〇〇を喰らう化け物のはなし

よもぎパン

第1話 拝啓、ヒポクラテス




 曲がりなりにも医学を生業にして生きてゆくと決めた時、ひとつだけ心に誓ったことがある。どんなことがあろうとも、体調不良の人間を前にして「面倒くさい」とは思うまい、ということだ。

 医大で六年。そのあと大学病院で三年。そして現在居ついている片田舎の病院で約一年。信念として抱いてきた誓いを裏切ることなど、一度もなかったのに。


 その時の俺は思ってしまったのである。

 これは面倒くさい事になった、と。


 傍の遮断機を走り抜けていく電車の振動。見下ろした先には、雑居ビルの片隅に座り込んだ女。膝を抱え、そこに顔を埋めているせいで顔は見えないが、髪型や服装から二十代の半ばであろうことは予想がついた。


「大丈夫ですか。誰か呼びますか」

「の……、甘美な……を、」


 時刻は午後十時。新年度の飲み会で潰れたのか、女はブツブツと何かを呟いている。

 プシュー、と駅で停車していた電車が息を吹く。同時に、生き物でも飼っているのかと自嘲せんばかりに己の腹の虫が鳴いた。早く食わせろと、虫は鳴きわめく。


「警察を呼びましょうか?」

「こ……ど、でき……か、……て」


 思わず、舌を打つ。こっちは体調不良の当直医に代わって当直をこなし、外来を開け、挙句の果てにこんな時間まで代診をしていたんだ。一刻も早く家に帰り、食事にしたかった。


 右手には、ずっしりと重い紙袋。店員が二重にしてくれたそれには、ぎっしりと小説が詰まっている。古い戯曲に、錚々たる文豪たちの名作。その中には、同じものを百冊以上購入している本も混ざっている。

 毎度同じ本ばかり大量に買っていく客などさぞかし気味が悪かろう。店員に顔を覚えられる前に、また店を変えなければいけない。


「……こ、も、……も、ぜん、ぶ、」


 早く食わせろと虫が鳴く。鳴く、鳴く、泣く。

 そうして、俺は息を飲んだ。

 うわ言を繰り返すばかりの女の髪が、揺れる。春の風が攫ったのではない。髪が勝手に揺れている。海を漂うクラゲのように。


「の……こ、で……、く……、ば、」


 ふわり。ふわり。揺れた髪の先から。女の耳の後ろ、こめかみ、前髪の隙間から。文字がぽろぽろと溢れ出て、星屑の散る夜空へ向かって飛んでゆく。


 ……ああ、面倒な事になった。見ず知らずの女の腕を引きながら、俺は唇を噛み締めた。




 

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