さいごの帰郷
戸 琴子
第1話 11歳
窓のそとは一面に水の景色だった。静かで美しい。僕が見ている後方に弱い太陽があるので、こまかな波のうえに電車の影がゆれた。色の薄い影だった。
水平線まで記憶が層になって、だんだんと沈んでゆくのだった。電車は、僕の田舎へ進んでいた。車内まで青でいっぱいになった。
同乗客はすっかりいなくなっていた。それだから無理にくつろいだ。先の駅から目的の終着駅まで、僕一人だった。レールのきしみだか海風だかが窓をならした。
けたたましいブレーキ音が通り過ぎる。とたんに速度を遅めた電車はゆらゆら走って、ようやく駅に到着した。ずいぶんと長い時間走った。僕の席はすっかりへこんでいた。けさの早朝宿をでて、すぐに乗り始めたのだが、すっかり夕暮もむかえようとしていた。午後の匂いに満ちていた。
僕は駅に立つ。前に東京にでるために使った駅とは違う。片手に鞄だけを持つ僕をおいて、電車は行ってしまう。悲しい無人の駅には、久しぶりの妹が待っていた。右手は左の二の腕をよわく掴んで、とてもほそい肩幅だった。この国がせおった悲しい脆弱さが、村とともにそこに暮らす彼女にも反映されていた。
「ずいぶん変わったでしょ、この村」
と、あきは申しわけなさそうに笑った。
僕が最後に見たときはボブヘアだったのが、まっすぐ伸ばしたのをお団子にして顔は幼いながらに大人っぽい雰囲気を身に着けていた。
「ああ、半分ね」
「そう。下もそうだけど、上も変わっちゃったの」
「そうなのか」
「マイナーチェンジだけどね」
妹が荷物を受け取ろうとするのを断って、駅をでる。それから僕は、ふりかえって水を見た。遠くに山であった所が、ぽつぽつと、島になっている。そこに急ごしらえの長い橋が架かる。銀色にみえる無数の波の反射が、砂のように輝いた。それは空と対照的だった。
僕はようやく村をのぼる坂に足を踏み入れる。
「なんだか、天国と地獄に別れちゃった、みたいな」
となりを歩くあきは、うしろで指を組んで、肩を揺らしながら歩いた。なつかしそうだった。
「ぼくらは天国に住む民かい」
「ううん。下が天国。あの広かった家も水の下……。おかげで私たちも資産家でも何でもなくなっちゃった」
「僕の天国と地獄の話、あきにしたことあったっけ」
僕は唐突に話を変えた。
「なにそれ」
あきは少し背を伸ばした。彼女も学問や論が、昔から好きだった。
「僕にとっての天国と地獄論。僕は天国と地獄について一家言をもってるんだよ」
それは僕が十一歳、
「つまり、あきが……」
「まだ七歳」
「その頃のはなし」
十一歳のころ、僕は当時まわりの友達数人と一緒に、森や川や下の街の裏道を探る探検じみた遊びをよくしていた。
ある時は森に這入って貴重な昆虫を見つけたり、湖にもぐって沈んだボートを見つけたりした。その一環で、その日僕たちは阿黄山を越えた裏にある小さな無粋な山、「いしやま」と呼ばれている場所を訪れたのだった。玄武岩質の茶色い山で、頑強な木はなく、たいていが丈の高くない草か、先の細い枯れた木で、それだけにひそかに咲いているスミレやハルジオンやなんかの小さな花がよく目につくような景色で、春はわびしい美しさだった。とても固い山。堅い地面。砂っぽい道はざらざらする。岩壁に手をつけて、細い足に力をいれて登った。
いつもの折り返す一本松のある地点で、水筒を呑んだり家族の話をしたり、僕たちは小さな木蔭の暗い坂に腰をおろして休憩した。とても窮屈だった。陽の強い日だった。一本松の陰も真下に落ちていた。弁当は持ってるものとそうでないものまちまちで、持ってないものは分けてもらった。僕も友達におかずをもらった。
いよいよ帰ろうかという時、ひとりがもう少し行こうと提案をして、僕たちはそれに賛成した。そして今まで行ったことのないその先の道へと進んだ。
「それってお兄ちゃんが帰ってこなかった日?」
「そうだよ。キノコを見つけた僕は、それを見ているあいだにみんなとはぐれたんだ。そしてみんなが上の道へ行ったのとあべこべに、下に道を見つけてしまった」
「ふーん」
