空気(連作「六姫」②:空姫)

真花

第1話

 じっと見ていた。

「お前、居るか居ないか分かんないから、あだ名、『空気』な」

 悟性の多少出始める小学校三年生に上がってすぐに、男子のボスの修二にそう言われるまでもなく、私はずっと空気だ。本名が空であることと彼は掛けていたのだろうけど、私が空気であるのはそういう理由ではない。もちろん、存在の希薄さからでもない。

 クラスの中で街の中で、私はじっと見ていた。

 私はずっと世界を覗いていた。覗く側で居続けた。

 それは当事者には決してならず、関係者にもならず、単純な傍観者でもない。傍観者の立ち位置に居ながら、関係者を貫いて当事者を見る。

 私は何もしていないのに全能な支配者のようになる。その感覚はまさにその小学校三年生のときに卒業した。

「空ちゃんは空ちゃんじゃない! 何よ、『空気』って!」

 反射神経よく女子のボスのような理香が反論したが、修二は、へへへ、と取り合わずにどこかに行ってしまった。それで既成事実になったのか、私達の居ないところで言いふらしたのか、「空気」は定着した。女子はそうは呼ばなかったけど。

 万能感の向こう側の覗きは、そう言う状況で始まった。


 昼休み。

 修二が理香の側に行く。校庭に向かえばいいだろうに。

 私は自分の席に座って、じっと見る。でも、二人は私の視線に気付かない。

「お前、二組の耕作のことが好きらしいじゃん」

 理香は、彼女らしくない一瞬の間の後に修二の肩をぶつ。

「何言ってんのよ!」

「へへへ。図星かよ」

「そんな訳ないでしょ」

 もう一回叩こうと振りかぶった理香の右手をよけるように修二は教室の外まで一気に駆け出してゆく。へへへ、と言う声が遠ざかって、消える。

 理香の小さなため息。そして他の女子に「やーねー」とぼやく。

 私は最後までじっと見る。

 修二は理香のことが好きだ。いつ見ても、彼は理香にちょっかいを出す。その反応が否定的なものが殆どなのに、修二の顔には一定の満足がある。彼の中の理香を欲する成分がいくばくかそうやって満たされてから、修二は他のことをする。状況的に可能な範囲ではほぼ全て、一部無理がある形でも、彼はそれを繰り返している。

 しかし、では理香とどうこうなりたいか、と言ったらそこまでは考えていない。親が夫婦になるような、男女の付き合いというものを具体的に求めるということまで思い至らない。

 一方の理香もまんざらではない。本当に嫌なときには絶望的なまでにズバッと切るのが理香だ。かと言って、男の子として好きかと言うとそうでもない。修二とのやり取りを、心地よい毒のように感じている。では、耕作のことが好きかと言うとそれは事実だ。にも関わらず、修二にはそれを伝えない。それは自分の淡い恋を大切にするというのではなくて、それを告げることが修二との現状を終わらせてしまうと考えているからだ。

 ただ、このことは全て私が想像したことだ。

 覗きとは想像だ。それが真実であるかどうかは関係がない。想像の刺激に酔うことであり、覗き先はその題材でしかない。

 私は一通り想像し終わると、くふっ、と一人で笑って、次の覗きを始めた。後で知ったことだが、人が独りで急に笑うことを空笑と言うらしい。


「ウチの両親って、お互いのこと『空気』って言うのよね」

 理香はクラスでも飛び抜けて大人びていて、そう言う何だか隠微な大人の事情のようなものをよくひけらかす。

 私のあだ名が「空気」だったことからだろう、そこにいた全員が私の方を見る。

「居ても居なくても同じ、ってことでしょ?」

 私はずいぶん久し振りに自分が空気じゃなくなったので、咄嗟にどこかで聞きかじった知識から言葉を引っ張る。

「そうそう。でも空ちゃんは『空気』じゃないよ」

 理香はそう言うが、私自身がそう思っているのだからそんな抵抗は虚しい、誰もが儀礼的に頷くだけ。

 話題は流れて、私はまた「空気」としての立ち位置に戻る。

 家に帰り、両親が揃ったところで訊いてみる。

「お父さんとお母さんも、お互いが空気なの?」

 両親はお互いに無関心だと私は感じていた。同時に、二人とも私を愛していてくれている。夫婦というひとまとまりから愛されるのではなくて、お父さんとお母さんと言う、二人の独立した大人から愛されている。

