第15話


 アルペーヌの町は、峻厳なアルペーヌ山脈の麓の窪地に、水たまりのように広がる本当に小さな町だ。


 ここから上には牧羊をする人と、人ひとりがようやく通れるかというほどの広さしかないアルペーヌ山の道を越えていく旅人くらいしか歩いてはいかない。


 そのため、この山裾の町が事実上の関所も同然だった。


 そうは言っても、山側の門を出入りするときに通行証か商人であることを示す手形、もしくは牧羊証明書を持っていれば出入りできるのだから、ほとんどざるのようなものだ。


 アルペーヌの町自体、温泉以外特に売り物となる産業もない町なだけに、外から来た客にはきわめて優しい。


 ここに来たならぜひ秘湯の温泉にというかけ声を横に聞きながら、アースは被った外套をしっかりと合わせた。


「とにかく何か食べようよ。携帯食は非常用に大事だから、あまり使いたくないし」


 声をかけると、隣で周りに目をやっていたシリオンは、そののどかな様子に安心したように頷いた。


「そうだな。食べられるうちに食べとくのは基本だし、お前の細い体では一食抜くのだけでも不安だ」


 そう言うと、手際よく馬の手綱を見つけた店の前の柵にくくりつけている。


「ひどいな。これでも一食二食抜きは平気なのに」


「だから細いのか。その腕なんて俺の筋肉の半分しかないぞ」


「それはない! いくらなんでも、標準はある!」


 咄嗟に叫んだけれども、自分ながら説得力に乏しい自信はある。


 慣れない馬の手綱を縛るのに苦戦していると、側からシリオンが「貸してみろ」と取り上げた。軽々と手綱を操る剣を持ちなれた指の太さの違いを見ると、やっぱり同性としては落ち込んでしまう。


 自分の細い手を見つめ、ふうと溜息をつく。


 その左腕には、昨日イシュラ王子につけられた金色の腕輪が嵌っている。


 ――なんだろう、これ……中になにか石みたいな手触りがあるけれど……。


 王家の紋章を施した金色のその腕輪は、まるでお気に入りの猫につけられた首輪のようにも見えて不安と不快をかきたてる。どんなにしても、外れないところまでもだ。


 けれども、顔は平静を装ってもう手綱を巻き終わったシリオンの、「行くぞ」と言う声についていった。


 木で作られた食堂の中は、十二個のテーブルが狭そうに並び、半分ほどが客で埋まっている。


 念のために、頭に巻いた布をもう一度確かめてから、フードを外す。


 髪は今朝、シリオンにも手伝ってもらいながら、念入りに三つ編みにして頭に巻きつけた。とはいえ、さすがにこの長さを見られれば、すぐに十賢とばれてしまうだろうから、頭に巻いた布を外すことはできない。


「お客さん、温泉には入られましたか?」


 それでも注文を聞きに来た筈の男の第一声に、アースはちょっと笑いながら返事をした。


「いえ、まだ。彼には絶対に入ってほしいんですが」


「ひょーこれはすごい男前の旦那だ! ちょっと旦那さん! こんなに綺麗な奥さんなら絶対に温泉に入るべきですって! 今でも綺麗な奥さんの肌が温泉で薔薇色になって、ふんわりと自分を見つめてくれる。これを逃すなんて男じゃありませんや」


「そんな姿は俺以外には見せられん!」


 ふんと腹立ちを隠しきれない顔でシー・リオンが返事を返す。それでも、相手は温泉の売り込みをやめようとはしない。


「いやいや。二人風呂もありますから。見たくありませんか? 湯煙の向こうの奥さんのや・わ・は・だ」


 それにシー・リオンの目が開いた。


 一瞬だが、ごくりとその喉がなったのに気がついて、アースはにこやかにすっとメニューをその目の前に差し返す。


「おじさん、彼に蜂の子の黒砂糖まぶし、たっぷり辛子添えいきづくり。それから僕にアルペーヌ山羊のシチューとパンで」


「へいっ!」


「ちょっと待った!」


「あ、あと彼にも胡椒入りパンと地獄の蜂蜜スープを」


「お客さん、ここの名物をよく御存じだねーいや、この名前を見て注文するほかのところの人を久々に見たよ」


「彼は探検家で美食家なんだよ」


 そう黒い尻尾が自分ながら生えていそうな表情で笑うと、文句を言っていたシー・リオンが急にしゅんと押し黙った。


 ――あれ? やりすぎたかな?


