なにとはなきにも

韮崎旭

なにとはなきにも

 つつがなきや。最悪な気分に申し上げることには、そちらは息災ですか。人に酒などを摂取させやがっているので当然元気でしょうね。最悪な気分に見舞われることがある。掻き出しても別段散開したりはせず、部屋の隅とか頭蓋骨のくぼみの薄暗い吹き溜まりに、よくいて、そして居座り続ける。最悪な気分に見舞われた時には選択肢はなく、物質で暴力的に最悪な気分に高揚した酩酊感を上書きして自身をだましている。気分の持ち主より、気分に問いかけるには、貴殿は健康上の問題はないのだろうか。当方には健康上の問題があって、というかむしろ山積みで、鬱とPDD(広汎性発達障害)と生存と鉄欠乏性貧血が併存してるものだから服用すべき医薬品には枚挙にいとまがないのであるが、それにしても薬が足りないと思う今日この頃だ。まず鬱が制御できていない。この文章は酔った状態で描かれており、制御できるような鬱ならそれはもう鬱でもない何かだと断言してしまいそうなほど、鬱には振り回される。自殺に関する意識が頭を離れず、一人では早におとなしく座っていることができないのではないかとの危惧を抱くほどだ。ために多くの生活が滞り、というのも生活の多くの部分は人間が一人でいるからであり、しかも他の人間が生活に混入・混在してくるとその侵襲性・騒音に頭痛や重い苛立ち、いうなれば殺意の身体的表現を抱くから、体調をよく保つためには一人である状態を保たねばならず、かといって一人でいれば考えることなど何もなく何も考えてまさしくいないにもかかわらず、対象のわからない悲観的な気分にからめとられ、鬱に沈み、とかく自殺と死について考え続けるばかりである。しかし生きていないと自殺はできないのでなどと修辞を弄するのも結構ではあると思うのだが、ここでは一応自殺への態度はニュートラルにたもっておきたいと思っており、したがって、自殺について考え続けることは災害とみなしている。別に食事でも性行為でもいいが、何かについて考え続けなくてはならない羽目にまるで外部から強要されでもしたかのように陥るのははなはだ厄介だし、問題は、私が主体的に。好意的に。意気揚々と。正常な判断力のもと。自殺に関して考えているわけではなく、自動的に自殺について考えられていることなのだ。放置すればうかつな行動をするかもしれない。私は外聞にとらわれた人間だから、うかつに自殺未遂・未遂などをするのは避けたかった。どう考えても致死性のない過量服薬で時間を飛ばしたりなどを無目的に行いたくはなかった。しかし私はいま、それこそアルコールとかカフェインとかで酔っていないと落ち着いて文章を書くことすらできない状態にあるし、それはおそらく落ち着いているとは呼ばれないだろうことが想像される。だが私は自分の書くものが恐ろしいし、それは自身が、ひどく不当なものを書きはしないかと、意に添わぬ、考えても見ぬ、全くの異物を、生み出しはしないかと、危惧しているためでたぶんある。私は知らぬ間に、自分で読んでもいかがわしい文章を生み出して、その内容というか無内容に落胆し、より一層ひどい鬱に陥り、なんとかかんとか普段のルーティンである「書くこと」によって日常の恒常性を保とうと試みて、それが意に随い行われず、そもそもそんな意欲もなく、しかしまあ意欲がなくとも座ってパソコンの画面をのぞき込んでいればこのひどい気分もましになるのではないかと考えはするが、そんなことは特にない、いや、実態としては、何かしら頭を使わない閲覧……ファッション誌のななめ読みのような……で気を紛らわすことはできそうなのだが、もしくはいわゆる「病んだ」SNS投稿、ブログ、創作、などなどの閲覧……などで改善は多少する気がするが、改善というより弱い麻酔なので、時間は殺すためにある。時計の長針と短針のあいまいで不整合な音楽かダンスは、時間の轢殺を体現しており、それはもれなくアウグスト・ハートマンの手記にも表れるような架空の、だが確実に繰り返す、しかしなお存在の非定型に込み入りながらかき分けてゆくような短期間の、回帰的な、幻視または俗語的にはトリップの、性質を表してもいるといえる。問題なのは平衡感覚のありようをいかに書き記すかではなく、自身が平衡感覚の中にありながらそれを部外者のように観察する安定的な機構を個人が行使する可能性だ。はるかに隔離された伊藤病院3号棟においてもことは同様であり、それはこの地域の精神医療の問題を克明に記しながらも当世風な記述に織り込まれがちな遍在性の不在に関して言及していた。かくして密教美術の教本を探すことになり、私は3日ほど離れることとなったのだが、それははるかに強い不安と情緒不安定の隙間を通り抜けるような困難であり、海水から、ウランを取り出すような道のりに思えたのかもしれない。確かに得るのは、ここ数日全く調理してないってことと、食事に煩わされているということ、食事と性行為の関連付け、モチーフ同一視、並列、などからそれらすべてへの嫌悪に関する表現の繰り返される様式が一定のテーマとして全体に通底していたことであり、それはほどなくして人間への嫌悪を読み取るのを容易にさせるに違いなかった。いずれにせよ、これらの共通のモチーフ……粘膜等……のグロテスクな強調と、その繰り返しは、観る者に一定のメッセ―ジを伝えているはずだったし、時間の中に置くことなどできず、ただ時間を書き散らすだけにとどまるような短命な記録の行く末はやはり生物事態の短命と、其れとは何の関連もない軽薄に結び付けられる。それでここにいるというのであれば、明らかに不確かな舗装道路の端に座って『ゴドーを待ちながら』を読まないでいるようなもので、こういう時には、『名もなき孤児たちの墓』が適していると相場は決まっており、しかし行先も当然霊園というわけにはいかず、慢性的に悪化する、長期的に見れば下り坂の症状は私に常に医薬品の管理に関して考えさせた。


 しかし、だからといって、明日作るオムレツがおいしくなるなんてことは当然、起こりえない。

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