 私はそれに疑問を持ったことはなかったし、不満もなかった。

 だけど、無関心な二人が一緒に生活しているのは不思議だったので、今日の話題をきっかけとして訊いた。

 お父さんは少し考えてから、ニッコリと微笑んだ。

「そうだよ。空気」

 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけがっかりして、どうしてだろう、寂しい。

「でも、空気ってのは、あるのが当たり前だけど、ないと死んじゃう、そう言うことだろ?」

 入って来た言葉が咀嚼されて、ついさっきへこんだこころが、ふーっと膨らむ。両親がお互いを必要としていることが、嬉しい。ぱあ、っと明るくなったよう。

「お母さんも同じ?」

「そうね」

「『空気』にも色々あるんだね」

 きっとニコニコしていた私を、お父さんとお母さんが順番に撫でてくれる。

「空にもきっとそう言う人が現れるよ。一緒に生きる人が」

 お父さんの真剣が真っ直ぐにこころに届いて、覗くのとは違う関わりもあるのだな、胸がじんとした。


 でも私はずっと覗く人を家の外ではやり続けた。世界と私の二分法の中に居続けた。

 中学二年生のときに、およそ初めて自分のしていることに疑問を持った。その理由は自分でもよく分からない。思春期だからと言うことだけなのかも知れない。死や永遠や恋や将来のことを考えるのと同じ濃度で、自分を考えたのかも知れない。

 丁度peeping Tomと言う言葉を知った。デバガメ、つまり覗き屋と言う意味だ。だから、私は自分のそう言う側面に名前を付けることにした。でも、トムもデバガメもいかにも下卑ていて、覗き人とかも洗練されてなくて、悩んだ挙句にシンプルにpeeperと呼ぶことにした。ピーパーは語感が私のセンスにフィットして、名付けたその日からピーパーという自分と対話を始める。

「ピーパーはいつから私の中に居るの?」

「君が気付いたときからだよ」

「ずっと一緒ってことだね」

「離れることはないのかも知れない」

 もちろん一人で応答している。最初から、ピーパーが私の一部だってことは分かっている。

「覗くのがどうしてそんなに好きなの?」

「刺激的な想像が出来るからだよ」

「それだったら、本とかテレビでもいいじゃない」

「本は想像をこうさせる、ということを意図して書かれているから自由の点で劣るし、テレビは既に誰かが覗いたものを覗いているのだから距離の点で劣る。何よりも、本当に起きていることがその内実が謎に満ちていることが、最高の想像の種になる」

 しかし私達は覗きに関すること以外は話さない。遠目に見てかっこいい男の子がいたとしても、それが単なる恋もどきなら、つまり現実に私が触れる可能性のある相手なら話題には上がらないし、逆にただ見るだけの相手なら専ら話す。

 せっかく生まれたピーパーだったが、殆どの時間は私の覗きの内容に付き合うことになった。


 高校一年の秋、一人で下校しているときに紅葉の葉が一枚ひらひらと落ちて来た。

「そう言うことか」

 私は衝撃に立ち止まる。葉はそのまま落ちて、地面に居るたくさんの葉の中に溶けた。

「ピーパー、私は特殊な人間なんだ」

「どうしたんだい、急に」

「誰も居ないところで葉っぱが落ちる、それすらも、自分の体験としてではなくて覗きの中のものだと捉えてる」

「そうだね。いつも、そうだね」

「私はあまりにここに居ない」

「悲しいこと言うなよ。君がそこに居るから覗きが出来るんじゃないか」

 私はかぶりを振る。

「世界から切り離されたところに居るから、覗きなんだよ」

「確かにそうだけど」

「だから、私は世界に居ないんだ。でも、だからと言って世界の中に飛び込む必要性を感じない」

「楽しく生きているものね」

 また私は首を振る。

「でも、気付いてしまったんだ。私は私を世界に刻みたい」

「じゃあ、世界に飛び込むしかない。傍観者をやめて、当事者になろうよ」

 三度いやいやとする。

「それは出来ない。意志の問題ではなくて、能力の問題で」

「じゃあどうするんだい?」

「ピーパー、今日でお別れだね。君と私は元の一人に戻る。そして、私は覗く人として、そう言う人間として、その人間のありようを形にして、それを世界に刻む。私に残された世界への自分の残し方はそれしかないと思う」

「つまり、想像から創造に進むってことか」

 つまらない駄洒落で彼が最後になるのは寂しいけど、彼の言った内容は間違いなく私が進むべき道だ。

「そうだよ。私は私という覗く人間を反映した作品を作る。そうやって生きて行こうと思う」

「そのためには僕が君のちょっと外にいるのではダメなんだね」

「私と君に分離されている成分の両方が、必要だって、何故か分かるんだ」

「ああ、僕にも分かる。安定のための分裂ではダメなんだ。不安定でも君の全てでないと」

 私の頬を涙が伝う

「ありがとうピーパー」

「なに、また出て来て欲しくなったらすぐに出てくるさ」

 そんなことは二度とないと分かっているくせに。

「さよなら、ピーパー」

「さよなら、空」

 ピーパーは決めた通りに、消えた。

 私は彼と話した通り、作品を作ることを始めた。同時に、そう言うことをやる芸術系の大学に進学したいと思った。大学で何が学べるかは想像が出来なかったが、少なくとも同じような人間がそこには居るのだろうと思ったからだ。

 両親は私の進路に賛成してくれた。彼等から見ても私の特殊性は透けていたようで、むしろ合っている可能性の高い方向を目指したことを喜んでくれた。

 二年半の準備で、私は芸術系の大学に入学することが出来た。

 ふと、ピーパーのことを思い出す。

「ありがとう、君のおかげだよ。でも、これからが本番、見ててね、ピーパー」

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