第23話

 二人で屋敷を出ると門の前に黒塗りの車が用意されており、運転手が頭を下げて待機していた。藤沢は無視して通り過ぎようとしたが、後ろから追いかけてきた諸星が僕らに声を掛けた。


「ありがとう、助かったよ。それにしても、面倒見の良い藤沢君が僕の意図を汲んでくれるとは思わなかったな。眞人には、おとなしく政治家になってもらうのが一番だからね」


 諸星は相も変わらず笑みを張り付けながら、「それにしても、君には大きな代償を払わせてしまった」と言った。


 振り返った藤沢は、さも不愉快そうな顔で彼を見つめ、「別に。俺はあんたを手伝ったつもりはないです」と答えた。


「結果的にあんたの思い通りになっただけですから」


 そう言って歩き出した彼は、停車した車の横を通り過ぎ、暗闇に覆われた田舎道を進み始めた。


 僕は後ろに続きながら、先ほどの場面について反芻していた。


 眞人に対してあの時彼が冷たく言い放った理由は、単なる怒りや憎しみといった感情によるものではない。


 そのことは、彼の項垂れた背中を見れば一目瞭然だった。期待を裏切られたことによる失望。その背中はまるで、母が僕を見る憐れみの表情に重なって映った。


 腐れ縁とは、家族の縁に似ている。少なくとも自ら望んで得た絆ではなく、自然と決定づけられた抗いようのない出会いだろう。


 それゆえ時に耐え難い苦痛を伴うものであるにも関わらず、容易に関係を断ち切ることが叶わない。


 それを失うということは、果たしてどれほどの痛みだろうか。僕には想像もできなかった。


「ねぇ、ここって禁煙かな?」


 僕がそう言うと彼は立ち止まり、ポケットから煙草の箱を取り出した。


「……そんなわけないだろ」


「じゃあ、一本くれる?」


「あぁ」


 ぶっきらぼうな返事を寄こすと、彼は煙草を二本取り出して片方を僕に、もう片方を自分で咥えながらライターで火をつけた。


 受け取った煙草を僕が咥えると、彼はついでにとでも言わんばかりに火を寄越した。気遣いがすっかり身体に染みこんでしまっているものだ。


 彼は大きく煙を吸い、ため息交じりに吐き出すと頭を掻きむしりながら、「悪かったな、馬鹿なことに付き合わせちゃって」と言った。


「眞人の方は、相当に堪えたかもね」と僕が答えると、彼は面目なさそうに俯き、「あいつはさ、人に依存し過ぎなんだよ」と言った。


「人のせいにしてばっかりで、自分では何一つ責任を取ろうとしない。肝心のおじさんはあんな感じだし」


「それで、藤沢が背中を押してやったんだね」


「背中を押した……?」


 彼は神妙な声でそう呟くと、顔に皺を寄せ、「そんな大層なもんかよ!」と笑って答えたが、纏う気配には深い喪失感や、やるせなさといった要素が多分に含まれており、それらの湿った空気を背負った彼は、どこか危うい存在に感じられた。


 僕らは虫の鳴き声が響き渡る暗い夜道を並んで歩き、時おり煙を吐き出しながら、遥か遠くに見える都会の喧騒を目指した。


 数日後、僕はいつものようにビアカフェのカウンター席で藤沢と過ごしていたが、店を出てから珍しく彼が飲み直そうと提案したので、僕らはコンビニに立ち寄って酒とつまみを買い込み、彼の部屋を訪れた。


