは不倫相手のアメリカ人男性と籍を入れ、永住権を獲得してそのままロサンゼルスに残るまでに話が進んでいた。つまり、この段階にきて彼女は昇に離婚を求めたのだ。しかしそれは昇のためでもあるのだった。

 そうして二人の狭間に立たされた少女は、マーガレットの配偶者としてそのままアメリカのハイスクールに進級し、『グレードナイン』として一年間を過ごさなければ、日本の高校に入学できる年齢に達することができない。カリフォルニア州のミドルスクールは十四歳までなのだ。母親の自己中心的な行動に少女はやるせなさを覚えてはいたが、今後のためにもここは我慢してロサンゼルスに残り、そして十六歳となった暁には大好きな父親が暮らす日本へ引き揚げることを心に決めていた。せっかくできた友達たちと別れてしまうのはとても残念だが、やはり自分にとって唯一の理解者であり、そしてどこまでも優しい実父が、彼女にとってかけがいのない唯一無二の存在なのだった。

 それまで住んでいたパロスバーデスの自宅は、昇の会社が斡旋あっせんしていたが故に、駐在任期満了と同時にその家を出なければならなくなった少女は、否応なしに母親がこれから暮らしていくマンハッタンビーチでの生活を始めなければならなくなった。

 四年制であるハイスクールまでは義務教育なために、これまでの級友たちは皆そのまま進級するが、少女だけは学校そのものを移らなければならない。しかし、彼女がこれから通う新しいミドルスクールの生徒たちは、地域的な問題なのか、パロスバーデスの級友たちとは雲泥の差があった。

 それが、彼女の人生に大きな傷跡を残す結果を生む一年間となってしまう。

 

「……と。ここまでは最初に君のマネージャーから聞いた話なんだが、これで間違いないかな?」

「…………」

 茶色の地味なネクタイを締めた白いワイシャツの袖を捲り上げ、老眼鏡を鼻に引っ掛けたままの初老男性が、手に取った書面を顔から遠のけながら読み上げたこれまでの経緯に、少女は黙って再び頷く。

 

 煌びやかな広いステージの中央で、鮮やかな純白のドレスをまとってスポットライトを浴びているのは、少女ひとりだけではなかった。

 袖ではマネージャーの竹内君代が両手を合わせてお祈りのポーズをとったままでいる。

『ミス・ゴールドナゲット・アワード』

 日本語で『金塊を発掘せよ』とでもいうような意味合いをもった、これからのスター性を充分に秘めたティーンネイジャーだけに与えられるこの賞は、ミスユニバースの弱齢版のように全世界で同時に行われ、そうして各国から選ばれた『ミス・ゴールドナゲット』たちが結集するドバイ首長国の最終審査で、世界一とされる『ミス・プラチナナゲット』が決定する。

 その『ミス・プラチナナゲット』を受賞した者の将来は、もはや二十一世紀のグレース・ケリーと称えられるほどの夢のような世界が保障されているといっても過言ではないことは、これまでに受賞した歴代の十九人の実績がすでに物語っていた。

 しかも今回は開催二十周年とあって、これまでよりも参加国が増え、各国の代表選考は更により厳しくなったとの噂が広がっている。だからなのか、例年より尚一層の沈黙した興奮と緊張が、ピンと張り詰めた空気を通してピリピリと痛いほどに伝わってくる会場のなか、司会を務める目下ハリウッドで活躍中の日本人男優から、まず『準ミス』の名前が告げられ、そうして選ばれた少女が客席から拍手喝采を浴びた後、再び幾ばくかの緊張感が静寂した会場全体を包み込むそのタイミングを待っているかのように、ついに『ミス・ゴールドナゲット』の名が発表されようとしていた。

 

 少女が転校を余儀なくされたマンハッタンビーチの北隣に当たるベニスビーチのハイスクール周辺は、パロスバーデス地区にくらべて治安が悪く、生徒たちもあまり優秀ではなかった。

