記憶のない女

海野ぴゅう

第1話 惑う

 恭子は浩一の申し出に迷っていた。



 明るくて『いつも楽しそうだね』『悩みとかなさそう』とよく言われる恭子は、45歳の誕生日を過ぎてからすぐ、身体の不調を感じるようになってきた。


 28歳の時に急に自分の出産年齢の限界を感じて子供が欲しくなり、その時付き合っていた人とすぐに結婚して子供を産んだが、その時と少し似た焦り。

 自分の身体は自分が一番良く知っている。案の定だった。



『あと3か月の命ですね』





「あれ、キョーコ?」


 喫茶店で顧客との打ち合わせを終え、帰る支度をしていたら、大人数のテニスサークルらしき集まりのテーブルから声をかけられた。

 恭子はその男性をじっと見つめた。重力に顔の筋肉が負けてくたびれてはいるが、よく知っていた男性だった。


「浩一…」


 正直、嫌な相手に見つかってしまった、と彼女は感じた。でも条件反射でにっこりと笑顔を作る。こういうところがダメなのだ、と自分でも思う。損だ。


「あれ、ここらへんに住んでるの?」と言いながら、彼は恭子の側に来て、違う席に誘導する。



「いえ、お客様がここの近くなんで。仕事の打ち合わせ」


 そう言えば、大学時代に彼はこの団地に住んでいた。でも、子供が出来て結婚して引っ越したはずなのに…? 


「そうなんだ。せっかくだし少し話そうよ」と言う彼からはウキウキが伝わってくる。


 迷惑だ…と彼女は芯から思うが、顔に張り付いた笑顔は取れなかった。





 結局恭子は30分ほど浩一と話してから店を後にした。


『無駄な時間を過ごしてしまった…』と思いつつも、昔と相変わらずの彼の調子の良さに少し気持ちが上向きになった自分がいる。

 事務所に戻ると、案の定、


「恭子ちゃんいいことあった?嬉しそうじゃない」と少し年上の女性の事務員から声をかけられた。彼女はいつも髪を触りながら話す。それがうざったい。なぜ髪を触らずに話せないのか理解できない。

 彼女は社長のお気に入りだ。手が付いているかはわからないが、そのせいで周りから一目置かれている。つまりは『触らぬ神』だ。


「いえ…」とニコニコしながら適当に返事をして、パソコンに向かい、図面と見積もりを作り直す。


 毎回違うお客とはいえ、似たことの繰り返しに恭子はため息をつく。

 いつの間にかこの仕事を始めて20年ほど経つが、疲労感を感じたのは初めてだった。病気のせいだろうか?


「あれ、恭子ちゃん眼鏡変えた?」


 事務員に聞かれ、入力に集中していたが仕事が中断される。

 まただ。これには髪形や化粧など多数バージョンがある。


「あ、はい。気分転換に」


 本当は変えていないが『私全くにあなたに興味がないから』という事務の彼女からのアピールに応えるのも面倒なのでそう答える。


 なんなんだろう?

 この世界がおかしいか、自分がおかしいか。

 笑顔を無理に作れなくなってきた。



 恭子はパソコンで文章をプリントアウトする。定型文だ。それと病院の診断書を封筒に入れた。


 そして立ち上がり、部長に辞表を出した。

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