味わえ

aoiaoi

第1話

 ある冬の夕方。

 A市警察署の電話が鳴り響いた。


『A市内△番地付近のアパートのベランダで、男性が助けを求めていると通報あり。現場へ急行願います——』



 連絡を受け、狭山巡査部長と彼の部下が、現場へ急行した。

 通報した女性は、夕闇の濃くなるアパートの2階の一室を指差し、不安げな顔で狭山に説明する。


「あそこで、男の人がベランダに這い出したような感じで、上擦るような声で叫んでたんです。『助けてくれ!』って。

 でも、叫んでたのはほんの少しの時間で。その人はすぐにまた奥に入って行きました。

何かに呼び戻されような感じで部屋を振り返って、ものすごく怯えながら……」


 狭山はその部屋を見上げるが、サッシは閉じられて電気もついておらず、今は静かだ。


「男性が助けを求めていた時は、部屋の電気はついていましたか?」

「いえ、ずっと暗いままです」


 状況を確認するために、狭山たちは当該アパートの部屋へ向かう。

 細心の注意を払いつつ、玄関のドアに近づく。

 ノックして声をかけるが、返事はない。


 慎重にドアノブを回す。

 鍵はかかっていないようだ。

 素早く玄関を開けつつ、敵が飛び出してくる可能性を考えて身構えるが、その気配はない。


「警察です。誰かいますか」


 声を張るが、返事はない。

 用心しつつ部屋へ入る。


 冷え切った薄暗いワンルームの中、男が1人背を丸めるように倒れているのが見えた。


 テーブルと床のあちこちに、食べ物が飛び散り、臭いを放っている。

 石油ストーブが一台あるが、この寒さなのに使われた気配はない。


「——A市警察です。

 聞こえますか?聞こえたら返事をしてください」


 狭山は、男に向かい呼びかける。


「…………はい……」


 その体が身じろぎし、小さな返事が返ってくる。

 死亡はしていない。

 大量出血などの様子もない。


「——あなたは、先ほど部屋のベランダから助けを求めた男性ですか?

 お名前を教えてください」


「——そうです……田崎 義彦……

 何も、食べていなくて……寒い……」


 狭山の問いかけに、男は細い声でそう答える。


「ここは、あなた自身の部屋ですか?」


 男は、小さく頷く。


「他に人は?」


「誰もいません……多分」


「多分?

 ——とりあえず、確認させてもらいますね」


 風呂場やトイレのドアなどを開けて注意深くチェックしても、人の気配は一切ない。


「ここには、ずっとあなた一人ですか。だれかが侵入したとか、そういうことは?」


「……ない……はずです……」


 田崎という男の言い方は、何故か歯切れが悪いが——

 本人以外、誰もいない部屋で。

 床に食物をまき散らしながら、何も食べられず。火の気もなく。

 一体どういうことだ?


 狭山は、男を慎重に抱き起こす。


「……たっ、助かるんですよね……?」

 朦朧とした意識が次第にはっきりしてきたようで、男は狭山の腕を震える指で必死に掴む。

「今救急車を手配しました。まずは病院へ搬送します。

 その間に、ここで何があったのか、少し話してもらえますか?」


 男は酷く怯え、衰弱した様子だ。

 年齢は40代半ばくらいだろうか。平凡なルームウェアには汚れがつき、髪はバサバサに乱れている。痩せ型で、神経質そうな印象を受ける顔つきだ。


 男は、真っ青に乾いた唇を震わせながら小さく呟く。


「……何日か前に……仕事から帰ってきてから、突然訳のわからないことが起こって……

 操作していたスマホの電源が、なぜか突然切れて、使えなくなりました。

 同時に、ストーブも電気も消えて……どうやってもつかないんです。

 恐ろしくなって、部屋から出ようといくらドアを押しても引いても、開かなくて。どんな方法を使ってもだめでした。

 窓もサッシも開かず、絶対に叩き割ることができない。窓や壁を叩いて内側からいくら叫んでも、誰も気づいてくれませんでした。

 それからはもう、寒い部屋の中にうずくまっているしかなくて……


 ものを食べようとすると、何かに激しく突き飛ばされ、妨害されて……一切食べれられないどころか、その度に身体中を散々殴りつけられました。

 何が自分を突き飛ばし、殴るのか、その実体さえ目に見えないし、いくら叫んでも何の答えも返ってきません。

 やっと風呂を沸かせたと思ったら……今まで湯気を上げていた風呂が、足を入れると氷のように冷たくて——背後から何かに突然浴槽に突き落とされ、すごい力で水中に頭を抑え込まれました。

 苦しくても、顔があげられない。

 死ぬ、と思った瞬間、その力が急に消えて……何とか助かったのですが……

 濡れた体を拭こうにも、タオルも全部消えていました。


 一体何が起こっているのか……さっぱりわからない。

 そうやって……何日過ごしていたのか、わかりません。


 さっきベランダに出られたのは——その時だけ、サッシがなぜか開いたんです。

『ベランダに出て叫べ』と……誰かに、そう言われた気がして。

 力を振り絞って叫びました。

 けれど、何度か叫ぶとすぐに部屋へ引き戻されました。

 ……何か見えないものに体の自由を奪われたように、自分の意思では一切動けないんです」


 男は何かに憑かれたように一気にそう吐き出すと、寒さと恐怖でガクガクと震える。


 男の話は、訳のわからないことばかりなのだが——とにかく何日間も、食べられず暖も取れず、この冷え切った部屋に横たわるしかなかったのだろう。

 少なくとも、何か常軌を逸する出来事が起こったことは間違いなさそうだ。


「田崎さん、わかりました。体調が回復したら、改めて詳しくお話をお伺いしますので——」


 ふと、男のトレーナーの袖、左腕の前腕部分に何か点々と赤黒いものが滲んでいるのを見つけた。


「左腕に、血のようなシミが……。

 怪我かもしれない。袖を捲れますか?」


 狭山は、男にそう話しかける。

 男もそれには気づかなかったようで、恐る恐る袖を捲り上げた。



 そこには——

 文字が刻まれていた。


 皮膚を薄く裂いたような傷から血が滲み、文字を示している。




 ————『味わえ』。




「——……!……」



 その文字を見た途端、男の顔が一層蒼白になり、歯がガチガチと音を立てる。



「……田崎さん?

 この傷に、心当たりなどは……」



「——……

 し、知らない……知らない、そんなこと!!!

 ——ああ、もうやめてくれ、頼む…………!!!!」



 男は気が狂ったように頭を抱え、絶叫した。




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