 ミドルスクールでは人種の三割もが在学していたアジア人もここでは殆どおらず、かわりにメキシコ人がその割合を占めていた。だが、学校区の関係からそのハイスクールへ通わなければならなくなった少女は、それまで通っていたパロスバーデスでのミドルスクール時代とは一変して、再び内気な小心者へと人格が戻ってしまう。なぜなら、ミドルスクールでは受け入れられていたイギリス訛りを、当の本人たちはスペイン訛りであるにも関わらず、自分たちを棚に上げて小馬鹿にしたかのような大げさなアクセントでクラスメイトから真似をされはじめたのだ。それを目の当たりにしてしまった少女は何の抵抗もみせることなく、黙って神戸に暮らしていたあの時代の性格に逆戻りせざるを得なかった。かといって、部屋に引き篭ろうにも、自宅には顔を合わせたくない母親と男の二人が待っている。もう何をどうすることもできなくなって、ただふさぎこむしか彼女の選択肢は残されていなかった。

 そんな少女に、アジア人の男子生徒三人が優しく話しかけてきてくれたのは、入学して一ヶ月ほどが経った頃だった。

 ハイスクールは日本の高校とは違って学年や学級の壁はなく、『フレッシュマン』と呼ばれる一年生と『シニア』である四年生が選択科目よっては同じ教室で机を並べて授業を受ける。一学年上の彼らはひと目で日本人ではないと判断できたが、はたして中国系なのか韓国系なのかまでは分からない。だか、流暢に話す彼らの英語がネイティブな発音である点から、三人とも完全なアメリカ二世なのは間違いなかった。彼らはいつも無邪気で底抜けに明るく、そして、絶えない笑顔が素朴で可愛らしく思えた。

 そんな彼らは彼女の身を守ってくれさえもした。罵倒を浴びせる生徒たちを蹴散らしてくれていた。

 次第に四人は放課後を共にするようになり、帰宅前には彼らの運転でドライブを楽しむといった日々を送る少女に、再び笑顔が戻っていくのだった。

 そうして三ヶ月が過ぎ、やがて訪れたクリスマスの夕刻。数日前から自宅で過ごして欲しくないといった態度を露骨にみせていた母親に幻滅した少女は、彼ら三人の中のひとりが催したホームパーティに誘われて、ディナータイムが訪れるその前に、マーガレットの運転する車でその家へと向かったのだった。

 派手に装飾されたイルミネーションが流れ星のように次々と流れていく家並みを車内の助手席から黙って見つめ続けている、赤いニットワンピースにグリーンのマフラーをあわせた少女は、母親の目からしても妖精のように美しかった。

 やがてカルバーシティにある友人の自宅前に到着すると、帰りは送ってもらう約束をしているからとマーガレットに告げた少女は、小さな手提げ袋を三つ手に持って車から小走りで玄関口へ駆けていくと、振り向くことなく一呼吸してからドアのチャイムを鳴らした。

 

「と、これはロサンゼルス警察に報告したという、君のお母さんからの証言だが、それで合っているかな?」

「…………」

 少女は相変わらず只々頷くだけで、何も言わない。

 

 舞台に並んだ『ミス・ゴールドナゲット』の最終選考に残った候補者の中でまず選ばれた『準ミス』以外の十四人は、いかにもティーンらしいつややかな肌をスポットライトに反射させながら明るく微笑んではいるものの、その無理やり吊り上げられた口角は、あきらかに不自然な歪みを隠せないままでいる。なぜならこれからのほんの数秒後が、彼女たちにとって今後の運命を大きく左右させるといっていい歴史的瞬間なのだから、その計りきれない緊張と不安が個々の表情に現れてしまうのは仕方のないことであろう。

 

「私があなたを売り込んでみせるわ、あなたはきっと日本中の誰もが知るアイドル、いいや、世界が認めるクイーンにだって充分になれる」

 帰国したばかりの一年前、登り電車を待っていた駅のホームで竹内君代から突然そう断言された少女は、君代の唐突なその投げかけに暫く唖然としていたが、それから日を置かずにして、瞬く間にそれは現実味を帯び始めることとなる。

 なぜなら、少女のマネージャーとなった君代が、表向きこそ『素人の読者モデル』として人気ティーン雑誌に彼女を売り込むと、その愛くるしい彼女の容姿が、カリスマ高校生として全国の少女たちから憧れ的存在へと一気に押し上げられ、すんなりとその地位を確立させてしまったのだ。

 しかし君代はそのままで終わらせなかった。少女をあくまでも読者モデルの素人として貫き通し、そして『ミス・ゴールドナゲット・アワード』にノミネートするのだ。この賞はあくまでも『これから』の人材を募集している。よって、プロのモデルや女優になった時点で、すでにそれは対象外となってしまうのだった。

