第13話

 掴んでいた長い黒髪をさばさばと思い切って、シリオンからナイフを借りるのに振り返ると、視線の先では神話からぬけでたような美丈夫が、腕を顔の前にあげて驚愕のポーズを取っている。


「シリオン、どうしたの? ナイフ貸してくれない?」


 けれども言った瞬間、目の前に置いてあったナイフがさっと横に動かされる。


「シリオン?」


「お、お前! 突然髪を切るって! なんでだ!?」


「え? だって重たいし、目立つし。こんな髪をしていたら十賢が歩いてますよって名乗っているようなものじゃないか」


 十賢の特徴はその長い髪と王家に決められた身に纏う襞の多いローブだ。


「動きにくくて前から嫌だったんだ。十賢になったら、決められた時に髪を揃える程度しか切ったらいけないし。長なんか、何十年も伸ばしっぱなしで、もう部屋中の掃除が髪でできる白髪三千丈の世界だし。もう早くにはげた人が羨ましくて羨ましくて。十賢の間では、どうやったら若はげになれるかと真面目な論議が重ねられるほど短い髪は憧れなのに」


「だからって! 短いとはげはかなりレベルが違うだろう!?」


「丸はげの方がいいんなら、今全部剃るけど。洗うたびに重いわ、乾くのに時間がかかるわ、終いには朝起きたら絡まりまくって邪魔で仕方がなかったんだ。うん、はげの方がましだな。剃ろう!」


 あっさりと決心して、ナイフをシー・リオンの横から取ろうとすると、全力でそれを隠された。


「シリオン?」


「駄目だ!」


 ひどく必死に慌てた様子でそれを握りこんで渡すまいとしている。


「はげはだめなの? じゃあ、角刈りで妥協」


「それは妥協と言わん! 駄目だといったら駄目だ!」


「細かいなあ。じゃあ、頭の上だけ剃って、周りは五センチぐらい残す河童スタイルで」


「別の意味で悪目立ちだ! とにかく許さん!」


 絶対に切るのは禁止というように、必死でナイフを死守するその様子に、見つめていたアースの唇からくすっと苦笑がこぼれた。


 ――やっぱり。


 男らしくなるのが嫌なのだろう。きっと想像して、自分が男という現実に気がついてしまったのに違いない。


「シリオン……」


 ――今なら、まだ勘違いぐらい、いくらでもやり直せると言わないと。


 自分がシリオンに抱いている感情は友愛だ。シリオンも同じなら大丈夫。昔のほのかな恋の記憶ぐらいこれからきっと乗り越えていける。


 だからとアースは微笑みながら、必死でナイフを握りしめているシー・リオンのほうを見つめた。


「髪ぐらい。女じゃないんだからむしろカッコいいだろう?」


「カッコよくても、女じゃなくても、縁起が悪いから駄目だ!」


 ――…………。


 しばらく、アースの中で言葉が出てこなかった。


 ちょっとこめかみを抑えて、髪にまつわるなにか俗信でもあっただろうかと考えてみる。


 けれども、信仰上の理由で僧籍に入る時に剃髪する以外は特に思いつかない。それは縁起うんぬんとは関わりがない筈だ。


「えーと、シリオン? 僕は髪に関する縁起はよく知らないんだけど、それは僕が十賢というのがばれる危険を放置してまで、大事にしたほうがいいものなのかな?」


 この国で人並でない長髪が歩いていれば、すぐに十賢とばれる。簡単に鬘でも作れない髪の長さは、この国では知の塔の重鎮であるいわば身分証明証なのだ。それだけの髪が必要となれば、うかつに騙りが現れる心配もないため、小さな町々にまでその風貌は知られている。


「当たり前だ!」


 けれども、シリオンはむしろアースの言葉を信じられないように一蹴した。


「そりゃあアースは女じゃない! そんなことはわかっているし、はげていても誰よりもきれいなのは間違いないだろう! でも、今日は駄目だ!」


「今日ってなにかあったっけ?」


 いくら考えてもわからない。まさか再会記念日なんて言わないだろうし、もしそうだったとしても、髪を切ったらいけない理由には思い当たらない。


 けれどもシー・リオンはそれこそ信じられないというように叫んだ。


「髪を切るのは失恋した日というじゃないか! いくら逃げるためでも、あまりにも縁起がよくない!」


 一瞬頭が遠くなるような気がした。


 眩暈がしてきそうなのを気力で持ちこたえたが、声から力が抜けてしまうのはどうしようもない。


「――ちなみに、その情報はどこから……」


 震える声で尋ねると、シー・リオンは納得してくれたのかと思いきや、どや顔をしている。


「例の戦士の女性が教えてくれた。髪を切るのは失恋をした時だと。だから髪を切った相手にそれを訊いてはいけないし、切りそうにしていたら全力で相談にのってやれと」


「あー……そう……」


 ――なんて、偏った情報なんだ!