あきは僕の顔を見て続きをうながした。
はぐれたみんなを追っかけて行ったさきは、道がふたつに別れていて、上に行く砂の道と、下にくだる木の道とあった。木のほうから音が聞こえた。僕はそちらを選んだ。
森の中は異様に冷たい。バランスをとるため手をつく石もよく冷えていた。木の根が浮き出て、足で踏むのに苦心した。右はそり立つ崖で、左は落ちてゆく坂である。靴にぶつかった小石がかわいそうに転がっていき、木などにぶつかるのを何度も見た。
そのとき、太陽が雲に隠れて、あたりはとたんに暗くなった。太陽ののぼらない前の朝のようだった。木がすべて影になった。僕は驚いて立ち止まり、それからいくらか危険になった自然の道を、ゆっくりと歩くことにした。
少し行くととても低い小さな滝があって、よろよろと岩目を伝い、その水はそこから丸い石でできた自然の水路を流れていた。
洞窟を見つけたのは、その小川を渡った少しあとのことだった。
入り口は自動販売機くらいの大きさで、中を見据えようとすると目がじんじんするほど暗かった。もし手に星のように白い紙が一切れあったとしても、中にいれるとすぐに黒くなって見えなくなってしまうだろう。恐怖じみた洞窟だったが、僕がそれを見つけると同時に太陽をさえぎる雲が薄まり、にじんだ陽の光がそこらに降りてきた。おかげで洞窟の入り口のすぐ足元だけが見えるようになり、それによって恐怖心のうすまった幼い僕は好奇心が勝りその中へ足を踏み入れた。
なかはほんとうに何も見えない。壁に手をついて、知らず知らずに進んで行く。中の空気は湿っていて、水たまりもあるらしく、靴に冷たく染みてきた。壁も手をつくと古いドーナツのように崩れて、なんだか朽ちかけの死骸の口からはいって内臓のなかを歩くように感じた。まさにそのように奥からひゅうっと凍った風が吹き出てきた。
長く一本路だったが、とつぜん右に折れ、次は左、そしてまた左、右、右と進んだ。そしてその先に、強烈な光があった。
ほんとうに強い光だった。目が眩むというところではない。いちめまっ白に輝いていて、どこが右で上で左で下か、方向を失うほどだった。
「それがどうしたの?」
「つまりだね、暗すぎるのも明るすぎるのも、結局として両方何も見えなくなってしまうんだ。結果おんなじ」
「天国と地獄もそうだってこと?」
「そうだろうね」
「具体的にはどういうことなの」
「天国はまさに極楽、苦しむことの何一つない場所。地獄はその逆で苦しむことしかない場所で、そこに幸せなんて欠片もない。だとするだろ」
「だとすると、どうなの」
「そんなことってありえないんだ」
さきに見える黒い山をみた。山を見るとき僕は、いつもそれが恐竜なんじゃないかと疑ってしまう。
「さっきだとしたじゃん」
あきは僕の肩を叩いた。僕が「だとした」ことを裏切ったことに切り込んだのだ。自分で前提を作っておいて、それを崩すのは確かに勝手なことだった。
「だとしてもだよ、そんな環境はありえない。地獄ったって、そこで暮らしているとちょっとくらいの楽しみは生まれてくる。天国だってそうだと思うよ、そのうちつまんなくなってくると思う。どっちに行ったって、結局行きつく感情は同じなんじゃないかな」
「どんな感情?」
「それは知らない。行きついたことがないから」
「なーる。じゃあ一番つらいのはこの世かもね」
あきは時折、僕と話しているときうまく諧謔を作ろうとする。
「一番かな?」僕は笑った。「それで幸せなのもこの世なのかもね」
「幸せかなあ?」あきは腕を組んだ。「うん、そうだ。ちょっと時間あるから、その洞窟行ってみたい。行ったら危ない?」あきは嬉しそうに聞いた。「ここから遠い?」
「三十分もかからないよ。行ってみようか」
山はいつか起き上がって、そしてたくさん歯の生えた大きな口で世の中を飲み込んでいく。今は眠っている恐竜。僕はそれが恐ろしくもあり、心のどこかでそれが起き上がるのを望んでいるのだった。
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