「すべて私に任せて。あなたは何も考えずに私の言うとおりにしているだけでいいの。そうすれば、結果的に必ずうまくいくわ」

 これまでは挫折と妥協しかなかった人生を歩んできたが、目の前に偶然現れた広大無辺の可能性を秘めたこの金塊に、自分の実力のそのすべてを賭けてみよう、いや、自分の実力以上の成果を必ず遂げてやろう、君代はそう胸を熱くしていた。

 君代が少女をスカウトした当初、その少女は何かに怯えるような態度をとっていたのは薄々感じていた。それはきっと慣れないこの土地での生活にまだ緊張を隠せないでいるものかもしれないと、彼女は少女に優しく接していたが、やがて少女の口から発せられた残忍すぎる過去と悲痛ともいえる現在の状況を耳にしたとき、あまりのショックに涙さえも流せなかった。そして、この子を何とかして闇の記憶から助け出してあげよう、この子の運命を切り開いて華やいだ夢の世界を必ず見せてあげようと、君代はその時そう固く心に誓ったのだった。

 

 クリスマスディナーに呼ばれたカルバーシティの一軒家には、そこに待ってくれているはずだった家族たちの姿はなく、いつもの少年三人だけが彼女を待っていた。

「やぁよく来てくれたね! まぁ入りなよぉ! どうぞどうぞ!」

 そんな彼らは、ピエロのような大げさなゼスチャーでおどけてみせながら、玄関ドアの向こうから、いつもどおりの笑顔で少女を快く迎え入れてくれた。

 ダイニングルームのドアを開けると、中央に置かれた大きなテーブルには、スライスされた大きなハムの塊とグレービーソースが添えられたマッシュポテトに温野菜、そして、テイクアウト専門のチェーン店から買ってきたのであろう、カリフォルニアロールやスパイシーツナロール、ドラゴンロールやダイナマイトロールといった裏巻き寿司と、シャンパンのボトルが何本か置かれ、主催した少年の両手には、すでに栓を開けたシャンパンと空のグラスがあった。

 その姿を目にした瞬間、たじろいた少女の背中に冷たい何かが走ったのをうっすらと感じたが、

「メリークリスマス!」

 シャンパンの注がれたグラスを手に少年たちがほがらかにそう声を上げてからはそんな不安も消し飛んで、少女を含む四人だけのパーティーは、いつも通りの明るく楽しいひと時となっていったのだった。

 

「ここまでは、あなたのマネージャーさんが事情聴取を受けたときに、あなたが話してくれたと証言をした、その調書どおりだったとは思うけれど、これから確認する内容は、あなた自身が、刑事さんにお話してくれた、あなたにとって、とても重要な部分だから、ここからは、少しだけ我慢して聞いてくれるかな?」

 応接間を思わせる部屋の中央で、ドクターチェアーに座ったまま両肘を膝につき、前屈みになって少女へ顔を近づけた、クールビューティーという表現がぴったりな三十歳半ばの女性が、ひとつひとつの言葉の間をゆっくりと空けながら優しくそう語りかけると、

「…………」

 その隣でソファーに横たわったままの少女は、表情を固く引きつらせながらも、黙って小さく頷くのだった。

 

 四人だけの小さなクリスマスパーティーが開かれている少年の自宅で、少女は恐怖におびえるあまり、声も出せずに失禁してしまっていた。

「おとなしくしていないと、ユー、

 少年の唸りにも似たそんな囁きは、まだ覚えたばかりであろうたどたどしい日本語ではあったが、言葉の一つ一つを重々しくゆっくりと区切りながら耳元で呟いた、説得力を充分にもったその口調は、少女の心に強烈な現実味をもたせると同時に、これ以上ない恐怖感を覚えさせていた。


 ―― 大人しくしていないと、私は殺される……。


 三人の瞳孔が開いているのは、それぞれが入れ替わりでトイレから戻ってきたときから何となく気付いていた。

 つい先ほどまでは明るく愉快に過ごしていたはずのテーブルには、倒れたシャンパングラスが今にも床へ転がり落ちそうになったままで、大きなハムには鋭利なナイフが少女を脅すかのように突き刺さっている。