 シリオンが女性に疎いとは思っていたけれど、身近な女性にどうもその肝心の原因の半分はありそうな気がする。


 ただでさえ、恋愛音痴なのに! 


 そんな女心から遠い女性と普段から親しくしているせいで、こうなってしまったのかと思うと、なぜかその見えない女性の影にまでイライラとしてくる。


「それに俺はお前の髪は綺麗だからもったいないと思う……」


 そっと髪を一房手に取り、唇を寄せられて、アースの中でイライラとしていた気分が突然吹き飛ばされた。


「なっ、なっ、何を!」


 ――待て待て。男同士なんだから、そんなに恥ずかしがることはない!


 そう思うのに、顔はなぜか熱を持ってきている。


「切らないでくれ。お前の髪一房だって、俺の前では傷つけられたくない」


 ――そういうのは女性に言え!


 そう思うのに、いつもは必要以上に働く頭がなぜかシリオンの碧の瞳を見つめているとうまく動かない。


「僕は女性じゃない!」


 思わずそう口から飛び出した。


 それなのに、シー・リオンは当たり前のように首をかしげている。


「男とか、女とかじゃない。俺はお前だから欲しい。お前だからこの手に抱きしめていたい」


 空にかかる月に持ち上げられるような気分だった。


 そのままシー・リオンの腕に抱え上げられると、まるで月光が唇に落ちるように柔らかくキスをされたのだ。


 ――シリオン……。


 触れて離れるだけの優しいキス。


 それなのに体を抱えている腕の熱さが、まるで夜の中で心に火を移していくように感じる。


 優しく笑んでいる碧の瞳を闇に濡れたような黒い双眸で見つめた。


 その時はっとした。


 慌てて、燃えていたたき火に砂をかけて消すと、シー・リオンの側に身を寄せ合い、気配を気取られないようにする。


 少し離れた街道を遠くから駆けてきた馬が、王家の旗印をもって森の中を通り過ぎて行ったのだ。


 遠くから迫ってくるその足音は不気味で、まるで地鳴りのようにアースの耳に届く。


 息を潜め、その後姿が遠ざかるのを見つめ、やがてほっとアースは息をついた。


「思ったよりも早いな」


 走って行った馬の旗印に気づいたシー・リオンが腕の中のアースを抱きしめたまま呟く。


「お前がいないのに気づかれたか。まさか俺まで一緒に、先に抜け出しているとはわからないだろうが」


 ふんとシー・リオンが不敵に笑う。


「大丈夫だろうか。ガルディさんや残った皇国の人たちは」


 けれども、心配そうに呟くアースにシー・リオンは安心させるように頭に触れると、ぽんと軽くたたいた。


「大丈夫だ。ガルディはあれで俺の不在をごまかすのには長けている。今頃影武者を使って、帰り支度を進めている頃だろう」


「うん……」


 自分のせいで、残った皇国の人たちが危険に晒されるかもしれないと思うとやりきれない。けれども、皇国の兵全てを連れて、王室への礼儀もなにもなく脱出することは不可能だった。


「安心しろ。こんなことは、陽動作戦では何度も経験してきている。この国の王家も帝国との全面戦争は避けたいだろうからな、俺が残っていることになっている以上迂闊に手を出すことはできん筈だ」


「そうだね」


 ふっと笑みをこぼすと、またシー・リオンの広い手がアースの黒い髪に置かれた。


「今夜はもう寝ろ。俺が側で見ている」


「だめだよ、シリオンこそ寝ないと。僕が見張りをしているから」


 そう言い返したのに、ふふとシー・リオンが含み笑いをこぼした。


「子供の頃と同じ、頑固だな。じゃあ、半分ずつで妥協してくれ。お前が先に休んでくれないと、とてもじゃないが俺も眠れん」


「わかった。真夜中に起きる自信はあるんだ。徹夜勉強の仮眠で慣れているからね。じゃあ僕が起きたら、絶対に寝ること!」


「寝れたらな」


 そう唇を一度髪に落とされた。


 ――結局、切り損ねたな……。


 それなのに、シリオンはその髪をひどく愛おしそうに唇で辿っている。


 その行為にまた心の中で、疑問が目を覚ました。


 ――本当に僕でいいのかな。


 誰がどう見ても自分の体は男のものだ。


 男だから、昔通りの友愛に戻ってシリオンを失いたくないのか。それとも、失わない為なら、同じ男のシリオンの恋情を受け入れる覚悟があるのか。


 どちらともつかず、アースは外套にくるまって横たえた体の目を閉じた。


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