 柔肌なんて、想像しているみたいだったから、つい仕返ししてしまったが、無理矢理想像されられたのなら、ちょっと可愛そうだったかもしれない。


 ――ていうか……男に柔肌もなにも。


 そう思うと、もう苦笑しかもれてこない。ただ、シリオンに明らかに性の対象として考えられたのが、ちょっと気に入らなかっただけなのだ。


 ――彼の恋を受け入れるなら、それも受け入れないとダメなのに……。


 わかっている。


 ぎゅっと指を握りしめる。 


 キスはいい。抱きしめられるのもかまわない。でも、恋愛なら、それ以上を求められるのは時間の問題だろう。


 ――僕は彼の男を受け止めることができるのかな……。


 そう考えると不安でたまらなくなるのに。


「その……すまん……」


 ふと、自分の考えに入ってしまっていたのにその声で気づき、顔を上げると、シー・リオンがしょげた顔をして指をテーブルで組み替えていた。


「なんかお前を怒らせたみたいだ……」


 ぱちっとアースは瞬きをした。


「――え?」


「すまない。女に間違われているみたいだったから、そのまま夫婦に思わせておけば、追手から逃げるのにも好都合かと訂正しなかったんだが。お前には不愉快だよな。悪かった」


「――――――えーと」


 咄嗟に言葉が出てこないとはこのことだ。


「いや、女に間違われるのはもう慣れっこだし、むしろその方がばれなくてありがたいんだけど」


「でも、お前怒っただろう?」


 ――うわあ、泣きそうという顔を久しぶりに見た。


「お前、怒ると昔から嫌がらせをするから……」


「――ごめん。今、ちょっと怒りたくなった」


 シリオンの中で僕はいったいどういうふうに捉えられているんだ。


 まったくもうと、一つ吐息をつきながら、運ばれてきた料理をシリオンの前に並べてやる。


「怒っていないよ。むしろそうしてくれたほうが目立たなくていい。それに、これ。食べてみてよ、名前よりもずっと味はいいから」


 そう言って彼の前にさっき頼んだ料理を並べてみる。


 それを見た彼は思わず固まったようだった。


 蜂の子供の形をした黒い物体は入れられた深い木の皿の中で、まるで生きているようにゆらゆらと揺れている。


 その横に胡椒パン、そして赤黒いどろりとした地獄の蜂蜜スープを並べてやる。


「わかった」


 しかしシー・リオンは無駄に男前に微笑むと、決死の戦場に出るようにフォークとスプーンを握りしめた。


「それでお前の気が済むのなら! これぐらい食べてみせる」


 そう言ってほとんど阿修羅の表情でシー・リオンは蜂の子の黒い姿にかぶりついたが、すぐにおやと、たっぷりとかかった唐辛子ソースがついた口元を手で拭いながら、皿を見つめた。


「おいしい」


「そりゃあそうだよ。ここの蜂の子は水飴細工だもの。それを熱い皿に入れて溶ける様子がまるで生きているように見えるからそういう名前なだけで。実際は甘辛くて、高カロリーの山越え用の栄養食」


 自分用にと頼んだパンを一かじりしながら笑いかける。


「シリオン、昨日寝てないだろう? そのパンは山で転落しないように、眠気を取るためのものだし、そのスープは体を暖める効果が高いんだ。しっかり栄養をとらないと体がまいるよ」


「なんだ、てっきり俺はお前が怒っているのかと思った。あ、でも、お前はなんでこれにしなかったんだ?」


「だってそれ、全部食べると口の中が絶対味覚音痴になるから」


「ちょっと待て! それを知っててわざわざ揃えたのか!?」


「大丈夫、色々精神的に飛躍できるよ」


「精神の前に味覚が飛躍して二度と帰ってこんわ!」


 パンを握りながら、叫ぶシー・リオンに、アースがあははと笑って答えているとそのテーブルの側にひどく美しい女性が近づいて来た。


 金と茶色の長い髪を後ろで束ね、腰には目立たないようにしながらも重い剣を下げている。


 何よりもその礼に則った所作の仕草に、地元の民ではないことに気がついて、アースは旅人の姿をしている彼女を見つめた。


「陛下。お迎えに上がりました」


「ああ、マルカか。よくここがわかったな」


 すっと身を屈めた彼女は美しいが、女官の動きではない。胸に手を当て、礼をする仕草はまるで騎士のようだ。


「ガルディより、早朝緊急の伝文がまいりましたので」


「そうか」


 すっと、シー・リオンはそれまで持っていたフォークを皿に置いた。


 そして横を見つめる瞳は朝日の中で碧に煌めき、赤金色の髪の輝きと混ざってアースでさえも思わず息を呑む。


 白い鼻梁がひどく端正に微笑んでいる。


 ――この女性にはそんな表情をするんだ……


 誰なんだろうとは思ったが、ここで口にするのはまずいのだろう。


 こちらを見つめたマルカの視線に、アースはそっと会釈をしたが、それが彼女のなにかに触れたらしい。シリオンと並ぶと、神話の神と女神のようだったその美貌の眉が急につり上がり、眦がきつく持ち上げられた。

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