 その向こうのリビングルームでは、白いモヘヤが襟元を丸く囲むベルベットの真っ赤なワンピースを着たままで両腕を二人にガッチリと掴まれ、めくられた裾から伸びた真っ白な両脚を広げられたままソファーで仰向けに倒されている少女の体に、穿いている下着の脇から少年の一人が無理やり押し入ろうとしていた。少年は彼女を押さえつけている二人に英語ではない強い言葉を連発している。そしてついにそれが的を射た途端にグッと少年の腰に力がこめられたその瞬間、そのあまりの苦痛と悔しさで、少女は涙を流しながらきつく目をつぶったまま横を向いた。咄嗟にあごをつかまれて向きを戻され口に舌を入れてこようとする少年を固く拒むと思い切り引っ叩かれた。悲鳴も出なかった。脚をばたつかせて抵抗しようにも、両膝をガッチリつかまれて広げられたまま動けない。ひたすら腰を突かれている少女の頭と体が、押さえ込んでいる二人の少年の腕とともに、人形のように機械的なテンポで前後に何度も反復し続けた。歯を食いしばっている少女の、その額と首筋に血管が浮き出している。体を解こうと全身に力を込めるたびに彼女の頭が何度も何度も左右に揺れた。そうしていくいち次第に激しくなっていく少年の動きがやがてビクビクと痙攣に変わり、少女の胸で朽ち果てたと同時に、体の中に熱い何かが流れ入ってくるのを少女は感じた。

 その後、三人目の少年が彼女の体内に放出し果てたとき、少女はもう何も思わなくなっていた。涙さえももう枯れ果てていた。

 その後は何も覚えていない。気がつくと、少女は自分の部屋で眠っていた。

 もしかすると、あれはすべて夢だったのかもしれない。そう一瞬だけ希望は沸いたが、下腹部の違和感が、彼女を一気に失望させた。


 ただ、汚れを知らない人形のような純情無垢だった少女が、残酷で下劣なクリスマスの一夜を過ごしたその後の記憶をなくしていたことだけは、唯一の救いでもあったわね……。

 そんなことを心中で呟きながらここまでを読み上げた女性の、

「このお話を思い出させちゃって辛かったでしょうけれど、あともう少し。そこで、メグって少女と知り合ったのね?」

 との問い掛けにも、

「…………」

 相変わらず少女は顔を向けることなく、頬を伝う一筋の涙もそのままに、再び小さく頷くだけなのだった。

 

 結局、クリスマスの一件によって不登校となった少女は、予定よりも大幅に早い、グレードナインの一月に早々と日本へ単身帰国をする。日本では高校への入試が同月の下旬から始まるわけだから、これはある意味で不幸中の幸いといってもよかった。 

 

「そうしてクリスマスのあの夜からほんの数日後に、メグはあなたに『わたしがあの下劣な三人の男たちに復習してあげるわ』って言ってきたのね」

「…………」

 屈んだ拍子に垂れた長い髪を左手でかき上げながら右手をそっと自分の左手の甲に優しく添えてきた女性に向かって、少女は横になったまま黙って頷いた。

 

 ロサンゼルス郊外に暮らしていた少年三人(ともに中国系アメリカ人)の死因が、ペニスを切断されたことによる出血性ショックだったというニュースは、地元のローカルチャンネルだけが報じていた。

 いずれも各々の自室で同時に死体が見つかっており、ロサンゼルス警察(LAPD)は同一犯人による犯行とみなして近郊で捜査を進めているうち、マンハッタンビーチの北端にあたるエルポートの駐車場で鈍器のようなものを使って破壊された携帯電話三台が発見され、そのそれぞれに残されていたデータには、事件の被害者である各々の少年と少女とのツーショット写真が残されていたのだった。

 そこで母親であるマーガレットが、もうすでに帰国してしまっていた少女の重要参考人としてLAPDに出頭要請を受け、そこで彼女は自分の記憶している限りを、捜査員に打ち明けていた。

 

「それで、あなたとあなたのマネージャーさんとが一致している証言によると……」

 単身帰国した少女は、成田空港まで迎えに来てくれた実父の昇が運転する国産セダンで三鷹市に向かった。現在はもう神戸の本社ではなく、父親は東京の子会社に転勤となっていた。

 少女が通う今度の学校は、小金井市にある大学付属高校となった。そこを選んだ理由は、高校までは義務教育であるアメリカとは違い、日本は入学のための受験が必要だが、その学校は帰国子女に対する優遇処置が施されていたからなのだった。通学に要する時間が電車を使って四十分もかからない場所にあるのも大きな魅力のひとつだった。