「変わらずって感じだね」


「生活感が命だからな」と笑って応えながら、彼は脱ぎ捨ててあった服を足で端へ寄せた。


「適当に座れよ」


 そう言われて僕が床に腰掛けると、テーブルの上には読みかけの文庫本が置かれていた。


 彼が冷蔵庫に飲み物をしまう間にそれをぱらぱら捲ると、今度はシャーロック・ホームズのようだった。


「ヴァン・ダインは、もう読み終わった?」と尋ねると、部屋に戻ってきた彼は僕が手に持った本を眺め、「やっぱり、推理小説はコンビに限る」と答えた。


「この前と言ってることが違う気がするけど」


「人とはね、日々進歩するものなのだよ、ワトソン君」


「まぁ、滝には気をつけなよ」


 それからしばらくの間は二人で他愛のない会話を繰り広げ、テレビを見ながらのんびりと過ごした。


 藤沢はいつもと変わらぬ様子でお喋りを続けていたが、ふとチャンネルを変えた際に深夜の音楽番組が流れた時だった。


 彼はテレビの中で演奏するバンドを眺めながら、「あいつのバンド、解散したんだってさ」と言った。


「あいつって、眞人のこと?」


「そうそう」と言って藤沢は缶チューハイを流し込み、「これからは、政治家を目指すらしい」


「政治家? それ、本人から聞いたの?」と僕が尋ねると、彼は眉間に皺を寄せ、「まさか」と答えた。


「諸星だよ。結局あいつの予想通り、眞人は心を入れ替えたわけだ。色々と胡散臭い奴だけど、あいつが近くにいた方があの親子は安心かもな」


 テレビ画面に映るバンドの演奏を眺めながら、彼はどこか寂し気な表情を浮かべていた。


「人の幸福には、他人の犠牲が付き物なのかな?」


 僕がそう尋ねると、彼はほんの一瞬の間戸惑った表情を浮かべた後、こちらへ振り向き、「それじゃまるで、連続殺人犯の理屈だな」と笑いながら答えた。


「もしあいつが政治家になったら、それはそれであの親バカもまた頭を抱えるだろうな」


「言えてるね」

 

 親バカか……。


 あれほど息子を溺愛しておきながら、その本質については何一つ理解しきれなかった父親。


 それに対し、藤沢は憎たらしく思う相手にも関わらず、彼の背中を押すため、腐れ縁という縁を断ち切った。


 僕がもし縁を切ったら、母親はどう思うだろう。そして、僕はどうだ。僕らは果たして、互いを理解しようと努めただろうか。


「藤沢のお父さんってさ、どんな人?」


 僕がそう尋ねると、唐突な質問に藤沢はしばし考え込み、「至って普通の父親だよ」と答えた。


「普通に働いて、休みの日は普通に家でだらだらしてる感じ?」


「普通だね」


 それなら僕は、僕と父親の関係は、普通だと言えるだろうか。


 父は僕らをあっさりと切り捨てた。そこには僕らを想っての判断も、少しは含まれていたのだろうか。


 僕は缶チューハイを一息に飲み干すと、酔った勢いで立ち上がり、部屋の中をふらふらと歩き回った。


「おい、何やってんだよ?」と藤沢は笑いながら止めようとしたが、今の僕にはどうしても確かめておきたいことがあった。


「おっ」


 まるで瓢箪のようなシルエットをしたそれは、クローゼットの中で静かに眠っていた。ケースが埃を被っているようなこともなく、思いのほかすぐ手前に配置されている。


 ひょんなことから一度取り出され、ひとまずここへ仕舞い込まれた、そんな息づかいすら感じ取れる。


「藤沢ってさ、案外嘘が下手だよね」


「はっ? 俺から嘘を取ったら一体何が残るんだよ?」と彼は冗談めかしく答えたが、クローゼットから僕がギターを取り出すと肩を竦め、「夏目が相手じゃ、隠し事も下手かもな」と言った。


「隠す必要なんてないんだよ」と答えた僕は、手に持ったギターケースを眺め、「こんなお願い、図々しいかもしれないけどさ――」と彼の方へ振り返った。


 彼はこちらをじっと見上げ、次の言葉を待っている。僕はふらつく身体を自然のままに委ねながら、「藤沢のこれ、ちょっと聴いてみたいかも」と言った。


「俺の?」


 彼は少々煩わしそうな表情を浮かべ、「中条さんに比べたら、人に見せられるようなもんじゃないよ」と答えたが、その言葉とは裏腹にケースを受け取ると、ギターを取り出して調律を始めた。


「酔ってるから、上手く弾けないかも」と言い訳をしつつ、チューニングが整うと即興で曲を弾き始めた。


「ははっ、ははははっ!」


「だから、今は下手だって言ってんだろ。本当はもうちょい上手いはず。――おぉ、手が震える」


 彼の演奏を聴いた僕は、どうしようもなく笑いが込み上げた。それは間違っても彼の演奏の不出来によるものではなく、胸の奥から込み上げてきた、の仕業によるものだった。

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