 生徒たちはアメリカと同様に、学科によって帰国生徒と国内生徒のクラスは分かれるが、ホームルームはクラスが一緒で、それが少女にとって再び大きな悲劇を生むこととなる。


 少女が入学した高校は男女共学で、制服は無く、ひとクラスが四十人ほどの教室には、帰国生も国内生も一緒くたとなっている。

 そのなかでも、やはり少女の容姿は飛びぬけていた。

 とはいえ、小さな頃から外国人に囲まれてきた帰国子女たちの目には、そんな少女の存在も、何ら違和感を覚えてはいなかったが、その一方で、何気なく交わす英語での会話が耳につく帰国生たちに対するイラつきを、ただでさえも隠せないでいる国内生組の一部女子生徒からは、特に少女に対する嫉妬がらみの反感を強くもたせていた。

「うぜぇんだよ、その濃いぃ~顔がぁ!」

 その中でも特に絡んできたのが、反感派女子グループを仕切っているリーダー的存在の、川端かわばた美優みゆであった。

 おそらくデジタルパーマをかけているのであろうウェーブがかったフレンチボブをアッシュブラウンに染めた、その愛くるしい小顔で中学の時代から渋谷系ギャルとしてティーン雑誌にも何度か登場しているファッションモデル志願の美優は、少女に対する幾ばくかの劣等感からくる嫉妬を抱いているのか、休み時間となると大人しい少女に率先して意味も無く罵倒を浴びせていたが、そのたびに怯えてばかりいるだけで何も反応してはこない、その弱々しい小鹿のような少女の態度が、さらに彼女の神経を逆撫でした。

 そうなると美優の苛立ちはどんどんエスカレートしはじめ、仕舞いには自分の前を横切るだけでも少女の存在が許せなくなっていく。

 そうしたある朝、自分の席に着こうと、美優が座る机の横を少女が通り過ぎようとしたそのとき、咄嗟に美優が足を出してきた。

 ガツッ!

 その足に引っ掛かって前のめりに倒れこんでしまった少女の、その頭部めがけて、今度はパイプ椅子が振ってきた。その椅子を放り投げたのは美優の手下だった。しかし、危なくそれが少女の頭部に当たるその寸前で、倒れたままの少女を挟んだ左右の机と机とに阻まれ、椅子は少女の背中に軽く落ちただけで済んだのだった。

 その瞬間、倒れ込んだまま美優を弱々しく睨んだ少女に、

「なんだよその目はぁ? アメリカ帰りの帰国子女だからって、いい気になって生意気な態度とってんと、おまえ……」

 

 

 

「そのときあなたにそう言っていたのは間違いない、と帰国生のクラスメイトが証言してくれたわけだけれど……。続けるわね」


 美優のその言葉を耳にしたその瞬間、少女はハッとした。

 ―― 私は、この娘に殺される……。

 

「それからその後にマッジという男の子が現れて、自分を助けてくれると言ってきた。と、あなたの調書にあったけれど、それからその後にどうなったか、覚えている?」

 それまで前屈みになっていた上体を起こし、白衣の下で脚を組んだ女性が、掛けていた縁なしメガネを一旦外して、横たわったままの少女の顔を見下ろしながらそう問うと、

「……いいえ」

 彼女はゆっくりと首を左右に振りながら、今度は声にして怯えるように小さくそう答えるのだった。

 

「へぇー、ここが日本の取調室なんだぁー。窓だってあるし、結構明るくて居心地いいじゃん」

 大声でそう言いながらキョロキョロとせわしなく部屋中を見回しているその姿を前に、初老男性は困り果てたかのように、黙って自分の頭頂部をグルグルと撫で回しながら、どこともなく視線を宙に泳がせている。

「アメリカじゃぁ窓なんかないから陰気でさぁ、天井の隅からこっちを向きっぱなしの監視カメラがスンゲェ不愉快なんだよね。うーん、いろんな意味で日本はいいわヤッパ」

「もういいかね?」

「え? ウンどうぞ?」

「まずはひとつ言っておくけど、アメリカじゃあどうだか知らんが、ここでは椅子の上に両膝を立てて座るのだけはやめてもらいたい」

 初老はそんなひと言を告げると、怪訝そうに再び視線をそらせた。

「っで、君と彼女はいつ知り合った?」

「あ、そう」と答えながら大股で椅子に乗せていた両足を面倒そうに下ろしたまでを見届けてから、続いてそう訊いた初老のその目が俄かに鋭くなる。

「あぁ、オジサン聞いてなかったんだぁ。彼女がこっちに帰国してからだよ。僕もロサンゼルスに居たから話が合ったんだ。僕から話しかけたのさ、君がひとりじゃ心細いだろうから、僕がいろいろと助けてあげるって」

「いきなりどうしてそこまで」

「だってあの子、チキンなんだもん」

「チキン?」

「あれ? オジサン知らないの? そっかぁ、日本人はそんな言い方しないのかぁ。うーんとぉ……あっ! オクビョウ? ヨワムシ? そんな感じ?」

「あぁ、小心者って意味か」

「そうそうそれそれ! ショーシン、ショーシン」

「なるほど、それはそれで分かった。ではさっきの質問に戻ってもう一度訊くけど、いきなりどうしてそこまでして、彼女を助けてあげようと思ったんだい? あんたとは親しい友人でも何でもないんだろうに」

「やっぱオジサンもそんな感じなんだねぇ」

 そうして呆れたと言わんばかりなポーズをとりながら更に続ける。

「あのさぁ、たとえ他人であろうと、困っている人を助けてあげたくなる気持ちは、アメリカ人なら誰でも持っているもんなんだよ。エンストしちゃってる車を見かけたらみんなで押してあげるし、路上で苦しんでいる人を見かけたら、どうしたの大丈夫? って声をかけてあげるし、そんなことはどんな人でも必ずやるさ。だってみんな愛をもって生きてるんだからね。小さな頃から親や教会からそうやって教えられて育ってきてるんだよ、アメリカ人って。だから、道端で見知らぬ人とすれ違うときでも、お互いに目と目を合わせて『ハイ!』って挨拶しながら笑顔を交わせるんだ、人間同士の愛をもっているからね。でもこの国じゃ『ナニこの人』って目で見られるけど」

「ほぉ、そうなのかぁ。こっちじゃぁ見知らぬ相手と目と目を合わせたら、お互いが危険な状況に陥る場合もあるからなぁ。まぁしかし、同じアメリカでも、一方では人の集まりに乱射する無差別殺人なんかも頻繁に起こってるっていうのになぁ」

 初老が片側の口角を上げながら目を細め、皮肉交じりにそう返してみる。

「かっ……あれは精神が異常なやつのやることだよ。アメリカ人はただでさえひとつひとつの物事をに捉えるから、感情が過激になりやすいんだよね。まぁそのへんは、日本人ってある意味で、冷静な人種だなとは思うけど」

 そこで、それまで椅子の背もたれに寄りかかっていた初老が前屈みになってデスクに肘をつくと、小さく力をこめてこう言った。

「じゃぁ君もあれかぁ? あの子の気持ちをに捉えて、身代わりにナイフで川端美優を刺したってわけかぁ」

「え? いいや、僕はあくまでも冷静だったよ。だって、もしアメリカのハイスクールでクラスメイトに『殺すよ』なんて囁かれたら、それは冗談なんかに受け止められないからね。『ファックユー』は口癖みたいなもんで冗談として簡単によく使うけど、『アィルキルユー』なんて、いつか殺してやるってシリアスな殺人予告と一緒だもん」

「だから帰国子女の彼女は、そんな一言を本気に受け止めて、真剣に心をおびやかしていたと?」

「そりゃぁそうだよぉ。相手に向かって『殺す』とか『死ねば』なんてシリアスなおどし文句を気軽に口にしている国なんか、日本以外にどこにもないよぉ。だから僕は怯えきってる彼女に同情して、ああやって助けてあげたの」

「君は以前にも人を殺めようとした経験はあるのか」

「あやめようとした?」

「あ、そうか分からんか。以前に何らかの方法で人を殺そうとしたか、それとも今回のように、相手を後ろから果物ナイフで刺したことはあるのか」

 そう尋ねると、デスクの上に肘をついていた両手をグッと組み合わたその向こうから、口元が隠れて見えない初老の両目に力が入る。

「あぁ、アメリカに住んでたとき、もっと大きなナイフで刺したことはあったよ」

 あまりにもあっけらかんとしたそんな返答を耳にした途端、呆れたといわんばかりに初老の眉毛がハの字になった。

「その相手は君に何をした」

「いつも僕を怒っていたよ。椅子に座らされたまま両腕にベルトを巻かれて身動きが取れない僕をズッと殴るんだ。だから、寝ているタイミングを見計らってナイフで刺してやったんだ。胸とおなかを」

 そう言うと、まるでそのシーンを回想して恍惚感にでも浸っているかのようにうっすらと笑顔を浮かべながら大きな瞳を宙に泳がせている、そんな姿に初老は唖然としながら尚も問う。

「誰を」

「ダディー」

 

「結局、精神科医に刑事責任能力鑑定を持ち込んだところでは、彼女に責任能力はなかったとの結果が出ましたからねぇ、こればっかりはもうどうしようもないでしょう」

 天井が高く広い空間に灰色デスクが何列も並んでいるその一角で、袖が捲くられた淡い水色のボタンダウンに濃紺のニットタイを絞めている二十歳半ばの細身でスラリとした青年がそう投げかけながら、淹れたばかりの緑茶を初老に手渡している。

「まぁ裁判所じゃあ心身耗弱しんしんこうじゃくと認めたわけだからなぁ。そうなった以上は、刑法第三十九条二にのっとって民法上でも損害賠償の請求すらできんだろうなぁ。まぁそれにしても、元々が『未遂』だったわけだからな。刑事訴訟を起こした相手の母親もやりすぎといえばやりすぎだったなぁ。あんなひ弱な子がチャチな果物ナイフを使ってみたところで、結局は全治一ヶ月だったってだけで、それから半月後には自分の娘が簡単に復学できちまったんだから、示談の方向で進めていた方がよっぽど良かったろうに」

「ほら、その母親って、おそらく今問題のモンスターペアレンツってヤツですよきっと。どうしても腹の虫が収まらなかったんでしょうねぇ。でもまたなんで、法廷であそこまで執拗にこれまでの経緯を事細かく供述したんでしょう? アメリカ時代の話なんかまでは公表する必要はなかったんじゃないですかねぇ。けどあんまりだったから、あの内容を聞いてちょっとだけ興味が沸いたもんで、少女の父親の身元も調べてみたんですがね、やはり供述どおり、ロサンゼルス駐在の後は、東京の関連子会社に出向となっていましたわぁ」

「そうだったか。まぁ一昔前じゃあ海外の駐在員っていうのはエリートの証だったんだろうけど、今じゃ体のいい窓際みたいなもんだっていうらしいからなぁ……。駐在期間が満期になって戻ってみても、会社側じゃ受け皿となるポストはもうすでに埋めていて、自分のデスクがとっくになくなっていたって、以前に取り調べたやつがこぼしていたよ」

 初老はそう言って白髪と頭皮が目立ち始めた自分の頭頂部に手を置くと、かろうじて踏みとどまっている髪の量を確認するかのように撫ぜまわしながら呟いた。

「でも、いまだに俺はどこか腑に落ちていないんだよなぁ……」

「え? どうしたんです?」

「ん? いやな、なんぼなんでもストーリーがクサくないかと思ってな。ロサンゼルスで輪姦されたのがきっかけとなって多重人格者になっちまって、そうして帰国した高校へ入学して暫くしてから『殺す』と脅してきたクラスメイトにビビッた挙句、自分と別の人格が都合よく出てきて相手を後ろから刺しちまっただなんて……。なぁ、弁護士先生を目指していた君の目には、この筋書きはどう映る?」

「まぁクサいっていわれちゃぁクサくも感じますけどねぇ。でもアメリカじゃあ、そんなの日常茶飯事なんじゃないですかねぇ。よくは知らないけど」

「そんなもんなのかなぁ」

 うーん……。

 

 その後の少女は、精神科に通いながらも『現代の少年少女の誰もがともすれば抱えてしまうであろうセンシティブな心の陰影いんえいを象徴した美少女』としてテレビや雑誌、インターネットなどの様々な媒体で話題となり、またあらゆる掲示板では、彼女に対する幾ばくかのバッシングを庇護する同情と哀れみのコメントで埋まるほどまでに全国から注目される存在となっていく。

 そうして、

「お! 部長! これ見てくださいよ! あの子、今年のあのミス・ゴールドナゲット・アワードにノミネートされたって出てますよ! どうりでどこかの人形みたいに綺麗だったわけですよぉ」

 そう言いながら、小金井警察署生活安全課巡査長の青年は、自分のスマートフォンを巡査部長である初老に手渡すと、頭に乗せていた老眼鏡をかけ直し、さらに画面を遠ざけながら彼は目を細める。

「あ本当だ、間違いなくあの子だなこの写真。どれどれ、かぁー、文字が小さくてイライラするなぁこれ。ナニナニ……あれ? この記事には彼女の名前の真ん中にマーガレットってのが入ってるぞ? これは確か調書に記載されていなかったし、裁判でもそう呼ばれていなかったぞ? なんだこれ」

 そんな初老の問いかけに、背後で前屈みになりながら一緒に画面を除いていた青年が、「お茶でもどうですか」と耳元で尋ねてから背を起こし、歩き出そうとしたその足を一旦止めてこう答える。

「あ、それってミドルネームといって、苗字と名前の間に付けられている名前なんですよね。日本では漢字で分別できるからまったく存在しませんけど、欧米じゃぁ名前がダブっちゃうケースが多いので、個性を出すためとか先祖の敬意を示すためとかの理由でオマケに付けられるんですわぁ。ほら、『ジョン・F・ケネディ』ってアメリカの大統領も間にミドルネームの頭文字つきでそう呼ばれていましたよね。あの人の場合は『フィッツジェラルド』からきたFで、これはそれと一緒なんですけど……う~ん、マーガレットは珍しいですねぇ……あ、確かあの子の母親の名前がそうだったからなのかなぁ。そういえば、自分が語学留学でオーストラリアに滞在していた頃に知り合ったマーガレットはファーストネームだったけれど、周りからそうは呼ばれていませんでしたから、最初は彼女の本当の名前がマーガレットだっただなんて、全然知りませんでしたよぉ」

「え? オイ、君は語学留学なんて経験をしていたのか。初耳だぞ」

「あ、ハイまぁ一応……。でも結局は『遊学』みたいになっちゃったし、こんなことを人に話しても、ただの自慢としか受け取ってもらえないでしょうから秘密にしていたんですがね。あの頃の僕は、まさかこうして刑事になんてなるつもりはありませんでしたから」

「オイオイ、刑事になんて、で悪かったなオイ。そういう君のお爺さんは勲功章までもらって警視までいったほどの、それはそれは大層立派な警察官だったんだぞ」

「だからその重圧に耐えかねて弁護士の道に進んだ父親を継ごうとしていたわけなんですが……まぁここでこんな話はもうよしましょうよ部長」

「うむ、それもそうだな、時間の無駄ってやつだな。っで話は戻るが、なんでまたそのマーガレットって人は周りからマーガレットと呼ばれていなかったんだ? じゃぁあれか? マガちゃんとかか?」

「マガちゃんって……。それはですねぇ部長、呼び名は呼び名としてまた別にあるらしくて、本名がマーガレットの場合は、欧米ではメグとかペギーとかって呼ばれているんですよぉ。全然マーガレットと結びつかないでしょう? だから、最初はまさかあの友人のペギーが、実のところマーガレットという名前だったとは、思いもよりませんでした」

「え? 今なんと言った」

「え? まさかあの友人の……」

「そこじゃなくて、その前の、マーガレットは誰とか誰とかって呼ばれてるって?」

「あぁ、メグとかペギーとかって、マーガレットの場合はそう呼ばれているんです」

「メグ? メグ、メグ……。おい、あの子の精神鑑定書をみせてくれ! 早くっ!」

 突然そうせっつかれた青年が、焦った表情でデスクに積み上げられている書類の山から慌ててひとつのファイルを引き抜き、即座に初老へ手渡すと、老眼鏡を鼻に掛けて指をなめながらコピー紙をめくるその手が暫くして止まった。

(……やっぱりそうだったか……)

 すると間もなく、青年が掲げた自分のスマートフォンに指を刺しながら、

「部長! 検索してみたところ、男だと思いこんでいたマッジも、実はマーガレットの呼び名であると出ていました!」

 目を丸くして焦った表情でそう言ってくる。

 それを聞いた初老が、焦点の合わない目を宙に泳がせながら頭頂部に手をやり、唸るように呟いた。


 ……もしや、我々はあの小娘こむすめに、してやられたか……?

 

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